十二話―きぼう?
意識の戻った時、第一に遼が感じたものは痛みだった。ビクンビクンと体を縮ませて、無意識にそれから逃げようとする。無駄だった。灼熱の痛み。痛みの波が溶岩となって、繰り返し押し寄せた。
遼は目を開けた。ふりしぼるように、半ば根性一心で。痛みにゆり起こされた体は混乱し、頭を麻痺させる。なぜこんな痛みを感じているのか、それがわからなかったのだ。目を開けたはずなのに、その先が見えない。かすんでいる。どこか範囲のせまい感じもする。かすんでいることで、遼は自分が涙しているとわかった。
赤ん坊のように身を縮ませた遼は、痛みの根源を手で探りだそうとした。しかし、どちらともなく動かしてみた左手の先が、瞬間、針金をずぶりと奥まで刺されるような痛みを伴った。
「アァッ!!」
遼は情けない声を上げた。声が裏返り、馬のようだった。いくつかの奇声をあげながら、遼は右手を床に恐る恐る当ててみた。……こっちは無事だ。遼は、体を左腕だけで押し上げた。
遼はうつぶせに倒れていたらしかった。半身を起こして、格好が乙女座りになっても、それを直す気は起きない。
「はっ、はっ……」
右手で目を拭う。身を起こした辺りで、遼は自分になにが起こったか、いや、自分がなにをしたかの大部分の記憶が戻ってきていた。なので、右目には手を近づけなかった。
拭ってからしばらくすると、視界に映っていたおぼろげな世界が実体をともない、鮮明になった。周りは明るかった。
血の点々とする壁。そこに押し付けられた愛用のソファ。ゴミ。
吐き気を覚え始める頃には、自分が本当に見たいほうを向いていないというのがわかっていた。
――ゆっくり振り向くと、そこには電源の落とされたテレビが不気味に佇んでいた。
ポタ、ポタと、なにかが顔の右側面を伝って、床へしたたり落ちている。それを意識すると、痛みが増幅する気がしたので、遼は考えることをやめた。
しばらくして冷静になってくると、徐々に痛みに慣れてきた(といっても気絶の一歩手前で、下手に体を動かせば再び夢のなかだ)。すると、テーブルの下のあたりに、いやにハエのたかっているのがわかった。明かりの届かないそのわずかな暗闇に、遼は目を凝らした。
――井川卓志の生首。血が乾き固まることで、顔の穴という穴のほとんどを塞いでしまっている。ビニール袋の中で揺られたせいもあってか、血が頭全体にまんべんなく付着していて、毛髪は整髪剤をめちゃくちゃにつけられたようだった。ただひとつ、床と接している首のビラビラした部分だけは、まだ黒々とした血液が鈍くうなりを上げていた。
「……ひぃっ、ひぃっ!」
逃げるように、腰を抜かした体を足だけで運んだ。やがて腰がソファについたが、それでも足を動かすことはやめなかった。直後、遼は腹からこみ上げてくるものを感じ、前かがみになって、吐いた。朝からなにも食べていなかったため、嘔吐物のほとんどは胃液だけだった。テーブル付近の井川の首からアメーバ状に広がる血と、開けられたスペースのほとんどに広がった遼のゲロが交じり合うのを見て、遼はさらに気分が悪くなった。包丁とシャーペンもそのなかにあった。二つの異臭が絡み合う303号室は、常人が入れば匂いだけで気を失うところだ。
口に広がる胃液の酸っぱさを唾と一緒に吐き捨てながら、遼は考えた。絶対に、この部屋に自分以外の誰かが入った。そして、思いつく限り、そんなことをするのはただ一人しかいない。
「やぁ、目がさめたかい?」
テーブルの片すみに置かれていた携帯が声を発した。
「……前より気分はいいよ。少なくとも、死ぬ気は起きない」
一度気絶し、一時的とはいえ時間を置いたのだ。追い詰められた際に生じたストレスは、多少緩和していた。
「そうかい。くず」
心のえぐられる感じがしたが、遼は笑ってごまかした。
「黙れ」
言葉ではなんとでも繕えるが、心理状態はほとんど変わらず、ただ死ななければいけないという馬鹿げた信念がなくなっただけで、絶望が遼を支配していた。
遼の心に無理矢理植え付けられた、決定的な、真理とも呼べるもの。人が、信じられない。
「はっは。気絶なんかしなけりゃ、あの後にすぐ死んでいたのに。惜しいことをしたね」
遼は黙った。いちいち反応するのも面倒くさかった。ミキは勝手に喋りつづける。
「あの三人がどうなったか、知りたいかい?」
正直、知りたくない。顔も見たくないというのが正直なところだ。痛みの波が急に押し寄せてきたので、遼は身を震わせた。
どうせ、助かったんだろ――
「あの三人ね、殺しておいたから」
遼は片目を細めた。驚きはあったが、自分の望んでいた結果になったので、飛び上がるほどでもなかったのだ。しかし、その後すぐに軽い憤りが募ってきた。
「おれは、ちゃんと指定されたところを傷つけたろう。なぜ殺した。意味ないじゃないか」
「ん〜?よくよく、自分の体を見てみることだね。なにもかもが中途半端だよ」
疑問を浮かべたまま、遼は敬遠していた傷口を見てみることにした。ミキの言っているのは、これらのことだろう。遼はいやいや左手を持ち上げてみた。
左手には普段の血とはおよそ遠い、どす黒い血がまざっていた。そして、鈍く光るそれは、人差し指の根元からわずかにあふれ続けていた。そしてなぜか、切り落としたはずの人差し指の残りが、皮一枚で繋がっている。
「まさか……」
「そのまさかだ。切れてないよね。助けるには不十分だ。他の部分にしてみてもそうだ。耳も指と同じような状況で、下の方が切れてない。切った気でいたんだろうが……」
遼は愚かにも、微妙に顔を振ってみることにした。ぶらんぶらんと、顔の横になにかがぶら下がっているのがわかる。そして、直後にくる分かりきっていた耳の悲鳴を、受け止めきれないが、受け止めるしかなかった。
「じゃ、じゃあ、目は……」
「僕はね、眼球を刺せ、と言ったんだよ。直接行って確認したけど、あれは眼球を刺したとはいえない。眼球と骨の間に、シャープペンを挿しこんだだけさ」
テレビの電源が落ちているのも、暗かったはずの部屋に明かりがともっているのも、親友の頭部がビニール袋からだされてテーブルの下にあるのも、すべてはミキがここへ来た直後に起きたらしい。
「条件がちゃんと満たされているか、カメラからじゃ分かりにくくてね。いたずらもしておいたよ。どうだい?」
だそうだ。
遼はよちよち歩きになって、できるだけ傷に負担をかけさせないようにしながらテレビの前まで行った。ゲロも血も、もはやこの時点では気にならなかった。途中、苦痛に顔を般若のように歪めることもあった。ミキはその度に笑った。リモコンがどこにあるのかわからず、また、それを気にすることもなく、遼は電源ボタンを左手で押した。バシリと電気の流れる音と共に、画面に明るさが宿っていく。遼はテーブルに胸をつっかえながらも、テレビを顔を近づけて見ていた。
「あ、映像、そのままだから」
霧のようにぼやけた色の装飾が、やがて鮮明に、現在の三人を映し出した。
教室は、カメラに赤いビニルでも貼り付けてあるかのように、ただただ血一色だった。
一人は、頭の上半分を持ってかれていた。男の足の側には、毛髪と、残りの頭の部分と、なにやら脳みそのようなゼリー状のものが散乱している。寺山だった。
廊下側にいる男は、外傷はそれほど見受けられなかった。しかし、黒い血の特に集中している個所と、廊下側の窓ガラスに異常に付着している血とで、首、恐らくは、大動脈を切られたものとみていい。頭が廊下とは逆の方向に向かって反ったままだ。森口。
中央の男は、見るに悲惨な状態だった。この男は、他のとは違い、特に生き地獄を感じたものと見てよかった。まず、両足首が綺麗に切断されていた。いまは赤色が多すぎてなんとも言えないが、彼の足を切った直後はおそらく、そこから水道の蛇口を全開にしたように血液があふれ出たのだろう。
革靴の片方が脱げ、片方は履いたままになっている。履いたままの方の足首は、その一部分だけでぽつりと男の側に立っていた。先端を失った男の足は力なくぶらさがり、床に着くことはなかった。そして、特にひどい傷を見た。腹。縛っていた縄とともに切り裂かれ、中に詰まっていた大腸が飛び出し、股の間を伝って、床にくるりくるりと重ねられていた。小学生の書く、まきぐそうんちというやつを、遼は思い浮かべた。表情はそれはそれは凄まじく、恐怖、憎しみ、悲しみ、など、とにかく負の感情を全部押し詰めてやったという顔をしている。アゴが叫びすぎの挙句か、外れている。格好は、背もたれにぐったりと体を預けていた。他の二人と比べると、一瞬の殺され方ではない。さぞ苦しかったろう。安西。
遼は目を背けたいような、背けたくないような、不思議な気持ちだった。助けられなかったということに対し、罪悪感は感じなかった。せいぜい、あぁ、死んでしまったか、という、とても無頓着なものだった。他人を信じないというのは、他人に対する興味が湧かないというのに直結する。それに、これ以上彼らを自分のなかで大きくすれば、忘れるのに苦労するだろう。
「安西先生だけ、特別にしておいたよ。君が特に嫌っていると思ったからね。すっきりしたろう?」
遼は無反応。時計が気になって、そこに目をやると、8時を過ぎていた。3,4時間も寝ていたのか。少し目を動かすと、夜の町並みが映る。家の一つ一つから漏れる豆電球程度の優しい明かりが、遼を一番につらくさせた。平和が目の前に広がっているのに、平和が自分を取り巻いているのに、この303号室だけが、なぜ、伝染病患者のようにそれらから切り離されなければならない。
何度も頭の中で繰返した議論は、結局、「わからずじまい」で幕を閉じる。
「ふむ。……そうだ、ひとつ、話しておこうか。だいぶ遡るが、僕の、前回のターゲットのことだ」
遼はぼんやりと携帯に目を落とす。
「メディアはどれだけの人間が同じ凶器で殺されたかを伝えていたが、なぁ、おかしいとは思わないか?」
このとき、あとはもう、逃げるしかないかぁ、と遼はぼんやり考えていた。
「君の立場の人間は、どこにいる?」
知らない答えを考えるのも面倒くさい。
「ニュースに放送されたのは、すべて被害者だ。もちろん、殺したのは僕。ただ殺したわけじゃないよね。今みたいに、君という助ける立場の者がいるはずなんだ。それがないというのは、どういうことだと思う」
「逃げたんだろ。おれみたいに」
遼はあしらうように言うと、右手と両足をうまく使って立ち上がろうとした。力を入れると、なにかと傷口が痛み出しやがる。遼はイライラしながら思い切り立ち上がったが、反動が強すぎたのと、床にゲロと血が散乱していたのとで、つるりと後ろに傾いた。これとは別に、立ち眩みのするのがわかる。体をささえようと後退ったのが、右足だったのがいけなかった。他の痛みに今まで隠れていた親指の痛みが、遼のほぼすべての体重にのしかかられることで復活を遂げたのだ。もはや支えることは出来ない。
「アァアッ」
遼は吸い込まれるように、再びゲロの海へと飛び込んでいった。まともな受身をとれるはずもなく、遼は後頭部と背中を強打。バチャというゲロのしぶきを上げる音と、遼の脳みそと内臓とちぎれかけの傷口たちが織り成す強烈な演奏会の始まるタイミングはほぼ同時だった。
「残念だが、それは違う」
なにもなかったかのようにミキは続けた。
「ま……いまはいいだろう。答えは、そのうちわかるかもしれないし、わからないかもしれない」
ミキは曖昧だった。
「さて……そろそろ、次のターゲットのお披露目の時間だが……」
どうでもいい。どうでもいいんだ。痛い。痛いよ。逃げたい。誰か、助けて。
寝そべったままのばした手の先には、天井以外なにもない。それは事実としてもそうなのだし、遼の心の情景としても正解だ。
「実は、これで最後なんだ」
無音が途切れ、砂嵐の音に変わり、また無音へ戻った。遼は、この一連の音の移り変わりだけで、すでにテレビには最後のターゲットとなる者の姿が映っていることを確信した。
痛みが除夜の鐘のように延々と続いている。大の字になって、いまだ目の上にちいさな星が浮んでいたが、遼は頭だけ持ち上げた。テーブルのせいで画面が半分隠れていたが、それでも映像中の人物の顔は捉えることが出来た。
「きみの、初恋の相手だ」
大谷愛。
おれの最後の……きぼう?