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「もう一人に、よろしく言ってくれ。明日を楽しみにしてる」

 低く言った。

 ヨノイはまだうれしそうな顔をしていて、鶏肉と格闘していた。

 もう少し料理の話をすればよかった。煙草を喫いながらイライは思ったが、もう会話は終わらせたつもりだった。もう話すことはない。今日はここまでだ。俺も、仕事の話以外は得意じゃないからな。もう一人のパイロットのことを訊けばよかったか? そんなことは、席を立ってから気づいた。

 ハスミの笑い声が聞こえた。そのとき気づいた。食堂はいつもよりも談笑する声が少なかった。

 みんな、戸惑っているのかもしれない。

 自分の場所に、別な登場人物が現れたことに。


 晴れた。

 プリブリーフィングで、気象隊のユヒが無表情に、前線が去ったと話した。夕食の後しばらく、激しい雨が基地を襲った。風はなかったが、強い雨だった。大粒で、宿舎の屋根がにぎやかだった。タグサリが帰ってこなかった日に聞いたあの曲が、また宿舎の廊下に流れていた。雨音とは周波数が違うのだろう。イライの耳にもよく届いた。誰の部屋からこぼれて、誰が聞いているのか、昨夜もわからなかった。

 そして、晴れた。

 飛行服を着ると落ち着いた。飛行割りには、ノスリが四機、自分、ユサ、アイズ、ハスミの名があった。どういう割り振りなのかよくわからなかった。それはいつものことだ。ハスミと飛ぶことが多い気がするのは、タグサリが帰ってこなかったからだ。タグサリが墜ちる前までは、ハスミと飛ぶことは三回に一度ほどだった。ほぼ毎回、タグサリと飛んでいた。もしかすると、キリウは俺たち前世代をまとめて始末したいのかもしれないな。朝から二本目になる煙草を待機所で喫ってから、掩体まで歩いた。指示された離陸時間まではもう少し時間がある。ゆっくり掩体まで歩くと、ヌノベが待っていた。ホガリの同期と聞いている。ホガリよりもさらに背が低く、分厚いメガネをかけていた。メガネがなければ、パイロット向きの身体だろう。ヌノベの身体は、メガネの印象よりずっと引き締まっていた。前職は整備員ではないのかもしれない。トルクレンチのかわりに拳銃を、ジャッキのかわりに重機関銃を担がせれば似合うに違いない。本人に言ったことはないが、それがイライの感想だった。

「おはようございます」

 ヌノベは無愛想だった。パイロットに必要以上気を使わない。逆にありがたい。べったりされるよりはずっと。ホガリよりずっと無愛想だ。行き過ぎる嫌いはあるが、イライはホガリに対する信頼と同じく、ヌノベを嫌いではなかった。タグサリがどうだったかは知らないが。

「ホガリは」

 戦闘機には機付きの整備員が割り振られている。イライの機体はホガリが機付長で、ヌノベはその補佐扱いだった。基地ではパイロットの数も少なかったが、整備員の数はまだ少ない。異常なことだと何度も思ったが、質が量を凌駕しているのだろう、問題が起きたことはなかった。そう、機体が原因でパイロットが未帰還になったことはほとんどない。だいたいが敵機のせいか、パイロットがヘタクソだったか、どちらかだ。整備員は優秀だ。

「ハチクマについてます」

「配置換えか」

「研修だって言ってましたよ」

 ヌノベはそう言って暖機運転を始めた。コンタクト。そうか、研修か。ヨノイの話は本当なんだな。新型がまだ来るのか。けれど、俺が乗り換えるわけではないだろう。俺はこいつ以外に乗せられることはないだろう。今後、きっと。

 噂ばかりだったⅥ型と、華やかに登場した新型に、かつての最新鋭機がかすんで見える。GC-8-Ⅴ型、イライたちのノスリが。しかし、レシプロエンジンの戦闘機としては、いまだに最新鋭のはずだ。Ⅵ型がターボプロップを積んでしまったからだ。いいエンジンだ。例えるなら、絹のような感触だ。ホガリとヌノベが調律したこのエンジンは、セッティングが難しいとされる排気タービン機にありがちな気むずかしさがさして感じられなかった。ずっと以前に乗っていたⅣ型のスーパーチャージャーより、イライは好きだった。何より高く飛べる。

 エンジンに火が入ると、もうハンドサイン以外、ヌノベと会話などできない。コクピットに潜り込み、プリフライトチェックを黙々とこなす。気温も上々、暖かい。空には雲がない。澄んでいる。風の様子は雲がないのでよくは見えないが、積乱雲が太鼓を鳴らして走ってくるよりはずっといい。もっとも、空に上がってから身を隠すための遮蔽物もまた存在しないということだが。

 ヌノベがハンドサインをよこす。イライが返す。チョーク、はずせ。機体は掩体をゆっくりと出る。誘導路を歩き出す。そうだ、まだ走らない。このままタキシングすれば、指定時間にほぼぴったりには滑走路に出る。キャノピーを閉じた。

 誘導路の両脇に茂る木々にはもう、葉が残っていなかった。いつの間に散ったんだ。まもなく雪が枝を飾る。本格的な冬になれば、誘導路も狭くなる。除雪隊が活躍するときは、パイロットも暇になることがある。空模様と雪が離陸を許してくれない日も出てくる。そうすれば生き延びるチャンスも増えると喜ぶパイロットもいた。飛ばない、ということは、死ぬ確率がそれだけ劇的に下がる。歓迎すべきことか? 死ぬよりはいいだろう。交通事故や病気や、あるいは階段から転げ落ちて死ぬよりは、ここで、コクピットで死にたい。死ぬのなら。イライは誘導路を進む。巧みに配置された掩体が木々の間に見える。大半は空き家だ。これもある意味欺瞞か。爆撃機や偵察機が上空を飛んでも、どの掩体に戦闘機が入っているのか、わからないだろう。誘導路を子細に観察すればわかるかもしれないが、一万フィートからそれを見分けることができるだろうか。雨あられと爆弾を降らせれば関係ないかもしれないが、こんな北方まで敵の爆撃機の大編隊が来るはずがないし、こんな僻地の前線基地が絨毯爆撃を受けるようになったらもう負けだ。爆撃で死にたくはない。爆撃で殺された人間は惨めだ。撃墜されるより屈辱だ。飛行機に殺されるときは、空にいるときだけだ。イライはそう決めている。

 誘導路がゆるやかにカーブする。左へゆるやかなR。見慣れた風景だ。まもなく滑走路に出る。羽ばたき音が聞こえる。別のノスリだ。誰だろう。カーブを曲がると、特徴ある六翅プロペラが目に入る。真後ろからだったので、機番もマーキングもわからない。だから誰かはわからない。ハスミではないだろう。やや機体がよたついていた。アイズか。イライはゴーグルをおろす。マスクを確かめる。酸素ボトルは三本。よほど遠くまで飛ばされるのか。今日も増槽を二本、主翼に吊っていた。機体内タンクも満タン。今日も重い。ハチクマが上がってくるなら、不利だ。ただでさえ速度で負けているのに、機動性まで落されたら、墜とされるしかない。ましてタグサリを墜としたあいつがまた現れたら。増槽二本ではどこまで飛ばされるかわからない。指示では中立地域へ今日は飛行しないことになっている。レーダーサイトの向こう、海峡を目指して飛ぶ。攻撃目標があるわけでもなく、電探情報で敵機が現れたわけでもない。ほぼ訓練だった。模擬戦闘という言葉はなかったが、プリブリーフィングでのキリウは、言外にそれを匂わせた。

(研修だって言ってましたよ)

 俺も研修か。いや、研修の相手か。いまさらノスリで研修はないだろう。

 突然視界が開ける。滑走路だ。すでにノスリが二機、位置に着いていた。機番が読めた。やはり前にいるのはアイズで、自分は集合の最後だったようだ。ハスミの隣に並ぶ。前にユサとアイズ。ハスミの機体を向くと、彼もこちらを向いていた。ゴーグルにマスクで、表情は全くわからない。だからハスミは頭を二度振って見せた。意味があるサインではない。あいさつだ。おはよう。イライは操縦桿から右手を離して、軽く敬礼してみせた。おはよう。ハスミも右手で軽く敬礼を返し、そのまま人差し指を九時方向の空に向けた。イライはハスミの指した空を見る。爆音。

 ハチクマだ。もう離陸していた。滑走路上をローパスしていく。速い。主翼端からヴェイパートレイルを引いている。それが合図だったかのように、ユサとアイズが滑走を開始した。プロペラ後流がキャノピーにぶち当たる。二機のノスリがまず離陸。続いて自分とハスミだ。スロットル全開、プロペラピッチ最大、エンジンは一瞬で吹け上がる。ターボジェットには真似ができないに違いない。機体は増槽二本分だけ加速をスポイルされているが、順調に速度は上がる。速度が増していく。操縦桿が粘っこくなる。翼が空気をつかみ始めるときの感覚だ。ラダーペダルも粘っこくなる。ハスミとそろってのフォーメーション・テイクオフ。ずっと先に二機のノスリ、さらに先に二機のハチクマが見える。イライもハスミも速度を稼ぐ。真ん丸い沼を一瞬で飛び越える。鏡のように空を映して青かった。波もなかった。だから風もなかった。いや、風がないから波がないんだ。世の中には順序がある。きっと撃墜されるのにも順序がある。

 イライは思う。

 ユウ。俺を墜とす気か。

 ヨノイは昨夜のテーブルでイライを墜とすと笑っていたが、その役目は、ユウ、お前が担っているのではないのか。違うのか。

 コヤチダ本線の鉄橋を瞬きする間もなく通過する。市街地が見える前にゆっくりと左へ旋回した。視界の右手にのっぺりとした平面が見えた。ソラノ川だ。ニジマスが釣れるらしいとは、誰から聞いたのだろう。今年は、よく釣れる。いつ聞いたのだろう。三ヶ月前か。だったら、六機上がって四機墜とされた、その四機のパイロットの誰かだったかもしれない。だったら覚えていなくて当然だ。彼らの記憶はすでにない。きっとタグサリもまた、忘れられていく。忘れようとして忘れていく。人はそうして年を重ねていく。生きていくには、すべてを覚えていく必要はない。生きていくには覚えることが多すぎる。必要最小限のことだけを覚えていればいい。人も戦闘機も身軽な方がいい。けれど、人は戦闘機のように、余分なタンクをすっきり切り離したり、残存燃料を投棄したりはできない。人が余分なものを捨てるには、手続きが煩雑なのだ。忘れようと努力するのは結構だが、努力しすぎるとかえって忘れられなくなる。そういうときは、何も考えなければいい。それが一番難しいのだけれど。

 ハスミはがっちりと編隊を組んでくる。今日の隊形は、ユサがフライトリーダー、アイズがそのウィングマン、こちら側はハスミがエレメントリーダー、自分がウィングマンだ。やや先行するハスミの翼端で、空気が歪んで見えた。速度は十分だ。ハチクマはどこだ。新型は。その性能を、確かめてやる。タグサリを墜としたあいつらよりヘタクソだったら、そうだ、俺が二機ともまとめて撃墜してやるからな。

 先行して離陸していた二機のハチクマに四機のノスリが追いついたとき、眼下はうっそうとした森林地帯だった。といっても、高度一万フィートを超えたいま、果てしなく続く森林は、すっかりくたびれた玄関マットのように見えた。さもなければ、毛足の短い絨毯だ。三時下方に鉄塔が並んでいる。海峡沿岸の発電所から電力を供給する超高圧線だ。イライは時々思う。中立地帯にもああした送電塔が並んでいる。低空を飛ぶとき、あの鉄塔と送電線は何よりも脅威だ。低空で進入する戦闘機や攻撃機を防ぐために敷設したのかと思うほど、送電線はやっかいな存在だった。発電所や変電所の近隣は飛びたくない。たとえば夜間、発電所への爆撃を命令されたらと思うとぞっとする。航空標識灯を消灯した鉄塔は闇に紛れ、送電線は獲物を待ちかまえるクモの巣のようにパイロットたちを罠にかけるだろう。意図せずとも、あれは脅威だ。

 四機のノスリは二機ずつ別れ、わずかな距離と高度を隔てて飛ぶ。先行するのは離陸したときと変わらずユサ、続いてアイズ、ハスミ、そしてイライ。二機のハチクマは、菱形に近い隊形で飛行するノスリの右側に占位していた。編隊間を詰めてくる。戦闘隊形ではなかった。ハチクマを間近で見るのは、これが初めてだった。長い機首、ノスリよりも太い胴体、後退翼に背の高い垂直尾翼、よく見ると水平尾翼は全体が作動するタイプだった。そして、ハチクマも機体中央に増槽タンクを下げていた。主翼に搭載された二基のターボジェット・エンジンの燃費はどうなのだろう。ノスリにとってもまだこの高度はやや低め。ではハチクマには低すぎるほどだろう。キャノピーが日を浴びていた。中のパイロットはよく見えない。先行しているのが昨夜のヨノイだろう。大尉だとは後で知った。食堂に現れた彼は、制服を着ていなかったからだ。飛行服にも階級を示す徽章はなかった。が、新鋭機を任されたパイロットの階級が低いはずはないだろうとイライは思っていた。そして彼が純粋培養組ならば、あの背格好でイライより階級が下とは思えなかった。食堂でのヨノイは頼りなげだった。まるで子供のようだった。純粋培養組によく見られる性質で、それは特筆すべき事柄ではなかった。上手に飛んでくれればそれでいいのだ。実際、並んで飛ぶ彼のハチクマは安定していた。エンジンの排気がゆらゆらと陽炎のようで、それにしてもやはり機体は大きい。その彼のハチクマの後ろが、件のパイロットの機体だ。

 見間違いかもしれない。他人の空似という言葉もある。イライは昨日、二機のハチクマが飛来したときに自分がみせてしまった動揺を、いまでは後悔していた。本当にユウか。そんな気持ちが強く湧き出てきたからだ。エプロンでキャノピーを開き、そこで遠く見えたパイロットの顔が見えただけだ。それに、飛来してきたパイロットたちは自己紹介を積極的にしなかったし、キリウやレンダも彼らを紹介しようとはしなかった。

 ユウか。

 無線のスイッチは切ったままだった。いつもの飛行なら、無線封鎖の指示がない場合、パイロットたちは会話する。機体の様子、空気の様子、目標の様子、その他様々。が、今日は離陸する前から誰も必要以上の言葉を発しなかった。なぜだろう。だから自分も無線のスイッチに指はいつでも届く状態にしていたが、スイッチを入れることはなかった。

 ユウか。

 スイッチを入れ、呼びかければいい。ともに飛ぶパイロットの名を呼ぶことは、規律違反でも何でもない。けれど、できなかった。ヨノイの機体を子細に観察することはできても、後続する「彼女」の機体を観察することができなかった。

 後ろめたさがあった。

 かすかな屈辱もなぜか感じていた。

 なぜ、そんな疑問もあった。

 逡巡する自分が信じられなかった。地上ではいくら思い悩んでもよかった。しかし、離陸してからの逡巡は、命に関わる。戦闘機もパイロットも、可能な限り身軽な方がいい。が、今日のイライは、気が重かった。ずっと旋回しているような気がする。そう、旋回時の加速度がずっと全身にのしかかっているような気がするのだ。空間識失調に陥りかねないな、そんなことも思った。旋回しているはずもないのに、旋回していると思いこむ。想像力は凶悪だ。身体が反応してしまう。

「ヒムロ・イチから各機。要石を通過」

 ユサの声にはっとする。

「ヒムロ・ニ、了解」

 アイズの声だ。

「サン」

 ハスミ。

「……ヨン」

 ヒムロは飛行隊に割り振られたコールサイン。イライは見たことがないが、ヒノキの仲間の常緑樹だとハスミが以前話してくれた。首都の近くの公園に行けば生えているよ、と。

 いましがたの交信は、編隊が海峡の手前の山岳地帯に設置されているレーダーサイトを通過したことを告げるものだ。

「上がるぞ」

 ユサの声。山地を越えるため、高度をさらに上げるというわけだ。わけてもこのあたりは気流が荒い。海からの空気と、森林地帯から吹きつける風が山地で複雑に絡み合い、山肌に沿って飛ぶときは、飛行機酔いをしそうになるほどだ。イライは操縦桿をわずかに引き、機首を上げた。対気速度計の針はそのままで、昇降計の針が動き出す。まだエンジンには十分すぎるほどの余裕がある。そして、基地を離陸したときと変わらず、雲は全くなかった。何となく不安になる。逃げ場がない。適度に雲があった方が安心できる。いやな習性だった。敵に襲われたときのことを常に考える癖がもうすっかり染みついていた。空気はよく澄んでいる。ようするに「相手」からこちら側もよく見えるということ。逆にこちらも「相手」をかなり遠くから見つけることができる気象条件といえるが、澄みすぎる空気は、イライはどちらかといえばあまり好きではない。というより、安心できない。

「二万まで上がる。遅れるな」

「了解」

 横を見ると、二機のハチクマはぴったりと離れない。機体もわずかなピッチングをしているだけで、それは気流を感じている心地よい揺らぎといった程度に違いない。

 眼下に山岳地帯が広がり出す。白い。雪だ。砂糖を散らした菓子のようだ。やはりもう季節は巡っていた。基地から巡航速度でわずか三十分。ここはもう冬の匂いがする。

 上昇が続く。この程度の上昇角度なら加速することもまだできる。しかし各機は速度を維持したまま編隊を維持する。燃費を考えていた。燃料系はまだ三分の一ほどを消費するかしないかという程度だ。増槽から燃料を消費しているから、機体内燃料はたっぷりと残っている。フィードタンクをうまく使えば、そして増槽を捨てれば、ノスリは風車のようにロールすることができる。そうなれば、もはやノスリはハチクマの敵ではない。もっとも、あちらがスロットルを全開にし、最大速度へ向けて加速を始めたら、こちらは追跡をあきらめて逃げるしかないだろう。もともと性格の違う戦闘機を戦わせてどうしようというのか。今日の飛行に、イライは苛立ちをも感じていた。本音がこみ上げてくる。黙って飲み込んだ。

 山地のサミットは越えた。高度計の針がぴたり二万フィートを指す頃、キャノピーの真正面に水平線が見えてくる。海峡だ。浴すんだ空気が、くっきりとした水平線を見せていた。船影も、今のところは見えなかった。速度、三〇〇ノット。ブレードの音が心地よい。そろそろか。そんなことを思って横を向くと、二機のハチクマがゆっくりとイライたちの編隊から離れ始めていた。

 いよいよか。

 イライは計器類をチェック、スロットルを握る左手と、操縦桿を握る右手、そしてラダーペダルに載せた両足が、しっかりと機体とリンクしているかどうかを確かめる。

 大丈夫だ。

 イライは深呼吸をする。

 そして思う。

 何が、大丈夫なんだ?


 ノスリはハチクマの上昇力にまったくついて行くことができなかった。

 海岸線を越え、ベタ凪の海峡の上空はやはり雲が全くなかった。青い色ガラスのような空は遠近感を狂わせる。散開した二機のハチクマをユサとアイズの二機が追いすがったが、瞬発力で勝る自慢のターボエンジンも、高度二万フィートからの上昇ではハチクマの相手にならないようだ。イライはコクピットで対気速度計を確認する。四〇〇ノット近い。全速力だ。十分に速度を稼いで操縦桿を引く。ハスミとイライの二機もハチクマを追う。ただし、ユサとアイズの二機とは方向を変える。変針せずに上昇に転じたハチクマを、ノスリの四機は二つのエレメントに分かれ、挟撃する作戦に出る。

 加速度計が三から四の間で揺れ動く。これ以上のGをかけると速度を失う。イライは操縦桿をやや戻す。身体がやや浮かぶような錯覚に陥る。長く水中で遊び、陸に上がったときのような、自分の身体が自分のものではないような感覚。首を巡らせて澄んだ空にハチクマを探す。

 いた。

 一時の方角に、二機の機影がはっきりと見える。距離は、四マイル、あるだろうか。まだ離される。水平飛行に戻したノスリのエンジンは全開、プロペラピッチも最大角度、それでもハチクマには全く追いつけなかった。なんだあれは。タグサリが帰らなくなったあの日の光景がよみがえる。俺を置いていくのか。高度計は二五〇〇〇フィートを指している。相手との高度差はもう三〇〇〇フィート以上あるかもしれない。ユサとアイズはまだ上昇を続けていた。イライは増槽を切り離したい衝動を何とかこらえていた。ハチクマもまだ増槽を切り離してはいない。

 すでにかなり沖合まで飛行していた。

「イライ、雲を曳いてる」

 一瞬計器類に目を落したとき、ハスミの声が耳を打った。顔を上げる。上空に二筋のコントレイル。ハチクマが曳いているのだ。美しい。瞬間でも思った自分を悔いる。違う、あれを墜とすのだ。高度計が三万フィートを越えた。ヒーターが備えられているとはいえ、コクピットはいよいよ真冬の夜のような気温になっているはずだ。が、イライは寒さを感じない。感じるのは、……屈辱ではなかった。寂寥だった。

「イライ、見えてるか」

「見えてる」

 応えながらハスミ機を向く。キャノピーの中でハスミがイライを一瞥した。そして、ハスミ機の向こう、ユサとアイズの二機が緩やかなバンクをとって右に旋回していた。先行しているのはユサだ。アイズはややローリングが大きい。速度を奪われるぞ、そんなことを思っているうち、二機のハチクマが視界から消えた。

「ヒムロ・イチ。サン、ヨン、聞こえるか」

 ユサの息が荒い。

「ヒムロ・サン。イチ、何だ」

「ハリエンジュが急降下した。方位二七〇」

 ハリエンジュは二機のハチクマのコールサイン。コントレイルを曳くのを嫌ったか、ハチクマの編隊は速度と高度を利用して、一気に降下を始めていた。似ている。タグサリがやられたあのときと。

「ヒムロ・イチ。ハスミ、イライ、カバー。アイズ、来い」

 ユサとアイズは緩やかな右旋回から左へ急反転、そしてそのまま機首を下げ、海面へ向かってパワーダイブを開始した。ほとんど最大速度に近い状態だ。増槽を下げているとはいえ、ノスリのロールは鋭い。しかし、この速度で急ロールを打つには、腕力と度胸がいる。ついでに体力も。だからイライは、身体がわずかに躊躇したのをさらに悔いた。わずかな時間の躊躇のあとで、イライとハスミの二機は背面に入れる。操縦桿が重い。それでも引く。頭上に海面、足下に太陽、襲いかかってくるGにうめきながら、頭上から重石を載せられたような首に力を込め、先行する二機のノスリと、そのさらに先のハチクマを目で追う。キャノピーを猛烈な風切り音が包んでいた。五〇〇ノット近い。海面が日を受けててらてらと光っていた。そこにハチクマのシルエットが浮かぶ。二機はまだしっかりと編隊を組んでいる。背後につこうとユサとアイズが追いすがる。その様子がよく見えた。見えているうちはまだ負けではない。イライのノスリは機首をほぼ垂直に、海面へ向けて落ち込んでいた。引き起こせ。操縦桿が石になったように重い。左前方のハスミ機の翼端から真っ白いヴェイパーが発生している。ハスミはイライよりいくらか若い分、思い切りもいいのかもしれない。旋回半径が小さかった。高度が速度へぐんぐん変換されているいま、急激な旋回でエネルギーを失う心配はあまりない。三万フィートから一気に一五〇〇〇まで落下した四機と、悠々と先行する二機の新型は、再び水平飛行に移りつつあった。四機のノスリはわずかだが高度の分がある。

「ユサ、行け」

 ハスミの声。それにユサが無線機のオン・オフ二回で応えた。ユサの位置は、スナップ・ショットでハチクマのウィングマンを墜とせる。ジャイロ式照準機の中に、あの特徴ある機体の一部でも入っているだろうか。イライはゴーグルの内側がわずかにくもりかけているのに気づく。汗だ。

 ユサ機がハチクマに接近する。ユサはやや右にバンクを取りながら襲いかかる。相手を急旋回に誘おうとしている。ハチクマが不得手としているらしい、旋回戦に。もらった、きっとユサは思ったに違いない。が、次の瞬間、ハチクマのウィングマンは左へ急激に機体を滑らせ、主翼を海面にたいして垂直に立てたあと、上昇を開始した。息を飲むほどに急激な動きだった。ヨノイの言葉が耳に戻る。ロールが不得手だって? かもしれない。が、旋回開始と同時に上昇を開始するとは、自殺行為だ。四〇〇ノットを超えるかという速度は、高度を得るのに引き替えて一気に失われるだろう。それはハチクマだろうがノスリだろうが同じだ。

「ヒムロ・ニ、アイズ、アイズ、追え。ハリエンジュ2が逃げた」

 ユサの甲高い声。アイズが応え、鋭く機体を左へロールさせ、ハチクマを追う。二機のハチクマは二手に分かれた。

「ヒムロ・イチからサン、ヨン。サンはハリエンジュ2、ヨンはハリエンジュ1を追え」

「了解」

 ハスミは応えるが早く、急上昇してくるハチクマを追い上げる。それを視界の端に見ながら、イライは右へ旋回、キャノピーの中央にユサ機を捉え、その先に見えるハチクマのリーダー機、ヨノイを追った。ヨノイ機はまだまっすぐに飛んでいた。それぞれに二対一だ。

「イライ、奴に速度を稼がせるな」

「わかってる」

 ユサの声がますます甲高い。

 イライは粘っこい操縦桿をゆっくりと手前に引きつける。人差し指は機銃の引き金から浮かせたまま。実弾は装備しているが、よもや味方機を撃墜するわけにはいかない。安全装置は解除されていない。それが、やや物足りない。曳光弾を撃ち込むのとそうでないのでは、相手に与えるプレッシャーが違う。

「イライ」

「右だ、右」

 ヨノイ機が二機のノスリを引き離しにかかった。水平飛行のまま、旋回も降下もせず、増速している。性能の差を見せつける気だ。この状態でこちらが旋回をすれば、その分距離と速度を失ってしまう。イライはそっと、ヨノイに気づかれるか気づかれないような動作で、少しずつ高度を上げる。速度を失わない程度の上昇率で、上がる。ユサは高度と方位を維持したままでヨノイ機を追う。じりじりと離される。

「……勝負にならないじゃないか」

 ユサがつぶやくのが聞こえた。無線のスイッチをオンにしたままだ。わざとか。どことなく昨夜のヨノイの口調に似ていた。お前、ハチクマに乗りたいんだな。イライは苦笑しながら、まだゆっくりと上昇を続ける。ヨノイは気づいているか。追いかけ続けているユサ機に気を取られ続けていてくれれば、多少は目がある。視線を走らせてハスミとアイズを探したが、見える範囲にはいなかった。

 ユサ機がイライの視界から消える。イライ機の機首の陰に入った。ユサ機の高度と、その先三マイルほどで増速しているヨノイ機が同レベルにいるなら、自分と彼らの高度差は五〇〇フィートほどか。もう少し欲しい。まだ欲しい。上昇を続ける。ヨノイはまだ加速している。ユサがじりじりとさらに離される。上昇している分、イライはさらに離される。なんとなく間延びした空中戦だ。緊張感がない。そう思った。そう思えるくらいの時間をかけて上昇した高度を、イライは一気に捨てた。順面のまま機首を下げる。胃の内側がせり上がるようなマイナスGに身体が浮かぶ。操縦桿をそっと、しかし大きく突く。行け、ノスリ。スロットルを最大に。エンジンは素早く加速する。

「ユサ」

 イライは呼びかける。瞬間、ユサ機が急横転、翼端からヴェイパーを引きながら、左へ。ヨノイは驚いたのか、反対側の右へ機体を振った。かかった。イライはまっすぐ、マイナスGを感じたまま、ハチクマにつっこむ。いま、ノスリの主翼の抵抗はゼロに近い。主翼上面と下面を流れる空気の速度が一致しているとき、機体はもっとも負荷をなくしている。気づいても無駄だ、チェック・メイトだ。イライは胸の内側をゾクゾクとさせるマイナスGに耐えた。リフトで自由落下しているようなこの感覚は、いつまでたっても慣れることはない。嫌いだった。が、これで行けるはずだ。ヨノイさん、ご愁傷様。照準機のど真ん中にヨノイ機の機体が入った。これで引き金を引けば、二〇ミリが彼の機体をバラバラにしてくれる。ユサもまた左にバンクしていた機体を素早く右へロールさせ、ヨノイを追った。

「イライ」

 ユサの声。

 ヨノイさん、さっきの右旋回が失敗だったね。イライはマスクの中で大きく息を吸う。決まりだ。

「ハリエンジュ2からヒムロ・ヨン。撃墜した」

 リコーダーのような声が、頭の中に直接響いたような気がした。イライは大声を上げていた。

「なんだ?」

「ハリエンジュ2から、ヒムロ・ヨン。……イライ大尉、あなたを撃墜した。攻撃を中止せよ」

 振り返る。イライ機のすぐ後ろに、もう一機のハチクマがいた。なんてこった!

「ハスミ?」

「ハスミ中尉、アイズ少尉はサンルまで後退した」

 リコーダーがまた聞こえた。サンルは、「撃墜」された場合に待機する目標となっている港街の名だ。

「バカな、二機ともやられたのか」

 ユサが叫んだ。

「三機です。ユサ大尉」

 イライはプロペラピッチを巡航位置まで戻した。スロットルも同様に。するするとハリエンジュ2、二機目のハチクマが並んでくる。

「三機目のイライ大尉も先ほど撃墜しました。イライ大尉、サンルまで後退してください」

 イライはボイスで返す代わりに、機体を背面に入れる。天地が逆転する。空だか海だかよくわからない、今日の空気の色。前方のユサ機、ヨノイ機、水平線、そして隣に並んだハチクマがくるりと回る。背面から引き起こし、スプリットS機動。太陽が背中にまわった。

「カンナリ、お疲れ」

 ヨノイの声。ああ、確かにやはりユサの口調に似ている。純粋培養組に共通する、無垢な響きだ。

「ヨノイ大尉、作戦終了です」

「燃料残量は」

「三〇〇ノットで四十分飛べます」

「十分だ。ジョイン・アップする」

「ハリエンジュ2、了解」

 イライも燃料計を確認する。増槽は空っぽだ。ただの抵抗でしかない。が、実戦ではない今日は投棄できない。機内燃料はまだ十分。ただし、こちらの巡航速度は二五〇ノットだ。それで五十分程度飛べる。

「ヒムロ・イチ。ヨン、聞こえるか」

「聞こえてる」

「帰投する。編隊を組み直す。ニ、サンと合流」

「ヨン、了解」

 最大速力までスロットルを叩き込んでやりたかった。気づかなかった。背後ぴったりにハチクマが食らいついてきていることに。見晴らしのいい水滴型キャノピーのノスリは、死角らしい死角がない。垂直尾翼、主翼、そして胴体は死角だが、上半身が機体から突き出るような形を取るコクピットを用意されていながら、背後を取られた。どこから来たんだ。下か。ならユサが気づいているはずだ。では、上から来たというのか。

 イライはわからなかった。

 正面に、二機の機影。ハスミとアイズだろう。無線で呼びかけては来なかった。代わりにトランスポンダの質問電波が来た。イライは黙ってそれに応えてやった。

 屈辱だ、と思った。が、それ以上にわき起こってくる感情があった。

 それは、やはり、寂寥、寂しさだった。


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