6
午後、森の中は薄暗かった。また降りはじめた雨はほとんど霧雨に近く、基地周辺はぼんやりとした霞に包まれていた。革のジャンパーを着込み、イライは森の中にいた。このあたりはまだ標高が低い分、緯度のわりに広葉樹が多い。が、広葉樹は秋になれば色づき、その次にはみな散ってしまう。霧雨が頬や髪やジャンパーにまとわり付く。顔を上げると、葉を落とした枝先の向こうに鉛色の雲が見えた。吐く息は白い。日に日に気温が下がっていくようだ。初氷はいつか。憂鬱になる。滑走路が凍ると余計な気を使う。やがて来る雪の季節になれば、猛吹雪で飛行場そのものが閉鎖されることもある。イライはポケットから煙草を取り出したが、一本抜き出そうとしてとどめた。落ち葉は折り重なってたっぷり水分を含んでいたから、たとえ灰を落としても燃えるようなことはないだろう。が、煙草を喫う気分にはならなかった。
ここは、墓地だった。
正式な墓標はない。が、ここは墓地だった。未帰還者たちの墓地だ。レンダやキリウたち飛行隊幹部は認めないだろうが、基地に勤務する者はみなここの存在を知っている。基地を飛び立ち、そして戻れなかった者は、ここへ眠ることになる。正式な墓標もなく、もちろん遺骨もなく、遺品もない。いわば、心だけがここに埋められる。残された者の、逝ってしまった者たちへの想いが、ここに眠っている。
卒塔婆を思わせる板が、十数本並ぶ。そして、そこには木が植えられている。未帰還者たちの数だけ、苗木がここで根を張る。冬季間に撃墜、あるいは未帰還になった者は、翌春に苗木が植えられた。見渡すと、朽ち果てた板が何本も見える。そして、イライの背丈ほどに成長した広葉樹が同じ数。一体何人のパイロットがここに眠っているのか、イライは正直な数を知らない。調べようとも思わない。
前にいた基地には、このような習慣はなかった。未帰還となったパイロットたちは、故郷でひっそりと眠った。もちろん、ここの基地の未帰還者たちも、正式な墓はその故郷に作られ、そこで眠ることになるのは変わりない。ただ、誰が始めたのか、森の中に、もうひとつの墓地が作られた。
基地のパイロットたちが進んでここを訪れることはない。まして、複数が連れだってここを訪れることは絶対にない。みな、ときどき、思いだしたようにここに来る。未帰還者たちを思いだすために。
他の同僚たちは、どうなのだろう。
イライはポケットに両手を突っ込む。そして考える。苗木とともに眠るパイロットたちを、イライは全員まで知らない。が、数人は知っている。三ヶ月前、一度に四機が撃墜され未帰還となったパイロットたちも、眼前に並んで眠っている。顔はわかる。名前もわかる。けれど、彼らの正式な墓が、どこにあるのかを知らない。彼らの故郷を知らない。彼らの家族を知らない。彼らの声や、趣味や、苦悩を知らない。知ろうとしなかったからだ。
イライはタグサリを思いだす。
結局、イライはタグサリが喫っていた煙草の銘柄も知らない。待機所のどこが彼の指定席だったかも知らない。宿舎のどこにタグサリの部屋があったかも、よく思いだせない。知ろうとしなかったからだ。
空では頼りになる男だった。だから、タグサリの飛び方は知っている。僚機の癖を知らなければ、自分の命に関わるからだ。その代わり、タグサリの地上での癖は知らない。
タグサリはまだこの森に戻って来てはいなかった。いまだ行方不明扱いだった。が、チナミの言葉が正しく、偵察機が見つけた戦闘機の残骸がタグサリ機なのだとしたら、そして墜ちていく姿を見る限り、タグサリが生きて基地へ戻ってくる見込みはゼロだった。早晩、ここにタグサリの名を刻んだ板が立てられ、誰かが苗木を植えるだろう。初雪には間に合わないかもしれない。ならば、来年の春、タグサリの木がここに植えられる。
屈辱は感じていた。僚機が撃墜されるという、屈辱だ。が、怒りや悲しみではなかった。悲しむほどに、イライはタグサリを知らない。基地の同僚の中で、趣味や癖まで知っているのはハスミを入れて数名だけだ。が、たとえばハスミが撃墜されたとして、自分は悲しむだろうか。
いまここでその答えを出そうとは思わなかった。イライは逃げた。
感情や感傷は、判断を狂わせる。いっそ機械のように、入力に対して無表情かつ正確であれば、生き残ることができる。より楽に。それを逃げているのだと言われれば、イライは否定するつもりもなかった。生き延びるための方策だからだ。
イライは嘆息した。吐く息は白い。髪は雨を受けて雫がこぼれた。
そろそろ戻ろう。ホガリに機体の状態でも確かめに行こう。
隠された墓地に背を向け踵を返したとき、イライの耳に、聞き慣れない音が届いた。かすかだったが、それは雷鳴に似ていた。歩を進めようとしていたイライの足が一瞬止まる。なんだ?
低い雷鳴のような音に混じって、聞きなれた音も混じった。戦闘機のエンジン音だ。次の瞬間、イライは駆けだしていた。森の中の道を、浮き出た木の根に足を取られないよう注意しながら、イライは駆けた。
敵か。
真っ先にそれを思った。自分の機体は掩体か、それとも整備のために格納庫に引っ張り出されているか。それにしては、基地が静かだった。音が聞こえるくらいまで敵機が近づいているのなら、十分待機中の味方機が緊急発進するはずだ。が、滑走路の方角は静まり返ったままで、戦闘機が離陸する様子もないようだ。対空砲陣地も沈黙したままで、爆弾が降ってくるような予兆もない。
とにかく、イライは駆けた。
息が上がる。
年齢を、意識的に忘れることにした。
管制塔を横目にして、そのまま格納庫を過ぎ、エプロンまで走った。走りきれたじゃないか。イライは自分をほんの少し褒めてやると、霧のような雨が立ちこめる空を仰ぐ。爆音が近い。遮蔽物の少ない基地周辺は、音が反響しない。爆音が聞こえる方角を向くと、同じようにしてエプロンに駆けだしてきたパイロットや整備員たちの姿が見える。ハスミの姿を見つけ、イライは駆け寄った。呼吸を整えながら。
「よお」
イライを見、ハスミはかすかに震えた声を出した。今まで宿舎で眠っていたような目をしている。ジャケットを羽織っているが、下は平服だった。髪は乱れている。
「見物か」
ハスミはのんびりとした口調だった。敵襲ではないようだ。やはり。
イライは返事をせず、近づく爆音に耳を澄ます。
やがて、飛行機と思しき黒い点が雲底を割ってあわられる。四つ。二つはわかる。ノスリだ。前翼、プッシャータイプの特長ある機体だ。大排気量のレシプロエンジンの爆音をとどろかせ、滑走路に近づいている。降着輪は下ろしていないようだ。意外に速い。そして、二機のノスリが挟み込むようにしているのが、雷鳴に似た爆音の正体だ。
「……あれが?」
イライはハスミに言う。
「新型、だな」
機体はノスリより一回りほど大きく見える。近づくにつれ、その形状が輪郭をともなってくる。前翼式ではない。が、機首にプロペラがない。左右の主翼に何かを下げている。燃料タンクにしては巨大すぎる。もしかして、エンジンか。見る間に機影が大きくなる。
四機は水平飛行、低空を維持したままで滑走路上空をパスする。ノスリのエンジン音と、それを上回る甲高い爆音が轟く。エプロンに駆けつけたパイロットや整備員たちから歓声のようなどよめきが上がったが、かき消された。パスする瞬間、四機の横顔が見えた。二機のノスリは、チナミとセムラのようだ。垂直尾翼に機番が見えた。やや遅れて飛ぶ二機の新型は、ノスリと同じ青みがかったグレーの制空迷彩が施されていた。機首にも機尾にもプロペラがない。水平尾翼が主翼より後ろにある、いわゆるトラクタータイプにある配置で、主翼はやや後退していた。キャノピーは水滴型で、視界はよさそうだ。パイロットの姿が一瞬見えたが、酸素マスクにゴーグルをつけていて、表情など見えない。一瞬でエプロン前をパスした四機は、滑走路エンドで緩やかに左旋回に入る。
「重そうだな」
旋回する様子を見たハスミが、イライの耳もとで言った。
「エルロンが重そうだ」
イライは答えない。
二機の新型は、先行する二機のノスリから編隊を解いた。チナミとセムラのノスリはやや高度を上げた。イライはチナミとセムラがなぜ今日飛んだのか、理解した。エスコートミッションだったわけだ。または、新型の出迎えか。チナミには悪いが、まるで露払いだ。新型は轟音のピッチを変えず、ゆっくりと旋回し、エプロン正面の森の上空にさしかかる。天候が悪い。さぞかしパイロットは緊張していることだろう。確かにハスミのいうとおり、新型機はノスリのような軽快さがなかった。チナミとセムラは基地上空を旋回、新型機はふたたびイライたち出迎えの左手から、滑走路に進入してくる。ずいぶんとアプローチの速度が高いようだ。主翼上面にスポイラーを立て、降着輪はすでに降りている。降着灯を点灯させ、二機はぴったりと寄り添って降りてくる。降下率は、慎重過ぎるほどに低い。まるで練習機の着陸のようだ。が、甲高いエンジン音は低くなる気配がない。スポイラーで強引に速度を落としているように見えた。そして、タッチ・ダウン。機体そのものも重いのか、なかなか減速しない。着陸時の速度そのままに、対地降下による水煙を上げて、二機の新型はエプロン前の滑走路を過ぎる。ようやく耳障りだったエンジン音が低くなる。その上空を、チナミとセムラの二機のノスリが高速でパス。爆音が鼓膜を震わせる。が、誰も二機のノスリを見ていなかった。エプロンに集合した基地の面々は、みな、着陸した二機の新型に目を奪われていた。機首には機銃が装備されているようだ。穿たれた銃口の大きさはよくわからないが、十二、七ミリ以下ということはなさそうだ。片側に二つずつ。二機はスポイラーを立てたまま、しばらく滑走路を減速し続け、かなりの距離を走ったあとで向きを変え、誘導路に進入した。降着灯が雨の誘導路を照らしていた。
「噂どおりだったじゃないか」
ハスミが言った。
「でも、二機か」
「パイロット付きじゃないか」
「二機でどうする。たったの二機で」
「乗りたいのか」
「お前こそ」
「重そうだな。一緒に飛んだチナミに感想を聞いてみよう」
誘導路をゆっくりと、待っているこちら側からすればいらだつほどにゆっくりと、二機の新型は進んでくる。先頭が編隊長か。随伴しているのはウィングマン。しかし、新型を与えられているのだ。腕はどうか。アイズやセムラ以下ということないだろうな。
護衛任務が終了した二機のノスリも、新型機がエプロンに到着しようかというころには着陸し、新型よりもはるかに手前で減速、誘導路に入った。
「見ろよ。レンダとキリウだ」
ハスミが指した。エプロンの最前列に、列線整備員たちと並んで、レンダとキリウの背中が見えた。今日も制服だ。傘もささず、制服の肩はすでに雨に色を変えていた。風邪を引くなよ、純粋培養。
新型機が近づく。それにしてもやかましい。旋盤工場のようなこの耳障りな高周波はどうにかならないものか。そして、主翼に下げているものがうわさのジェットエンジンであることがはっきりと確認できた。仰々しいエンジンナセル以外は、機体はスマートで、優美さすら漂っていた。本当にこれが戦闘機か。イライは、普段乗っているノスリの方がよほど獰猛に見える。それを示すかのように、チナミたちの二機のノスリがエプロンへ。プロペラはまだ勢いよく回っており、水煙を巻き上げている。
やがて、二機の新型は停止した。地上の整備員は、イライの知らない顔だった。ホガリの姿も見つけたが、彼も新型に駆け寄ろうとはしていない。もしかすると、整備員も新型なのかもしれない。いつの間に届いたんだ。そういえば、エプロン脇には見慣れない自動車が何台か並んでいた。給油車と、あの箱を背負った車はなんだ。コヤチダ本線経由でいつの間にか運ばれていたのか。飛来が極秘なら、運用に必要な物資郵送も極秘の内に行なわれたかもしれない。イライはもう、この場から離れたくなっていた。何より寒い。新型機からはストーブが燃えるような匂いがした。途端に赤くストーブが燃えるPXを思いだし、チョコレートが欲しくなった。今日はまだ飛んでいないのに。
新型機のキャノピーが開いた。おそらくは編隊長。見晴らしのよさそうなキャノピーはアクリル製だろうか。一体成型技術も進んだものだ。パイロットはハーネス類を手早くはずすと、マスクをはずし、ゴーグルを上げた。年齢、三十歳前後か。整備員が用意したボーディングラダーを降りた。レンダが駆け寄り、握手を求めた。パイロットはそれに鷹揚に応じると、笑顔を見せた。何ごとか言っているようだが、取り巻く円のさらに外周で様子をうかがっているだけのイライやハスミの耳には届かない。そして、二番機のキャノピーが上がる。同じようにしてゴーグルとマスクをはずし、ラダーを降りる。小柄だ。もし自分と並んだのなら、頭ひとつ分くらいは背が小さいだろう。まるで少女のようだ。
思い至って、イライはふと気づく。二番機のパイロットの、邪気のない笑顔だ。ゴーグルをはずすと、子供のような瞳が見える。
「まさか」
口に出してから、ハスミに聞かれてしまったことを悔いた。奇襲のはずなのに、敵機に向かって射程外からやみ雲にぶっ放した機銃のような言葉だった。案の定、ハスミがこちらを向いた。
「どうした」
「あのパイロット」
「二番機の方か」
「そうだ。知ってるか」
「エリートさんかな。新型機に乗れるくらいだ。俺たちのような退役間際のポンコツとはちがうんだろう」
「女だ」
「女?」
「ああ。女だ。あれは」
女、と聞くと目の色が変わるハスミでも、イライの声音に別の物を感じたのかもしれない。茶化したりはしなかった。
「女のパイロットなど、めずらしいか」
「違う。……あれは、違う」
「知り合いか」
イライは、歓待ムードが一気に高まりつつあるエプロンに背を向けた。
「イライ?」
「眠くなった。俺は宿舎へ戻る。飛行割が出たら教えてくれ」
「おい、イライ?」
「気分が悪いんだ。……今朝食ったハンバーグのせいだ」
「イライ」
言ったが、ハスミは追ってはこなかった。
あの女。
イライはやや早足にして、エプロンから出た。霧雨は上がっていたが、基地を包みこむ霧のような水滴はまだ漂ったままだ。
このまま吹雪になって、新型機もろとも滑走路が雪にうずもれればいい。
イライはまっすぐ飛行場区画を出た。格納庫の横を通るときには、駆け足になっていた。
よりにもよって、どうしてこんなところに。
イライは喉の渇きをかんじた。
PXでコーラを買おう。チョコレートもだ。
そのまま宿舎へ戻り、呼集がかかるまで、俺はベッドの中だ。
冗談じゃない。
イライはいらだった。いらだちの原因がはっきりしているだけに、余計に腹が立った。




