十三話―希望
彼女はあまり学校に来なかった。来なかったのか、来れなかったのか、その理由は今でも明らかになっていない。しかし、遼は恐らく前者だろうなと思っていた。いじめられていたわけではない。だが、嫌われていた。遼のことをよく助けたからだ。
たまに学校にひょいと顔をだす。クラスのドアを開ける彼女の眼前には、ぐったりと壁に背中を預ける遼と、武藤たちの笑い声。状況は聞かなくても分かる。大谷愛は、武藤にむかって殴りかかった。怒声と、体のもみ合う激しい音。混乱が朝の教室に響く。遼はそれを、狐につままれたような顔をして見ていた。
喧嘩は互角。武藤も最初のうちは彼女のルックスを気に入っていたため、悪い悪いと笑いながら抑えつけようとしていただけだった。が、次第にそれが積み重なっていくうち、とうとう武藤も切れ、「女のくせに」と叫びながら手加減なしに殴りかかっていった。そして、両雄が鼻血を垂らしながら周りに抑えつけられ、そのうち安西が教室に駆けつける。周りが事情を話し、大谷愛は職員室に呼び出され、教師も大谷愛もいなくなった頃、遼は武藤の鬱憤はらしに殴られるのだった。
「なんで」
放課後。遼がはじめて彼女に話し掛けたのは、いじめを数回彼女に助けられた後の夏休み前だった。その日も助けられた後で、職員室に一日中縛り付けられていた彼女を、昇降口前で呼び止めたのだ。
彼女が振り向く。ルックスはとうに知れている。男顔負けの格好よさも備えた、整った顔立ち。流れるような二重と、すっきりした鼻筋が目立つ。髪は肩までしかなく、特に整えられている様子もなかった。
「なんで、助けてくれたの?」
喋りなれてないのと極度の緊張とで、遼は質問を簡潔にまとめるしかなかった。
彼女は怪訝な顔をして遼を見た後、思い出したように小声であぁ、と呟いた。そして、一言だけ遼に言うのだった。
「いじめは、よくないよ」
前置きも、雑談めいたものもなし。彼女はこれで決まり、とでも言うようにくるりと背を向け、夕陽に照らされた校舎を後にした。
「電話をかけるなら、例の携帯を使ってくれ。2を押した後、発信ボタン」
逃げよう。もう、他人はどうでもいいのだ。
映像は、大谷愛の自宅と思われる部屋を、前例と同じく天井の角から写していた。向かいの壁に、廊下を挟んで玄関がある。部屋全体は、遼の部屋と雲泥の差で、小奇麗にまとまっていた。液晶の薄型TVが手前にあり、他にベッドと小物の散らばる小机、大きめのスピーカーが二つと、それに見合ったコンポが壁際に置かれている。目立った家具はそれぐらいで、あとは壁一面に、洋楽だか洋画だかのポスターや写真が、大小関係なしに隅々まで貼り付けられていた。彼女はというと、ベッドに横になり、なんだかリラックスしたように目を閉じている。
立ち上がる力が、積み重なる疲労と痛みで無くなっていた。遼は汚物の広がる床の上を、いもむしのようにあがいていた。自身の汚物が顔一面にへばりついても、それを気にする力すらない。遼は泣いていた。
「無様だな」
しばらく様子をみていたらしいミキが言った。
「あれだけの虚勢を張っていた数時間前の君がなつかしい。これから、制限時間と、どこをどうするのかを言おうとしていたのに。やる気はあるのかい」
ない。頭の中で宣言した。すると、なんだか急に悲しくなって、さらにぼろぼろと涙をこぼす。言葉どおり、ヒックヒックと泣いた。
「いい刺激をくれてやる。頭だけでもひねって、その汚い顔を画面へ向けろ」
考えることすべてが、自分で自分を貶める言葉になってしまう。頭はそれでいっぱいになり、それ以外は考えられなかった。遼は促されるまま、頭をひねった。視界が涙でぼやけるので、下を向いて溜まったしずくを落とす。
ラフなジャージ姿の大谷愛に、服装以外の変わった点は見受けられなかった。あの頃と変わらない。ぼんやりと、自然な彼女を眺める。あの頃のおれに、制服以外の彼女の姿があるなんて、想像できたろうか?おれにとって、制服を着た彼女がすべてであり、それ以上はありえなかった……。
荒れ狂う自分への暴言の波が収まった。しかし、それは一瞬のことで、次には、女性のプライベートを自分という存在が盗撮しているのだという思惑が、静まりかけの海面に怪物、ヒドラを出現させた。海は荒れ、遼は彼女に対して自分が屈辱を与えていると思い、再び罵倒の嵐へ突っ込んだ。
大谷愛が目を開けた。体を起こし、玄関へ顔を向ける。立ち上がった。
あぁ、ミキが来たんだな。遼はそれしか思わなかった。
玄関のドアが開いた。しかし、誰もいない。大谷愛が奇妙に思ったのか、確かめるように外の廊下を見た。
遼の思った通り、画面の奥では、きらりと光る細い刀が大谷愛の首筋に当てられていた。彼女が硬直する。そのまま彼女は後退り、ミキとともに今の今まで平穏無事だった自室に引き戻った。携帯から、よく分からないが、英語で何か歌っているのが聞こえてくる。動脈があるであろう部分に、ミキの刀が当てられている。大谷愛は画面に背を向け、ミキはのっぺらぼうをカメラに向けていた。右手に携帯、左に刀。
そのままの状態で、しばらくたった。先に動いたのは、遼。破裂寸前の頭だったが、ようやく、逃げなければ、と思い出したように画面から目を逸らした。まず、病院に行こう。隣は――誰もいなかったか、すると、自分で下まで降りるしかない。下に下りたら、叫ぼう。誰か来てくれるはず。よし――
「なにも感じないのか。君にとっての、大切な人ではないのか」
ミキが言った。ミキの声は相変わらず冷ややかだったが、それにしては珍しい発言だ。だが、どうでもいい。遼は、ずるりずるりと、気持ちの悪い音を出して再び体を引きずり始めた。
「君が逃げれば、彼女は死ぬ。それでいいんだな」
いい。自分さえ生きれば、それでいい。初恋だから、なんなんだ。彼女がおれのことを、覚えているとでも言うのか。彼女にとってのおれの存在価値は、いじめを助けようが助けまいが、どうでもいいものなんだ。おれは、おれは――
「おれは誰にも、覚えられてなんかいない!」
遼が動きを止め、携帯に向かって叫んだ。いろいろと細かい物が飛び散る、汚い咆哮だった。ミキが少し携帯を耳から離したのが見えた。恐らく、今の声は彼女に届いたろう。そう考えると、なぜか一瞬胸が高鳴った。そして、すぐにしぼんだ。
「倉田遼だ。覚えてるか?」
ミキが言い、持っていた携帯を、彼女の耳へ。大谷愛の表情は分からない。また胸が高鳴った。遼は思わず、画面に釘付けになった。
浅い息遣い。緊張はしているようだ。しかし、その口から出るものは、遼にしばらくの混乱と、奇妙な安心感をもたらすものだった。
「倉田くん。電話の向こうにいるのが本当に倉田くんなのかよくわからないけど、わたしは君を覚えてる。別に君が倉田遼じゃなくてもいい。どういうことか説明して。こいつ、誰よ」
決然としていた。遼はなんとなく、なぜミキが彼女を最後に持ってきたのか、分かるような気がした。