七話―2回戦
窓を見ると、雲に覆われた空は薄暗くなり始めていた。時計は三時を回っている。
じっとりとした汗は全身ににじみ、シャツとズボンがぴったりと遼の肌に張り付いていた。二日も湯船に沈めていない体と、飛び散った血液がそれと連鎖した、不快な匂いが遼の鼻をつく。加えて、はがれた爪の痛みがそれと組み合わせられ、遼の最悪のコンディションがばっちりキープできていた。傷口にはティッシュを何枚も押し付けて、応急処置ともいえぬような処置を施していた。口臭もひどい。
人は、ここまで汚らしい自分のことを、なんと言うだろうか。におう体、薄汚れた服、ぼさぼさでふけだらけの髪。今の自分は、まともな人間にさえそれにさえなりそこねている。
つまり、ニートだ。大学に落ちたニートが、殺人鬼と戦っている。
「そろそろ、電気をつけたらどうだい?」
画面は砂嵐。一回戦終了からさほど時間が経っていない中、ミキが遼に話し掛けた。
「命令じゃないんだな」
ソファにぐったりとしていた遼が、机の側の床に転がる携帯に向かって答えた。右足を投げ出し、極力そこへ刺激を与えないようにしている。時折、血のむんとする鉄臭さと、自分自身から発せられる悪臭に、顔をしかめたりしていた。息は荒い。
「?どうして」
「ここのところは、ずっと命令ばっかりだったから」
「あぁ。よかったら、どうぞ、って感じかな」
遼はぼんやりと、窓に映る外の景色を見つめた。そういえば、この先にはなにが待っているのだろう。
「そうか。じゃあ、ひまができたら、そうさせてもらう」
「……」
それを考えると、恐怖で一瞬胃が引っくり返りそうになったので、遼は頭を無にした。
それから15分ほどたち、ザーという砂嵐の音が、薄暗いままの部屋から消えた。それに大きく目を見開いて反応した遼は、うなだれていた首を持ち上げ、一目散にテレビを見た。その瞬間、遼は口をあんぐりと開け、眉にしわを寄せた。
「これは、一体……」
「倉田遼。僕が見えるかい?」
画面に映る人間達を、映像は正面から見据えていた。
まず目に入ったのは、黒いローブにのっぺらぼうのマスクを被った、ミキ。こう正面からみると、意外と背が高いのがわかった。180はあるだろうか。左手に鞘におさまった日本刀らしきものを持ち、携帯の握られた右手は、ミキののっぺらぼうマスクの、耳の辺りにあった。
次に目に入ったのは、椅子のうえで拘束されている、見覚えのある3つの顔。猿ぐつわなどをかまされていないため、全員がミキに向かって叫んだり、ひたすら暴れたりしていた。携帯から、彼らの叫ぶ声が折り重なって聞こえてくる。「なんのつもりだ!」「犯罪だぞこれは!」「うわぁぁああ!!誰かぁぁぁあああ!!」とかなんとかいっているのがかろうじてわかった。
そして、部屋。これが、今回で特筆すべきものだ。いままでならば、自宅の自室であったり、マンションの一室であったり、なるべくプライベートな場所をミキは舞台にしていた。しかし、今回は違う。遼は生唾を飲みこんだ。
学校の教室だった。
「さてさて……あぁもう、うるさいなぁ」
ミキが、鞘に納まったままの刀を一振りし、画面から向かって右手に位置する男の顔を殴った。さっきから、とりわけ暴れたり、叫んだりしていた男だ。男は椅子ごと教室の床に投げ出された。ミキは他の三人よりも一歩でたところに立っていたので、振り向きざまの回転を利用してのこの一撃は、かなり痛そうだ。
「よし。みんな、黙ってね」
沈黙ができたことに満足を覚えるミキを尻目に、遼の目は殴られた男の椅子に注目していた。生徒用の、どこにでもありそうな椅子だ。いまだ記憶の新しい、高校で使っていた椅子ではない。これはしっかりとわかる。ともすれば、中学か小学か、ということになるが、彼らの身長に椅子のサイズがなんとか合っている為、恐らく中学であることの予測がついた。
「倉田遼。いまから君には、この三人を僕から救ってもらう」
ミキが三人の周りをゆっくりと歩きながら話し出した。ミキは三人には目をくれず、天井を見つめながら(そう見える)歩いている。三人のすぐ裏に、懐かしの教壇と、綺麗に手入れのされた黒板。遼はぼんやりと、ここがどこだかわかり始めた気がした。……いや、この教室が映った時には、もうすでにわかっていたのかもしれない。見覚えのある中学校など、思いつくに一つしかないのだ。
「〇〇市立××中学校。きみの、懐かしの母校だ、ここは」
「……あぁ。いい思い出がたくさん詰まってる。学校にも、そいつらにも」
遼が皮肉ると、ミキがフッと笑った。投げ出されたままの男の横を通り過ぎるとき、ミキは気付かないかのように右足で男の頭を小突いた。
「しかし、今回はまるで前回までとちがうじゃないか。ターゲットが一人じゃないし、場所も目立つ。それになにより、おまえが最初から映ってる」
ハァハァいいながら遼がそういい終えると、ミキが画面の中央、三人の真後ろで足を止めた。真中の男が、振り向いていた方が安全か、それとも見ないほうが安全か、首をねずみのように細かく動かしながら恐怖に苛まれている。遼が目を細めた。
「ルールはひとつ。僕が君の知り合いを殺す。それを君が助ける。……なにか、矛盾したことがあるか?」
遼は軽く息を吸い、吐いた。それで傷の痛みが引くというわけではなかった。ぼさぼさの、目の上に降りかかる髪の毛を、右手で後ろにかきあげる。
「でさぁ、ミキ……。おまえら、一体どういう組織なの?」
画面ののっぺらぼうの首がなんとなくかしげられたような気がした。
「なにがだ?」
「こんなこと……無理だろ?一人の力じゃ。いまは平日、学校は放課後だ。人なんざそこらへんにうろついてるはずだし、そいつらがそんなに叫んだりしてんだから、そこに人が来ない方がおかしい。部活してる生徒は?見回りの教師は?一体そいつ等はどこにいる。どうやったら、彼らをおまえらが消せるんだよ」
遼は一気にこれだけを言い終えた。この問いにミキがどうでるかという不安に、心臓がドクドクいい始めるのがわかる。ミキは突っ立っていた。のっぺらぼうの奥にある視線が、画面を通り越して遼に突き刺さってくるのがわかる。遼はそれから逃げるように、画面の左側の、無人の校庭に目をやったりした。
思えば、最初からそう気付くべきだった。都合よく声の届かぬ、遼の住むマンションの住人。都合よく開いている、井川家の玄関のドア。都合よくいない、井川家の両親。武藤に関しても、遼が親指をはがさなければ、同じような都合のいい展開が起こっていただろう。
都合、都合、都合。こいつはそればっかりだ。
「……僕達がどのぐらいの組織で、どんな力を持っているかなんて、今は関係ない。
そら、ターゲットの問題に移るぞ。おまえの中学時代の教師三人、救ってみろ」