八話―三人と三ヶ所
寺山光義。画面向かって左側、遼の母校の校長。上等なスーツを着込んでいるが、いまもこの中学で校長やっているのかどうかは不明。絵に描いたような偽善者で、口癖は「ルールを守る」「努力すれば夢は叶う」「生徒達は私の子供」などなど。朝の挨拶はもはや独壇場と化し、寺山のオナニー演説をまるまる20分以上も聞かされる生徒達はうんざりしていた。その綺麗事の裏に、どれほどの醜さが隠れているのかは、逆の意味で想像し難かった。
椅子にしばりつけられた寺山は、脂汗を顔中ににじませていた。口をぎゅっと結び、目をかっと開いている。巨大なイボガエルそのものだ。
「校長先生。いいですか。このカメラの向こうに、あなたの学校の生徒だった、倉田遼くんがいます。あ、あなたにとって生徒は子供でしたね。失礼失礼。あなたの子供、倉田遼くんですよ」
いつの間にか寺山の後ろに移動していたミキが、腰を軽く曲げ、のっぺらぼうを寺山の耳に近づけていた。ビクンと電気を流されたように反応した寺山は、あの頃あった偉そうなそぶりを一切見せず、背筋をピンと立てて硬直した。目だけがぎょろぎょろと魚のように泳いでいる。
「ほら、声を聞かせてあげてくださいよ、校長先生。親子の四年ぶりの再会ですよ。遼君、喜ぶだろうなぁ」
ミキはわざとらしく言うと、左手に持っていた刀を床に置いて、携帯を持ち替えた。三人が一瞬―――遼の名前が出たとき―――なにか、落ち着きがなくなったように思えたのは、気のせいだろうか。ミキはそのまま優しく、寺山の耳に自身の携帯を当てた。彼は不潔なものが当たったかのようにぞわりと肩を上げたが、恐怖からか、顔を遠ざけるということはしなかった。遼の携帯から、汚らしいガマガエルの息遣いが聞こえ始める。
「あれ?なにもお話しないんですか?」
これがなにかのテストだとでも思ったのだろう。寺山は口をぱくぱくさせ、よくわからないことをぶつぶつ言っていたが、それがやがて意味を持っていった。
「そ、そんなやつ、し、知らんぞ!そ、そいつがげ、原因で、わたしが、こんな目に、目にあっているのだとしたら、飛んだめ、迷惑だ!」
携帯越しでも、こいつの加齢臭を含んだ口臭が伝わってきそうだった。遼は寺山に嫌悪感を持った後、なぜか自分に対しても嫌悪感を持った。……あぁ、俺も臭いか。
寺山と同じなことに遼がやりきれない思いでいると、ミキはなにもなかったかのように寺山から携帯を離した。寺山は助かった、というように、息を大きく吐いていた。ミキは人差し指と親指だけで携帯をもち、付いた唾をローブでふき取ったあと、言った。
「で、次が君の学年主任だった……」
ミキはそこから2,3歩ほど歩き、今度は中央の男の後ろで止まった。ミキの歩く姿は、幽霊のようだ。体が上下せず、足元がスーッと地面を滑っているかのよう。
「安西守先生だ。人望が厚く、生徒からの人気はピカイチだったね。いくら教師が大嫌いなきみといえど、安西先生は嫌いになりきれないところがあっただろ?」
安西はせわしなく後ろを気にしていたが、ミキがなにも言わずに携帯を彼の耳に押し付けた。
「どうぞ、安西先生。倉田遼君ですよ」
安西は寺山のようにビクつくことはなかったが、荒い息遣いだけは同じだった。
少し迷ったように顔を動かしたあと、やがて安西が喋りはじめた。
「りょ、遼か?」
ドクンと脈打つ心臓の音。急に遼のなかに、なにかよく分からない熱いものがこみ上げてきた。カメラを見つめるかミキを気にするかを迷っている安西を見ていると、いま、自分のことを名前で呼んでくれた安西を見ていると、遼のなかで先程確立されたばかりのものが、さらにその強度を上げていく。
「……そうです、先生。俺です、倉田です」
言っていると、なぜかわからないが、あの日の安西の一言がフラッシュバックされていく。
"遼。お前、なにか先生に隠してることないか?"
助けたい。
安西がカメラを見つめたまま、ミキに対して、「彼と話しても?」と聞いた。遼からすれば、安西の未知数の敵に対して話し掛けたという行動は、驚くべきことだった。声は震えているので、やはり恐怖があるしかったが、それでも遼の安西に対する尊敬の念は高まった。
「えぇ、どうぞ。あなたは、本当に生徒のことを心から思ってましたよね。今でもそれは変わらずだ。それは、倉田遼くんをきちんと覚えていることで証明されている」
電話の遠くから伝わってくる(恐らく遼にも届くように大きな声で喋っている)ミキの言動には怪しげな雰囲気がないでもなかったが、彼の情報力に関してはこれまで幾度も証明されてきた。それに、ミキの言っていることを嘘だ、と言う気も起きない。
安西が喋り始めた。
「遼……。一体、我々はいまなにが起こっているのかよくわからない。とりあえず、よければ状況を説明してくれないか?」
遼は困ったようにミキを見た。勝手に喋れば彼らがなにをされるかわからないし、下手をすれば殺されるかもしれない。遼にとっても、ミキという存在は未知以外の何者でもない。
「そんな困った顔をするな、倉田遼。それは僕が話すよ。これは"必要なこと"だからね」
今までにないケース。
ターゲットは複数。ミキは最初から画面に映り、ターゲットの前にその姿をさらしている。
ミキが今言った、必要なことというのがなにか関係しているのだろうか。
それからミキは、このゲームの説明を始めた。遼が自身の身を傷つけられればターゲットは助かるということ。傷つけられなければターゲットはミキに殺されるということ(向こうの空気が一瞬にして深海と化した)。もし遼がゲームを放棄すれば、これまたターゲットになる予定の人物が全員殺されるということ。
遼の自由に関してのルールが述べられた後、ミキは「聞こえましたか?」と三人に向かって聞いた。安西は少し黙った後、かすかに頷いた。寺山は自分の置かれている状況がとてつもないことに気付いて、ネズミのように細かく動き、馬のような鳴き声を上げ、そして目に涙を浮かべていた。寺山を見たときは、さすがに遼もこの男が哀れに思えた。
そして。
「あなたは、聞こえましたか?」
画面向かって右側。投げ出された椅子に縛り付けられた男は、微動だにしなかった。顔を床に押し付け、じっとしている。かすかだが、その床のあたりに鼻血と思われるものが広がっているのがわかった。
「聞こえ、ましたか?」
若干の苛立ちをふくめたミキの声だけが教室に響き、ミキは男の髪の毛を掴み上げた。大した力だ。遼は思わず関心してしまった。中年太りの情けない巨体が、ミキの片手一本で持ち上がってしまっている。
「いたっ!いたい!やめろっ!聞いてた、聞いてたって!」
薄い毛髪。河童のように頭頂部だけ髪がないので、残った髪の毛は守ろうと男は必死になっていた。
「そうですか。黙っていれば助かるとでも思いました?馬鹿な生徒じゃあるまいし」
目はいつでも、怒っているかのように両端がつりあがっている。もちろんこいつは、見た目だけではなく、中身にしても点でだめ。理不尽とも思える言動、行動。人間のできそこない。鼻血を頬からあごにかけてべったりと付けているこいつ。みている遼の中に、ふつふつとした憎しみが湧きあがる。それは、武藤に対して湧き上がったものと似ていた。
「森口浩。中学一年から三年までの、きみの担任だ」
結局、髪の毛だけで椅子もろとも立ち上がらせられた森口は、不機嫌な態度のままむっすりしていた。他の二人と違うところはただ一つ。恐怖を感じていない。
「倉田遼。なにか話したいこと、あるかい?」
遼は黙って首を横に振った。もちろん、これでミキに対しては十分伝わる。
「そうか。では、ここで今回君に傷つけてもらう個所と、時間を発表しよう」
来た。遼は不安に駆られる。しかし、ミキはそんな遼の心の内を知るわけもなく、残酷なその内容をペロリと口にした。
「眼球を一つ刺せ。耳を一つ取れ。指を一本切れ。どちらの目、耳、どの指を、それは全部君が決めていい。時間は三十分。一つ傷つければ、この中の誰か一人が助かる。全員助けたければ、三ヶ所すべてを傷つければいい。
携帯は僕のほうもスピーカーにしておくから、まぁ、好きなだけ彼らと話してから心を決めろ。」
ミキは携帯を三人の前の床に置いた。足をのばしてもちょうど届かないような、そんな距離に。
「あれほどの決意を誓ったばかりだ。もちろん、全員助けるんだろ?」
ミキは携帯から離れる間際、そういった。次にミキは立ち上がり、刀を拾って教壇の椅子に座った。これから起きる”何か”を、のんびり観察でもしようじゃないか、とでもいうように。机に肘をつき、のっぺらぼうをその手で支える様は、さながら授業に退屈している生徒のようだ。
遼は悲鳴を上げる親指をものともせずに立ち上がった。あの時誓った決意が、遼を奮い立たせた。
「当たり前だ。全員助ける。お前の思い通りには、もうさせない」