7.
飛来したのは二機。唐突とも思える展開だったが、たった二機で何をしようとしているのか、基地に勤務する者の中で真意を知っている人間はいなかった。もっとも、整備員やパイロットたちが知らなかっただけで、レンダやキリウたち飛行隊幹部は知っていた。イライが想像したとおり、二機の新型を整備する人間や機材は、前夜には、すでに基地へ到着していた。知らされなかっただけで、事実はそこにあった。
イライは閑散としたPXでコーラとチョコレートを買った。思い出したようにオイルライターのフリントと芯も買った。ライターフルードはまだ備蓄があったから買わなかった。そして、宿舎に戻ってから、煙草の残りが心許ないことに気づく。空中戦を終え、帰路につく際、機銃弾は残っているのに、残存燃料がいよいよ心細いことに気づいたときのように、心底がっかりした。
新型機のことなどどうでもよかった。そいつがGD-Bなる開発名を持ち、「ハチクマ」なる愛称が付けられていることは、翌日になってからハスミに聞いた。どうでもよかった。問題は、ハチクマが軸流圧式ターボジェットエンジンを搭載していることより、ハチクマに乗っているパイロットだった。リーダー機に乗っていた方ではない。あの女だ。イライは目を疑った。そして、自分の目が彼女を捉えて以来、焦点を定めることができず、PXでレジ係に体調を心配されたほどに動揺していることにも気づかなかった。偶然か。だとしたらひどい偶然もあったものだ。よもや彼女が同業者になっているとは、青天の霹靂だった。いや、寝耳に水か。
宿舎が禁煙であることなど、パイロットたちはみな無視していた。イライは残り少ない煙草に火をつけた。窓を開ける。ボイラーにまだ火が入らないこの季節、スチームのない部屋は、窓を開けるとさらに冷えた。雨音のしない雨がまだ降っていた。基地は静かだった。飛行機が飛ばなければ、このあたりは静かだった。森がすべての音を、息づかいを吸収してしまうのだ。飛行機で五分もかからない場所に町があったが、自動車で向かえばその四倍は時間がかかる。だから町の息づかいも、間に入った森に吸われてここには届かない。居心地のいい場所だった。そう、すでに過去形だ。
自分はもしかすると体のいい理由を、そう、「戦闘機に乗り、敵を撃墜する」というただの題目をでっちあげて、あまつさえ「空への憧憬」などという口当たりのいい言葉に酔い、現実から逃げていただけなのかもしれない。唐突に舞い降りてきた、忘れようとしていた現実が、イライをかりそめの日常から引き戻そうとしていた。あのパイロットの顔を、イライはよく知っていた。酒でも飲みたいところだが、あいにくイライは酒が飲めなかった。それに、昼間から酒を飲んだとして、自分はパイロットであり、今日は休日ではなかった。すっかり規律のたががゆるんだここもまた、前線基地の一つであり、命令一つで自分は新型機の登場で「旧型」となりさがったあのノスリに乗り、飛ばなければならない。アルコールはいらない。
イライは窓辺に立ったまま、滑走路の方を向いていた。木立に隠れて滑走路もエプロンも見えないが、背の高い管制塔やアンテナ、整備用の格納庫は見える。それぞれの戦闘機を格納した掩体は森の中に散らばりカモフラージュされていてよくわからない。イライはいてもたってもいられなくなっていた。いっそ出撃命令が出てくれた方がいい。いつ、彼女がここを訪れるかもしれない。不安だった。
そうだ。不安だ。イライが感じているのは不安だった。それ以外の感情は、今はなかった。
イライはPXで購入したコーラをあおった。あまり冷えてはいなかった。PXの冷蔵庫のせいなのか、宿舎について自分が思う以上の時間が流れていたからかはわからない。それでもコーラを空にした。チョコレートはデスクの上に載せて、口を付ける気にはならなかった。
こんなに動揺したことはなかった。まるで、ああ、彼女が生まれたときと同じくらいだ。
ハスミはもうあの新型機のパイロットの名を聞き出しているかもしれない。が、イライはパイロットの名をすでに知っていた。リーダーと思われるパイロットではない。随伴してきたあの女の名だ。
彼女はカンナリといった。カンナリ、ユウ。忘れることもできない名前だ。なぜなら、彼女はイライの遺伝子をおそらく半分、引き継いでいるからだ。彼女はイライの娘だった。最後に会ったのはいつだったろうか。思い出すことができるのは、ユウが中等科の制服を着ている姿までだった。彼女とともに暮らしたのは、それよりさらに以前、ユウが初等科に入学するかしないか、それくらいの歳までだった。イライは彼女とともに生涯を過ごす気はなかった。彼女はどうなのかは知らないし、訊いたこともなかった。そして、彼女の母親と最後に会ったのも、同じ頃だ。もう何年も昔の話だ。一昔以上前。ユウの母親はまだ存命中なのか。
やはり俺はここに逃げてきたのだ。けれど、彼女は追ってきたではないか。しかも、ノスリより遙かに速度の稼げる新型のジェット機で。
イライは戦慄する。
俺を撃墜する気か。
敵機ならわかる。敵機は自分を撃墜するために空にあって、もちろん自分は彼ら、彼女らを撃墜するために空に上がる。理屈などない。敵機は叩き墜とすか叩き墜とされるか、そのどちらかの理由で存在する。けれど、ユウは、友軍の戦闘機に乗って現れた。敵ではなく、味方機として。フレンドリーだ。イライが望んでも、彼女を、彼女のハチクマを撃墜することなどできない。
逆も同じじゃないか。イライは再び煙草に火をつける。
逆も同じだ。彼女もまた、イライを撃墜することなどできないはずだ。
イライは煙草を持つ自分の指がかすかに震えていることに気づく。おそれているのか、俺は、彼女を。
断絶した血縁関係にあって、イライはそれを努めて忘れようと試みた。ユウがこの世に生まれたことは、この世に彼女を誕生させてしまったことは、不幸だった。いろいろな意味で不幸だった。イライにとっても、ユウにとっても、ユウの母親にとっても。この世界は生きるのにはつらすぎるのだ。生きている人間の数は少なければ少ないほどいい。なのに自分は、ユウという人間をこの世に誕生させてしまった。止めるべきだった。しかし、あのころの自分は若かった。ユウの母親にたいして生じた衝動や、口に出すことすらはばかられる、いわゆる愛情と呼ばれるいくつかの感情によって、自分は暴走し、その結果ユウが生まれてしまった。その責任の重さに自分は耐えられず、結果、前線基地ばかりを渡り歩く戦闘機乗りになった。ユウが生まれた頃、すでにイライはパイロットだったが、一人前ではなかった。前線基地への異動希望を、当時の上司たちはとまどいと喜びとがない交ぜになった表情を見せ、それでも希望は叶えられた。
イライは前線基地ばかりを渡り歩いた。結果的に、それがイライのパイロットとしての技量を磨くことになった。空に上がるたび、イライはユウの母親のことを忘れた。忘れていった。そして望んだ。自分と同じように、彼女もまた、イライを忘れてくれることを。
感情的には忘れてくれたかもしれない。しかし、忘れ得ぬ存在が確かにあった。それがユウだった。生まれ落ちてしまったユウは、育つ。母親譲りの邪気のない表情は、今でもイライの記憶の片隅にしっかりとピンで留められたようにして残っている。忘れることができなかった。努力しなければ、よみがえる。そして、今日。新型戦闘機から降り立ったユウは、最後に会ったときと同じような、そう、彼女の母親によく似た笑顔を見せていた。自分やハスミやチナミ、要するに「前世代組」と呼ばれるパイロットたちが真似しようとしても真似のできない表情を、ユウは持っていた。
記憶が確かならば、いまのユウは、イライが「愛情」というまがまがしい感情に支配されていた頃の、ユウの母親と同じ歳のはずだ。似ていて当然だ。エプロンで新型機の開いたキャノピーから見せたユウの顔は、彼女の母親と生き写しだった。
イライは憂鬱になった。
基地に運び込まれた機材は多かった。たった二機で何をする気かは知らないが、彼女らはここに配属されたのかもしれない。幸い、この基地には空いている掩体も格納庫のスペースも、そしてパイロット用の宿舎もたっぷりとあるのだ。あのハチクマが一個飛行隊移動してきても、十分なほどに。
上層部はもしかするとそう考えているのかもしれない。
そんな考えを巡らせている内、空から爆音が響き渡り、窓辺から顔を突き出したイライの目には、大型の輸送機が編隊を組み、数機で滑走路に向かってアプローチしている姿が見えた。ハチクマは本格的にここへ展開する気だ。輸送機には六機のノスリが護衛についていた。この基地の所属機ではないだろう。今日イライの飛行隊から離陸したのは、チナミとセムラのエスコート組の二機だけだ。近々、大きな作戦でも始まるのかもしれない。大型の輸送機は、のっそりと高度を下げ始め、そして木立のあいだに沈んでいった。独特のエンジン音は、ターボプロップエンジンに違いない。もしかすると、随伴していたノスリも、あのハチクマが登場する寸前に噂に上ったターボプロップ改造型かもしれない。輸送機も随伴するノスリも、レシプロエンジンが奏でる排気音を立てていなかった。甲高い金属音、プロペラの羽ばたきがやたらと耳につく。
イライはひどい疎外感におそわれた。
居心地がいいはずだったこの基地が、とつぜんよそよそしく思えてきた。
今頃、三ヶ月前に失われた四機の補充機が来たというのか。しかも、新型のおまけ付きで。
イライはどうでもよくなってきた。
出撃命令がほしかった。
敵機がほしかった。
こちらが撃ち墜とす前に、敵機が自分を撃ち墜としてくれるかもしれない。こんな気分になったのは初めてだ。
屈辱だ。