最終話―刺さる刃の告げる鐘の音
303と書かれたドアの前に立つ。ミキはドアを吟味するように見つめると、ドアノブをひねる。金属の軽く触れ合う、カチャリという心地のいい音とともに、ミキの鼻を異臭が刺激した。居間からこぼれる明かりは、決して廊下まで、ましてやミキの足元まで届くはずも無く、ぼんやりとした廊下の輪郭だけを浮ばせるだけだった。ミキは303号室に入る。
静寂。ギシ、ギシと、ミキの土足で踏み入る音だけが響く。居間と廊下の境目までたどり着くと、ミキはのっぺらぼうのマスクを下へ向けた。
「興味」
仰向けになって沈黙するそれを見ながら、ミキは呟いた。そして、次には少し大きい、そしてはっきりと通る声で喋り始めた。
「きみという人間に、興味が湧いた」
また少し歩を進めると、ミキの靴が吐瀉物を踏みつける。ミキはソファのところまで行き、ゴミや汚物のかかっているのも気にせず腰をおろした。
「君と同じ立場にいた人間はね。ぼくが殺した。そいつがターゲットを全員、見殺しにしてからね」
ミキはもう刀と携帯を持っておらず、空になった両手を顔の前で組んでいた。
「頭おかしくなっちゃったんだろうね。奇怪な状況に、彼は耐えられなかったんだ」
彼には友達がいて、親友がいて、彼女がいて、ずっと一緒だなんていっていた。
ミキの言葉は、部屋のなにもかもに溶け込む。
でも、見殺しにした。電話越しに聞こえる彼の友達だったモノの命乞いは、彼を追い詰めるだけだった。結局彼は誰一人救わず、最後には発狂した。黙れといっても聞かなかった。だから殺した。結局彼も被害者の一人だということになった。
実は、最後のターゲットはね、これからも通じて、親なんだ。つまり彼は、親をも殺したことになる。彼は自身の親よりも、自身の片腕の皮を優先した。
……君は救うだろうね。だが、だからこそ、ぼくは君の親の姿をこの部屋に映像として送り込まなかった。いわば、一種の宣伝さ。親が生きていれば、そこからぼくのしていることの詳細が、世間の明るみに出る。親は、君たちがぼくの電話を受ける前から、全てを知っているのさ。簡単なことだ。ぼくは君たちを常に監視している。カメラがあるだろう?ぼくはこの姿で彼らの家に出向き、使用する凶器を見せ、そして、君達のプライベートを、あますことなく彼らに伝える。これだけで十分さ。彼らは、ぼくのやろうとしていることを信じるしかなかった。
これで、資金の調達は完了になる。なにが起きてるかも知らない君を人質にとり、金を絞り上げたわけだ。なかなか、頭のいいことをするだろう?
……あれだけの金を取られて、それでもきみには毎月の仕送りを欠かさなかった。ぼくにはどうも、この辺が理解できないが。
ミキはマスクを外に向けた。窓越しに見える無数にきらめくいくつもの明かりは、手を伸ばせばすくい取れるようだった。ミキは一息つくと、話を続けた。
金があればなんでも可能だ。例えば、教室そっくりのダミーを作ることも。
きみはどんな組織だと言っていたね。僕の他に何人いるのか、と。それは、ゼロでもあるし、百でもある。わかるかな。信用は金で買い、そして切り捨てる。言葉そのままに、僕はどんな証拠も残さないのさ。例えそれが、カメラの監視をしていた人間の存在でも、きみの情報を詮索しきった人物でも。
そしていまは、ゼロ。僕以外にこのゲームに加担していた人間は、殺した。また一からやり直しさ。そんなに面倒なことでもない。病んだ人間を探せばいいだけのことだ。
ミキは立ち上がった。また来た道を戻り始めるが、その足取りは重かった。部屋に充満する、ミキに対して向けられた憎しみの黒煙を、少しでも多く浴びるかのようだった。ズチャリと嘔吐された物を踏みつける音がした。
「マテヨ」
ミキの足音が止んだ。なにかが、この空間を横切った。それを皮切りに、静寂がピンと張りつめた。
「……」
ミキは耳をすました。そして、いまのが気のせいだったことを祈っている自分に気づく。
ズチャリ。ズチャリと、ミキの後ろでゲロを泳がす音がした。
「……」
気のせいでは、ない。ミキは背後によからぬものを感じている。いまそれは、ひざで立って、不器用に歩いている。
「……」
背後で血がぼたぼたと落ちているのがわかる。第六感の研ぎ澄まされているのが、ミキにはいやというほど感ぜられていた。
振り向くのか?ミキは未知の感覚に包まれていた。しかし、それはミキにとっては不明瞭なだけで、一般の人間には少しもわからない感覚ではなかった。いったいこの体全体を伝う冷たい感覚は――。
肩をぐいっと掴まれた。ミキは背筋がこわばり、抵抗する力をいれるのにワンテンポ遅れた。背後に血にまみれた息遣いを感じる。子供が大人の力に屈するように、あえなくミキは、黒いローブをはためかせながら振り向かされた。
倉田遼が、30cm先からこちらを見つめていた。
胸に包丁が刺さったまま立っていて、口から二酸化炭素と一緒に血をあふれさせている。なぜだ。死亡は確認――していない。が、確認の余地がどこにあっただろう。心臓の根深いところまで達していたのは見れば瞭然だ。加えて倉田が自殺してからぼくがここに来るまでの時間。例え刺した後すぐには死ななかったとしても、数十分をあの状態で生き続けることは可能だろうか?……こいつは一体。
ミキの右肩を握る左手の握力が、虫の息の人間のものとは思えなかった。がっちりと掴んでいる手のひらを中心に、あの見慣れない感覚がミキを襲う。遼の皮一枚の人差し指がミキのローブと遼の手に巻き込まれていて、それは力を加えられていくうちにぶちりとちぎれた。遼は死にかけとは思えないほどの穏やかな微笑を、汚物に彩られた顔に浮かべる。
「トレチャッタ」
遼が喋った。最後の「た」のアクセントの時に、彼の口内をよどんでいた血の一部が飛び出して、ミキのマスクに赤い紋様をつくった。
ミキは焦って何もできない。尻もちをつこうにも、彼の左手がそうさせてくれない。この異常な事態はなんだ。死んだはずなのに。それに、この感覚――。
「コワイノカ?」
ずばりと、言葉で体中を貫かれたようだった。
「ミタクナカッタナ、ソンナトコロ」
ごぼごぼと血でうがいをしながら話す遼の言葉は、ミキのなにもかもに響き渡っていた。
「おまえは、死んでいるはずだ!」
歯と歯の間から、ミキはすきま風に似た声を出す。
「アア、シンデイル」
遼が片方の手で、自身に刺さっている包丁をコーヒーに入れた砂糖を溶かすようにぐりぐりと回し始めた。
「では、なぜ……?」
胸の傷口から、残っていた血液が追い出されるように噴き出した。ミキはそれをもろに腹から下に受け止める。
「サテ、ドウシテテデショウ。コタエハ、ダイブマエニ、イッテアル」
遼が包丁の柄を握った。そして、抜き、引きよせ、突き出す――これらを一秒もしないうちにやり遂げた。突き出された包丁の刃の部分は、ミキのみぞおちの部分に埋まっていた。
「かっ……!」
ぐりぐりとガチャポンのように包丁を回す。遼の血に塗られていたローブに新たにミキのが上書きされる。
「シンジツナンテ、ドウデモイイ。オレガ、オマエヲ、コロシタイトイウダケサ」
包丁が抜かれた。新鮮な血が、303号室に滝のように降り注ぐ。そしてまた、新たなところに刃が突き刺さる。
五秒間隔で、肉体に刃物が刺さる音がする。
ドシュ。ドシュ。ドシュ。ミキは痙攣を起こし始めたが、止まる気配はない。臓器が空いた穴からぬめりと、エイリアンの卵のように落ちた。大腸だか小腸だかが飛び出して、下でへたくそな渦を巻く。それはミキに、安西のフラッシュバックを起こさせた。やめてくれと懇願していたあいつの気持ちが、今ではわからんでもない。
ミキの閉じかけた瞼に最後に映ったのは、もちろん倉田遼だった。前のめりに攻撃を受けるだけだったミキの首を持ち上げ、遼は自分のほうにマスクを向かせた。そして一言、
「オレノカチダ」
ミキは重くなりすぎた瞼に押しつぶされた。遠くのほうでドアの開く音がして、女の取り乱した声が聞こえてくる――。
――end
読んでいただきありがとうございました。
一年以上前の小説を、結局これで終わりにしたいと思います。
紆余曲折、一貫性のない作者は、一年ぶりにこの編集をしております。
サイトがリニューアルされててびっくりです。
さて、当時読んでくれていた方は、ごめんなさい、そしてありがとうございました。
読み返してみると痛々しい箇所ばかりに目が行って、ということはその分成長もしたのでしょうか。
最終話について
最後の文に出てきた取り乱した声の女性は、大谷愛です。
ミキは結局、心のどこかでそうなる(殺される)ことを予感していて、気絶していた彼女のそばに遼の家の住所を書いた紙を置いていったのでした
なぜそう思ったのかは、今となってはわかりません!さっぱり!
エピローグでは生き延びたいじめっ子が大谷愛にお仕置きされる、というようなことをやろうとしていたのですが、いかんせん物語にある矛盾をまとめることができず、それから逃げていたのも事実です。計画性のない僕でした(現在進行形)
この作品は失敗作です。しかし、勢いだけはダントツです。
書いていてわくわくする作品でした。
それでは