五 廊下を走ろうか 3
追いかけてくる気配はなかったけど、わたしたちは必死で走った。みるみるうちに廊下の端が近づいてくる。
壁にぶつかる!
足が止まらなくて、目を閉じた瞬間、ぎゅっと抱きしめられた。鈍い衝撃を感じたけど、痛くはなかった。木津くんがかばってくれたおかげだった。
廊下を見やると、もう誰もいなかった。だけど木津くんはまたすぐに走り出そうとする。
「待って、木津くん。お願いだから、待って」
情けないけど、わたしの足は怖さと疲れでひどくふるえてしまっていた。
「大丈夫か?」
「うん、ありがとう。ちょっと膝が笑っちゃってるだけだから」
言い終わったとたん、膝がぶるぶるっとふるえた。
『ひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!』
『うひゃひゃひゃぁっひゃっは!』
わたしの両膝が、けたたましく笑い出した。慣用句とか、そんなんじゃない。本当に口ができて、笑ってる。
「なにこれ!?」
なんでこんなのができるの? うそ、どうして? 取ろうと指が触れた瞬間、鋭い歯でかまれそうになった。
「やだやだ、笑わないで!」
「丹、落ち着けっ」
木津くんが見てることに気づいて、恥ずかしくてどうしようもなくなる。涙が止まらない。こんな姿、見られたくない。
「木津くん、わたしを置いて行って」
「は? なに言ってるんだ」
「お願いだから、置いて行って。わたしもお化けになっちゃった」
こんな膝のまま、だれにも会えない。木津くんのそばにもいられない。
「とにかく落ち着け。なにか方法が……」
『ないない! ひゃひゃひゃひゃっ』
『一生このまま! うひゃぁっはっ』
こんな耳障りな笑い声、聞いたことない。それが自分の膝からしてるだなんて。
「黙ってよ!」
クリアファイルを押し付けて膝を抱える。声はすこしも小さくならない。惨めだ。身体を縮こまらせる。このまま消えちゃいたい。
「……もしかして」
木津くん、まだいたんだ。なにかをつぶやいてる。
「丹」
握りしめていた手をとられた。
「離してよ。もう行ってよ」
「離さないし、一緒に行く。そう約束しただろう? 俺は約束は守る」
「守らなくてもいい」
「守るってば。だいたい、こんなところに、丹を置いていけない」
また涙が出たのは、木津くんのせいだ。
相変わらず笑い声は息をつくことなく続いていてうるさいのに、木津くんの声はわたしにしっかりと届く。
「俺の後につづけて言えよ。歩きつづけて」
「……歩きつづけて」
「つかれた」
「つかれた」
なんなのかわからない。でもわたしは木津くんの言葉を繰りかえした。
「おかげで足が」
「おかげで足が」
膝の笑い方が変わった。蛙の声みたいなブーイングをしている。
「棒に」
ああ、そうか。膝たちは威嚇するように歯をガチガチ鳴らしている。これを黙らせることができるなら、かまわない。
「棒に、なった」
ぴたりと、笑い声がやんだ。




