二 青春の像 2
宿題を忘れた。
よりにもよって、明日提出の化学の実験レポートを忘れた! 一時間目だから、休み時間にやっちゃうこともできない。ああ、さっさとやっておけば良かった。このままじゃ先生にネチネチ言われてしまう。
正門はもう閉まっている。でも乗り越えられないことはない。というか、乗り越えなくちゃいけない。
夜の学校ってちょっと怖いけど、パッと入ってパッと出てくれば大丈夫だよね。まるいお月さまのおかげで明るいし。
門の金棒をにぎって足をかける。そして止まる。しまった。律儀に制服なんて着てくるんじゃなかった。スカートでのぼるのは……。
いや、誰も見ていない。
勢いをつけて飛びついて、のぼり棒の要領でなんとか上までのぼって、一息つく。スカートのすそがめくれて、ふとももがはしたないことになってる。本当に、だれもいなくて良か……。
いた。あの白い犬が、正門の向こう側からじっと見ている。
「なに見てるのよ」
あっちへ行ってよ。犬でも、見られるのはイヤ。そんな気持ちが伝わったかのように、白い犬はまたフイ、とそっぽを向いて行ってしまった。あ、しっぽがないんだ、あの犬。
校舎の陰に消えていく姿を見送っていると、後ろから声が聞こえてずり落ちそうになった。
「善部さん? なにしてるの?」
今日、何度も頭のなかで繰り返した声。
「木津くん? なにしてるの?」
「それ、俺の質問なんだけど……」
ちらりと木津くんの目が、足に走ったのがわかった。あわててスカートをととのえる。というより、降りたい。けど、絶対に見える。
「わたしは化学の宿題を取りに来たの」
「もう九時まわってるのに? 一人で危ないじゃん。それくらいなら明日の朝、早めに来てやったほうが良くないか?」
ムリ。絶対ムリ。朝なんてなんにもできない。遅刻しないようにするだけで、精一杯なんだから。
でもそんなこと、木津くんに言ってもしかたがない。
「そういう木津くんは? まさか宿題忘れじゃないよね?」
「まさか。宿題は学校でやっちゃったよ。俺は携帯忘れたの。今日喰い放題に行ったんだけど、そこで他校のやつと意気投合してさ。カラオケになだれ込んだんだけど、携帯忘れたのに気づいたから抜けて来たんだ」
ということは、また戻る気だ。こんな時間なのに。〝他校の子〟は、たぶん女子なんだろうなあ。まあ、わたしにはまったく関係ないけど。
それより、この状態。
「木津くん、ちょっとあっち向いてて」
「あ、悪い」
すぐになんのことか分かってくれたみたいで、木津くんは背中を向けた。飛び降りるとき、スカートがありえないくらいめくれた。
「もういいよ」
木津くんもよじ登るのかな。男子はズボンだからいいよね。
なんて思ってたら、木津くんは予想外の行動に出た。つまさきで角度をつけながら棒を蹴っていくと、あっさりと一本が音をたてて外れてしまった。
「ここだけ外れるんだよ」
ひょいとくぐると、木津くんは手際よく戻した。ぱっと見、そこだけ外れるなんて絶対に気づかない。
「壊しておいたの?」
木津くんは本気で嫌そうな顔をした。
「俺じゃない。ずっと昔のヤツがやったって聞いてる」
「なんで、そんなこと知ってるの?」
「だって俺、ザッケンだから」
ザッケン。その名を雑草研究会。古くからある同好会なのに、会員がいつも十人を下回るため、部に昇格できないらしい。
主な活動は、校内の草花の分布図の作成だという。なかなかハードだ。そうか、木津くんの日焼けはそのためなんだ。
だけど、あちこちをすみずみにまわることから、会員はあらゆることに詳しいと聞いたことがある。歴代校長のお宝の隠し場所とか、女子更衣室の裏にあると噂される隠し部屋の扉とか……。
そんな話、冗談だと思ってたけど、今の木津くんを見てるとあながち間違いでもない気がしてくる。
「と言っても、俺はまだ一年生だから、ほとんど知らないけどね」
「……不法侵入の方法を知ってるだけで、十分だと思うよ。あれ? どこに行くの?」
木津くんはわたしとは反対方向に歩いてる。
「玄関が開いてるわけないじゃないか」
たしかにそうだ。ここは慣れた人に続くべき。木津くんは、教室の窓に立った。
この学校は一階は三年、二階は二年、三階は一年生の教室になっている。若いほうがたくさん歩けということかな。
「一番右、こぶしの三個分下、強く三回、弱く三回、プラスてきとーに三回」
呪文のように言いながら、木津くんはそのとおりに窓をたたく。すると鍵が振動でまわって、開いた。開いちゃったよ。
「うちの警備、こんなにゆるいの?」
「強くはないんじゃない? お金なくて四階建て増しできなくて、あんな中途半端になってるんだし」
夜の空のなか、そこだけ変にぽこっと突き出している社会科資料室のあたりを木津くんは指差した。
「それにしたって……」
「どうせ県立だから、たいしたもんなんてないよ。うちの県、貧乏でケチだからお金くれないしね」
カラカラと窓を開けていく。木津くんは身軽になかに入った。わたしはと言うと、スカートを気にしちゃって、どうしても不恰好になる。
校内は土足厳禁だから、二人そろって手に靴を持つ。こうしてると泥棒みたい。
木津くんはわたしと一緒にいるというつもりはないみたいで、一人で先に行ってしまう。夜の教室は不気味で、慌てて後を追う。
歩幅が本当にちがう。待って、と言いたいけど、そんなこと言える立場でもない。なんだか泣きたい気分になる。暗いせいだ。
それでもほとんど二人同時に三階の教室にたどりつくことができた。明かりをつけるとまぶしくて痛い。
わたしが目をこすってるあいだに、木津くんはさっさと探し物を見つけてしまう。
「あったあった。あー、携帯ないと本当に不便だ」
化学のレポートは机のなかのクリアファイルに入っていた。真っ白で、家に帰ってからこれをやらなくちゃいけないのかと思うと、うんざりする。
「へー、善部さんて、下の名前が〝タン〟って言うんだ。変わってるね」
ファイルに書いてある名前を覗きこんだ木津くんが言った。すぐに行ってしまうと思ったけど、待っててくれたみたい。
「この〝丹〟は〝マコト〟って読むの。赤い色って意味なのよ。ほら、丹頂鶴って、頭のてっぺんが赤いでしょ? だからこの字が使われてるんだよ」
「ふうん」
興味なさそうな相づち。たしかに木津くんにとってはどうでもいいよね……。
「電気消すよ」
音ともに、まわりが真っ暗になる。なにも見えなくて、急に不安になる。
「き、木津くん、木津くんっ」
わたしは机にぶつかりながら、木津くんのいるあたりに近づく。そのままの勢いで、背中にぶつかった。まただ。
「ご、ごめん」
気配で振り向いたのが分かるけど、どんな表情をしているのかは見えない。だから謝るしかない。
「本当にごめんね。痛かった?」
「痛くないけど、ウザイ。狙うなら、もう少しおもしろいのにしたら?」
だから受け狙いじゃないのよ。あんまり言われると、ちょっと腹が立ってくる。
「たしかにわたしの不注意が悪いけど、そんな言い方しなくたって。木津くんって、きつそうじゃなくて、本当に性格きついよ」
暗闇に慣れてくると、目のまえの木津くんの不機嫌そうな顔が見えた。慣れないほうが良かった。
見てられなくて、窓の外を見やる。あれ、なんだか、なにか動いてる……?
「木津くん、ちょっと……」
「なんだよ」
むすっとした声音で答える木津くんの袖を引っ張る。
「だれか、いるみたい」
「は? こんな時間にいるわけないだろ」
そう言いながら窓辺に寄る。人が三人、走ってるのがわかった。
「……ほんとだ。なにか言ってるみたいだ」
窓を開ける。校舎に反響した声が、よく聞こえてくる。
『彼女の写真は、俺のものだよ』
『いーや、俺のだ。ひっこんでろ』
『だれがおまえたちなんかに渡すもんか』
三人の人影は、宙をつかむように腕をのばしている。
その姿はまるで────
背筋の産毛が、一瞬にして逆立った。
「き、つくん。青春の像が、ない」
土台はある。だけど、その上で希望やらをつかもうとしていた三人の男子の姿はなかった。




