九話― 人<前編>
「そ、それじゃあ、そいつが自分の体を傷付ければ、私は助かるんだな?」
先ほどから同じ質問を何回も繰り返す寺山以外、喋る者はなかった。ミキの返答は決まって、「そうですよ」の一点張りで、面倒くさそうにするわけでもなく、むしろ楽しげな響きさえあった。
安西は押し黙り、森口は鼻血を止めようと、躍起になっていた。
ぼんやりとした不安が、画面を見つめていた遼を襲う。
目を。
耳を。
指を。
自分の手で、破壊しなければならない。あって当たり前だったものを、他人のために壊さなければならない。いいようのない怒りが、遼の頭を駆け巡る。
なんで俺が、他人のために!理不尽だ!不公平だ!
それは、強い決意の裏表。ミキに負けたくない思いと、遼のなかに残る“人間らしい部分”が、絡み合う大蛇のようにぶつかりあっていた。
寺山の目障りな質問責めを聞いているうち、遼は、あることを思った。
「どこを傷付けると、誰が助かるんだ?」
そして、遼は、聞いてしまった後に後悔した。
助ける優先順位でも決めようってか?こいつを助けたら、次はこいつ。こいつは最後でいいだろう。そんなことがしたかったか?
遼に、命に順位なんてつける気はない。なぜなら、それもまた、自分のことしか考えられない人の醜さと、似通った部分があると思ったからだった。それなのに、それを聞いてしまっては、無意識のうちに自分は優先順位をつけてしまうかもしれない。自信はなかった。
いまの質問を止めにしようとした矢先、ミキは無情にも答えをくれた。
「いい質問だ。答えよう。こいつが――」
ミキは、肘をついているほうとは逆の手で、寺山を指した。
「指だ。しっかり切らないと、殺しちゃうからね。そして、次が――」安西を指して、「眼球だ。しっかり貫けよ」
ミキは、まるで魔法の杖でも振っているように、それぞれの人物を指していった。
「最後が、耳だ。頑張って助けてね」
森口を指して言うと、ミキは魔法の杖を机の上に戻した。静けさが、二つの部屋を満たしていた。
10分後。
遼はいろいろな思いにふけっていたが、動き出した。
自分を壊す道具の調達。これが、いますべきことだった。
時折あふれ出そうになる涙をこらえながら、遼は机の下に転がっていた、血のついたシャープペンを拾う。目はこれでいいだろう。
次に、指と耳。こちらは、どちらも切ればいいので、ミキにこう聞いた。
「台所、行ってもいいか?」
うなだれていた三人の顔が上がった。その目に、疑問と期待が浮かんでいる。
そうだよ。あんたたちを助けるんだよ。
「あぁ。許可しよう」
遼は歩いていき、台所の棚を覗いた。そこに、親がだいぶ前に送ってきた、調理器具一式がつまっている。使われた形跡のないそれを見て、遼は胸が熱くなった。やめろ。親のことなんか、考えるな。いまとなっては、障害にしかならないのだから。私情を捨てろ。捨てろ。捨てろ。遼は、包丁を取り出して、居間へ戻った。
武藤との一件で、机の上にはほとんど物が乗っていない。しかし、遼は、それでも、ぴったりと机に張り付いているわずかな広告まで、すべて落としてしまった。そこに、握っていたペンと包丁を置く。遼は目を閉じ、軽く深呼吸した。再び目を開けると、教壇に座るのっぺらぼうが、なぜか笑っているように見えた。
先に……目。目は、安西。いや、違う。誰でもいい。順番なんか糞食らえ。全部やるんだ。全員救う。こいつの思い通りなんかには、ならない。
遼は唾を飲み、床に腰を降ろした。とりあえず、邪魔な物をどかして、スペースを作ろう。怠けた思い出しかないソファを後ろの壁まで押し、机もテレビのスタンドに着くまで押した。その他、ゴミも適当にどかしてみると、遼を中心に、空気を入れるだけで完成する家庭用のビニールプールほどの面積ができた。そして、とうとう作業に取り掛かろうとした矢先、遼は携帯が床に転がっていることに気付いて、充電コードにからみ付くゴミを払いのけながら、いまは殺風景となった机の片隅にコトリと置いた。
再びスペースの真中であぐらをかくと、遼はもう一度深呼吸をした。右手をのばし、シャープペンを掴む。武藤の時とは打って変わって、ペンを掴む手がガクガクと震えていた。遼はゆっくりとペン先を天井に向けて、テレビと自分との間にそれを挟んだ。
血のこびりついたシャーペン。血の向こうには、なにも見えない。
あの年の春。夏。秋。冬。自分を大学合格へと導いてくれるはずだったそれが、いまや凶器でしかなくなっていることに、遼は悲しみを感じずにはいられなかった。
お前は……おれを救えなかったけど……あの人は、救えるんだよ。
そのペンの向こうには、安西がいた。
ペンの矛先を、天井から自身の目へと変える。そういえば、どっちを刺そうか、なんて考えてみる。視力が、左眼がCで、右がBだから……左眼か。そんなことを思ったりもしてみせる。しかし、どんな余裕を自分に見せたところで、重すぎるプレッシャーにかなうはずもなかった。
矛先を、左眼へ。掴む右手の震えが止まらない。なにか、妙な殺気を感じる。このペンからだろうか。どちらにせよ、気のせいと言うほかない。シャープペンとにらみ合っているうちに、震えが一層増してきたので、遼は左手もそこに付け加えた。中途半端が一番いけない。一気に、ぐさりだ。息が、毎度のように上がってきた。
ついに遼は意を決し、10cm先に見えるペンを、一気に自分に向かって引いた。
しかし。
「遼っ!!」
ビタッ。わずか数ミリというところで、ペン先が遼の目に触れることはなかった。肩が激しく上下し始め、遼はペンを取り落とす。
良かった――。この言葉だけが、いまの遼の気持ちを表すのにふさわしかった。
「遼……。遼……。聞いてくれ」
ペンを握っていた震える両手を見ながら、遼は無意識にその声が安西のものとわかっていた。そして、声が安西のものとわかると同時に、遼は感謝を目の中に込めてテレビに映る安西を見た。
ありがとう、安西先生。
その一方で、遼はきちんと、この逃げ場のないレールの上に、自分が立ってしまったことを覚えていた。
ありがとう、安西先生。でも、やらなくちゃ――
そう、携帯に向かって言おうとした時だった。
「遼……。気持ちはわかる。でもな、頼むよ。はやく、目を刺して、先生を助けてくれ」
遼は安西の顔を見た。焦りと怒りで満ちているように見える。
「はやくしてくれ。目の一つや二つ、大したことないだろう?もしかしたら、直るかもしれない。よく考えてみれば、軽い傷かもしれないぞ。現代の医学はすごいらしいからな。詳しくはわからんが……。
なぁ、遼、先生にも家族がいるんだ。先生が死んだら家族はどうなる?お前の目が無事で、先生が死んで。こんなのおかしいだろう?不公平だろう?遼の命より、先生の命のほうが大切だろう?……だから、さっさと、目を刺せっ!!」
先程の遼の質問が、なにかの歯車を動かしてしまった。
やめて。先生、やめて。壊さないで。俺の中の先生を、壊さないで。先生はそんなひとじゃない。そんなこといっていいはずない。先生を信じてる――
……ミキが、立ち上がった。