六話―I NEED TO BE MY SELF
「あ、あ、あ……」
遼は追い詰められたようにあえぎだした。両手で頭を抱えこみ、後退りしながら、混乱にその身を沈めていく。
「毎日、人は殺し、殺される。外国の紛争地域のニュースを見て、君はなにか感じたか?飢えに溺れる人々を見て、君はなにを思った?それは恐らくこれだ。“人の命は平等なのに、なんで殺し合わなければならないんだろう。はぁ、可哀想に。“」
自分の考えに収拾のつかない遼の背中が、壁にあたる。もう逃げ道はない。
「そしていま、君はその紛争地域にいる人々と同じ状況に立たされている。ただ違うのは、君自身が人を助けられるということ。自分を犠牲にしてね。これは大きな違いだよな、倉田遼。想像してごらん、逃げ場のない戦場で、君は爪を一枚剥ぐだけで人を一人確実に救うことができる。こんなことが約束されようものなら、紛争地域はたちまち自分の身を削る人々で埋めつくされるだろう。なに、命は平等だ。人は、例え救う相手が見知らぬ人でも、いつかは治る傷など気にもせずに差し出すだろう。しかし君は、死などとはほど遠いその傷すら、負おうとはしない!」
ミキの声が初めて荒みを帯びてきた。遼はずるずると、力なく床へ落ちていった。自分が、とても矛盾した考えを持っているということに気付いた。
「命は……平ど――」
「そして。僕自身は、命は平等なんかではないと考えている。」
遼の目が携帯へ向けられる。
「人が、人のために、命を、差し出す?馬鹿馬鹿しい。自分がすべて、そんな人間どもに、そんなことができるわけがない。」
ハァ、ハァ、ハァ。遼の息遣いだけが、しばらく流れた。テレビには、服を着始めている二人の姿がある。
「命の優劣なんてな、個人の判断なんだよ。気に入らないヤツはただ見殺しにして、大切な相手なら、悲しみの目をして、これまた見殺しだ。それが人間だ。漫画の世界とは程遠い、人間の本性。いざとなったらなにもできない、臆病者の、腐った――」
「違う!!」
遼は頭を抱えたまま、叫んだ。体がわなわな震えている。
「ほう?なにが違うんだい、倉田遼。現に君は、親友を見殺しにしているじゃないか。」
冷酷なミキの声。机のワキに置かれたビニル袋。
「違う!!・・・タクちゃんを、タクちゃんを救えなかったのは、覚悟が足りなかったんだ!!」
「覚悟!?あぁ、覚悟ねぇ!格好のつく言い訳だ!周りの同情はしっかり買えるぞ!」
「黙れ!!」
遼はよろめきながら立ち上がった。携帯から目を離し、テレビに映る武藤を見る。荒々しく鼻で息をしながら、憎むべき男を凝視すると、遼は机のものをどかし始めた。いや、どかすというよりは、なぎ払う、といったほうが正しい。
「なにをしている、倉田遼。」
「お前は、間違ってる。人の、人の命は・・・」
「平等じゃない。そしてそれ以上に、人以外の命はもっと平等じゃない。なぁ、親にいつか言われたことないか?肉だの魚だのを食ってる時にさ。食べ物を粗末にしちゃいけない。私たちは、彼らの命をもらって生きているんだよ、って。」
遼はもう、黙って机のうえのものをどかしていた。ようやくお目当ての、大学受験前まで使っていた筆箱を見つけた。
「僕はこれを聞いて、虫酸が走ったね。さすが人間、言い訳だけは一丁前だ。僕たちは決して、命をもらってるんじゃない、奪ってるんだろ?ってさ。なにをそこまで、自分達を正当化しようとするのか、僕には理解できないんだよ。」
「でも、お前も肉を食うだろ。」
遼は筆箱から、シャープペンを取り出した。その鋭利な先を見て、一瞬顔をしかめたが、それでも遼の心は揺るがなかった。
「人間は、毎日命を生産し、それを奪って生きている。家畜がいい例だ。それを自覚しているか、いないかの違いだけさ、僕とおまえらは。自分を正当化して、命は平等ですだの言ってるやつは、死ねばいい。」
遼は右手にシャーペンを握り締めた。目は、右足親指の爪へ。
「・・・人間は、勝手かもしれない。」
遼はゆっくりと座っていき、あぐらをかいた。ミキは黙っていた。
「おれも自覚しよう。命を奪って生きている、と。命は平等なんかじゃない、と。」
ペン先で、親指の肉と爪の接する場所をなぞる。
「で、それがなんなんだ?」
グチュ。
ペン先が爪と肉の間に差し込まれ、爪の裏側が血で染まる。徐々にシャープペンにも、血がなぞるように伝ってきた。遼は苦痛に顔を歪ませた。
「弱肉、強食の、世界に、生まれ、落ちた、ことを、おまえが、いくら、嘆こうが、な、おい?」
シャーペンがずんずん爪の内奥まで差し込まれていき、ビリビリ、と爪が剥がれる音も聞こえ始めた。
「ぐっ・・・命が、平等、だとか、そうじゃ、ないとか、そんな、下らない、ことを、いくら、おれ達が、思っても!!」
遼は目をいっぱいに開き、これでもかという痛みに耐えつづけた。
「それでも、おれ達は生きていくしかないんだよ!!」
遼はシャーペンを持つ手を、一気に引いた。バリッ、という音とともに、血が舞い、爪がはがれ、肉の露出した親指があらわになった。
「アアァァアッッ!!」
激痛に苦悶の表情浮かべ、遼は床を転げまわった。それでも遼は、ミキに向かって叫びかけた。
「オレは!!オレが守りたいと思うものを守る!!人間すべてを、命というたったひとつの極論に括りつけたりはしない!!オレはオレ!!オレ自身でなければならない!!」
転げまわった余波で、新聞やカップ麺の容器に、血が点々と降り注いだ。やがて、激痛がほんの少し収まりだし、遼は床の上で、汗びっしょりになりながら、ぐったりとした。まだ、少しでも動けば激痛が来るという、そんな状態だ。
「・・・時間は、ギリギリセーフだ。武藤は死なない。」
ミキがそう一言呟くと、テレビに映る武藤翔と、マナミという女と、二人のいる部屋が、砂嵐となって消えた。
「・・・ミキ。」
携帯の先にいるミキからは、なにも聞こえてこなかった。携帯は、遼の顔のすぐ横にあった。よく見ると、携帯と充電コードにも、血がついている。
「オレは、武藤翔を助けたくなかった。別に守りたいとも思わない。今でも憎み、そして助けたことを後悔してる。それなのに、なんで助けたか、わかるか?」
303号室に響くのは、ザー、という砂嵐の音だけ。ミキは答えなかった。
「お前に負けたくないからだよ、ミキ。」
苦悶する遼の顔だが、目だけは強い輝きを放ち、携帯をにらみ付けていた。
迷いのないその目は、いかなる試練が遼を待ち受けていようと、もう絶対に屈しないという意思の表れだった。
「・・・次のターゲットだ。」
一回戦、終了。