5
待機所を出たときは、決まっていつも顔の脂っぽさにうんざりする。結局一度もコクピットに座ることも、自分の戦闘機に触れることもなく、イライとハスミは待機所を出た。雨だった。しとどと濡れるアスファルトには落ち葉がびっしりと張り付き、吐く息は白かった。ハスミはそのままイライを食堂に誘ったが、イライはやんわりと断った。飛ばなかった日は腹も減らない。若いころからそれは変わらない。おそらくハスミはイライよりも若い分、食欲もあるのだろう。色づいたナナカマドを見上げて、深紅に染まった実についた雫を数えて、ハスミの背を見送った。ハスミは飛行服のポケットに両手を突っ込み、小柄な背中をさらに丸めて、落ち葉をにじりながら歩いて行った。寒い朝だった。
もしかすると、そんなに長い時間ではなかったのかもしれない。イライはしかし、自分では記憶が停止するほどの時間を、待機所を出た先の通用路に立っていた。細かな雨が糸のように降り注いでいる。防水を考慮していない飛行服はもう雨に染まりはじめていた。寒かった。冬を予感させる冷たさだった。イライもまた、両手を飛行服のポケットに突っ込んだ。自分の体温が、そこだけまだアラート待機のままだった。待機所に戻ろうかと思うほどに、寒かった。もし、一度でも飛んでいれば、高揚する精神状態が、このように低い体温のままイライを許すことはなかっただろう。こんな雨でも、上がれば雲海を見下ろし、空にはまぶしいばかりの秋の日があるはずだ。
雲低高度はどれくらいだろう。顔を上げた途端、瞳に飛び込んできたのは秋雨の雫だった。瞬きをすると、それは瞳から零れ落ち、飛行服にまたひとつ、染みを作った。飛行隊の誰にも見られたくないと思った。まるで、涙を流しているみたいじゃないか。たとえば未帰還者の家族の涙を見ても、自分の涙はもうはるか記憶の彼方に沈んでいた。涙を流す機能があることすら、もしかすると自分の身体は忘れているのかもしれないと思った。愛情? 一撃で撃墜してやるのが、俺流の愛情だ。誰にも言ったことはなかった。けれど、それが本音だった。
雨は降りやむ気配もみせず、もしかするとこのまま雪になるのではないかと思うほど、気温は低い。イライは宿舎へは向かわず、通用道路をPXへ向かった。喉が渇いていた。煙草も切らしてしまった。この時間ならもう、営業しているだろう。
PXに入ると、暖房が心地よかった。救われた気がした。飛んでいる間は寒さなど感じても苦痛に思うことは少ないのに、地上にいると寒さがしみる。町のスーパーマーケットとまでは行かず、場末の雑貨店のような趣のPXの隅で、石油ストーブが赤く燃えていた。なじみのレジ係は今朝もあくびをかみ殺そうともせず、イライを見ると涙を浮かべて笑った。
「煙草?」
「喉が渇いたんだよ」
「アラート明け?」
「機密だ」
レジ係は二十代前半と思しき、少女然とした女だったが、イライたちパイロットに対してまったく気後れもせず、堂々とした態度はみなから好感を持たれていた。毎年何人かは彼女を口説こうとするが、至近距離から発砲する曳光弾を敵機がひらりとかわすように、彼女は応じたことがなかった。
「今日は何個?」
「一個でいい」
「どうせすぐ切らすんでしょ」
「一個でいいんだ。俺は」
仲のいい父と娘はこんなやり取りをするんだろうか。さりげなく、互いの領域を守りつつも、胸襟をある程度開けるような。
「他には」
「喉が渇いたよ」
イライはそう言って、冷蔵庫からコーラを一缶取り出し、サッカー台に置いた。よく冷えていた。だからイライは言った。
「こんなに冷えてるのはめずらしいな」
「いま入れたばっかりだからよ」
レジ係はそう言ってからりと笑った。ようするに、ついさっきまでこのコーラは、バックルームに眠っていたということだ。それだけ今朝が冷え込んでいると彼女は言いたいのだ。
「冷えてるのは歓迎するよ」
「こんなに寒いのに」
「関係ないさ」
イライは煙草とコーラ一缶と、チョコレートを一枚買った。飛んだあとなど、コクピットで飴をかじったりすることがあるが、糖分は大切だ。耐G性にも強く関わってくるそうだ。もっとも、今日は飛んでいないから、チョコレートはあくまでイライの嗜好だった。
「イライさん」
コインを手渡し、お釣りを受け取り、レジから離れようとしたイライに、彼女が呼んだ。
「タグサリさん、見つからないの?」
イライは、空戦中なら命取りになるくらいの時間だけ、普段の生活ならほんの一瞬分、彼女から視線をはずした。
「見つからないみたいだな」
イライはそれだけ言うと、PXを出た。雨はまだ降っており、庇の下でコーラのプルトップを開けた。よく冷えていた。缶をあおった。炭酸が大暴れして喉を下っていく。心地よかった。そして、レジ係の彼女の名前を、自分は知らないことを思い出す。ネームをつけていたような気がするが、彼女の印象は、あの声音だけだった。名前に興味がなかった。
もっと言えば、イライは、墜ちたタグサリに対する感情、ようするに同僚のパイロットたちへの希薄ともいえる感情と同レベルのものしか、他人には持ち合わせていない。
いつか、俺もみんなもいなくなんだ。
余計な情は、悲しみを増すだけだ。
コーラをあおった。四口ほどでなくなってしまった。喉が渇いているというのは嘘ではなかった。コーラたった一缶では、その渇きが癒せるはずもない。
雨脚は強まることも弱まることもせず、相変わらず糸のように、そして冷たく、落ち葉が張りついたアスファルトに降り注いでいた。
これくらいの量の水を飲んでも、俺は満たされないだろう。
何に対して満たされないと思うのか、そこまで思考をつなぐことはせず、イライは煙草に火をつけ、そして雨の通用路に出た。
チナミが朝食の席でハンバーグがまずいとひとしきり文句を垂れたあと、イライのテーブルにそっと近寄り、妙な目配せをした。
「なんだ」
イライはスライスされたトマトをかじっていた最中だった。チナミが文句をいうほどに、ハンバーグはまずいと思わなかった。
「K781がアツマの西で残骸を見つけたそうだ」
それが何を意味するのか、イライはトマトをかじるのをやめた。
「間違いないのか」
「キリウが言っていた。間違いないだろう」
チナミはまずいまずいと文句を言ったわりに、すべてを平らげた朝食のトレイを持ったまま、平淡につぶやいた。
「GC-8に間違いなかったのか」
「六翅プロペラが牧草地に転がっていたそうだ。機体は黒焦げだったらしい」
「写真偵察を敢行したのか」
K781は友軍が保有する双発、俊足の偵察機で、最高速度に達すれば、ノスリでも追いつけない。ただ、その分高高度を飛行する。光学レンズで目標を確認、撮影し、機銃は積んでいない。偵察機にとって武装はデッドウェイトだからだ。その分軽く、速い。そして、六翅プロペラを採用している戦闘機は、GC-8「ノスリ」だけだった。
「写真まで撮ったかどうかは知らん。撮ったのかもしれん。キリウは見たかもしれないが、俺は見ていない。ただ、残骸は確認されたそうだ」
チナミはトレイをイライの向かいに置き、そして自分も腰掛けた。
「場所は間違いないんだろう?」
「機密だ」
「味方相手にか」
「キリウに言われた」
「純粋培養組の肩を持つとは、大尉らしくもない」
チナミは笑いもせず、胸ポケットから煙草を一本抜き、イライに断りもせず火をつけた。
「肩を持っているわけじゃない。規律の話をしているだけだ」
「ますます可笑しな話だ」
チナミの喫う煙草は煙が濃い。積乱雲のようだ。あのアラート勤務以来、空は重く鈍く、雲底は低いままだった。
「パラシュートでも見つかったのか」
イライはふたたびトマトをかじった。基地のあるこの区域では、もはやとうの昔に旬を過ぎた野菜だった。コヤチダ本線経由で、南の海峡を越えて運ばれて来たか。
「さあ。そこまでは俺も訊けなかったし、キリウも何も言わなかったよ」
チナミにはことさらじっくり時間をかけて煙草を喫っていた。イライはトマトを食べつくし、キャベツの千切りを目いっぱい口に放り込む。右手でミルクがたっぷり注がれたグラスを手繰り、一気に半分ほど飲んだ。
「救難機は入海を越えられない」
イライはキリウとの会話を思いだす。
「救難機ではなく、偵察機を飛ばすとはな。どこから飛んだんだ」
「大方、チップの偵察航空隊あたりからだろう。中立地域まで飛べる偵察機は、あそこにしかいない」
チナミはずっと表情を変えない。真夏の油照りの空のような瞳を、じっとイライに向けたまま、煙草を喫った。
「訊いていいか」
煙草を喫うチナミに、ミルクのグラスを空けてから、イライが言う。
「なんだ」
「なぜキリウと話をした」
こんな朝っぱらから。それは言わなかった。
「セムラと俺が飛ぶからだ」
「飛行割りには載ってなかった気がするが」
「急遽決まった。一時間後、飛ぶ」
「セムラと、お前とでか」
「そうだ。二機だ」
「どこへ。まさか中立地域ではないだろう」
セムラが足かせになるもんな。お前が首をたてに振るはずもない。思ったが言わなかった。
「帰って来たら教えてやるよ」
チナミは煙草を根元まで灰にすると立ち上がり、隣のテーブルから灰皿を取り上げて、そこにもみ消した。灰皿はくすぶる吸殻を載せたまま、イライの前に置かれた。チナミ流の気遣いかもしれない。だが食後すぐにイライは煙草を喫わない。同僚の癖を、ここでもやはりお互いに知らないのだ。
イライはチナミが去ったあともなお、彼が残した積乱雲の切れ端が食堂の空気に漂うのを眺めていた。その向こうから敵機が飛んでくるような気がした。もはや、病気だ。
食堂にハスミの姿をなんとなく首をめぐらせて探してみたが、すでに食事を終えたか、さもなければ非番と決め込んで部屋で寝ているか、どちらかだ。彼の姿はなかった。
イライはトレイを返却口に戻すと、待機所に入った。煙の層がいつもより薄かった。パイロットの数が少ない。今日は何曜日だったか。壁のカレンダーを見やったが、そもそも今日が何月の何日なのか、イライはすぐに思い出せなかった。当日の気象条件ならそらで言える。けれど、カレンダーがわからない。これも病気だ。
気象隊の予報では、北の海峡から張り出している低気圧の影響がまだ消えず、ここ数日続いている空模様は変化の兆しがないという。うんざりだ。飛行割りを見たが、向こう三日は自分のローテーションが回ってこない。タグサリ機が撃墜されて以降、中立地域へ戦闘機が飛び立つことはなくなっていた。おそらく、ハスミが「ミサゴ」と呼んだあの敵機の存在があるからだ。飛行隊全部の戦闘機が相手になれば、いい勝負かもしれない。が、中立地域上空でそんな派手な行動には意味がない。幕僚監部も了解しないに違いない。そうでなくても、三ヶ月前に四機の戦闘機を無謀とも言える中立地域への飛行で失っているのだ。タグサリ機に続いてたとえばチナミやセムラが撃墜されでもしたら、キリウはおろか、飛行隊長のレンダまで、北海の孤島のレーダーサイト勤務か、さもなければ、前線基地と前線基地を結ぶ連絡便パイロットにでも転属になるだろう。彼らは勇敢だったが、愚かではなかったはずだ。
イライは待機所の指定席につき、だまって羽音を聞いていた。チナミとセムラのGC-8、ノスリがランナップ中だった。エンジンはもう暖気を終え、パイロットを待っていた。もてる限りの技術を投入して設計された排気タービン搭載の大出力エンジンが、いまはおとなしくアイドリングをしていた。六枚の可変ピッチプロペラが穏やかに回転していた。そしてイライは彼らの戦闘機の主翼に視線を移す。左右の主翼にそれぞれ一本ずつ、増槽タンクを下げている。あの日と同じだ。あの小春日和、タグサリと自分は、主翼に増槽を下げ、針路を南へ取ったのだ。
まさか。
イライはいぶかしむ。ここの幹部連中がおろかではないといっても、限度を越えているのかもしれない。よもや、ふたたび中立地域への哨戒飛行でもするつもりか。装備はまったく同じに見えた。加えて酸素ボトルの数でもわかれば、彼らの任務が何であるか、イライでなくとも想像はつくだろう。
いや。
イライは待機所の入り口のラックから引っ張り出してきた雑誌を広げる。釣りの本だった。イライは釣りなどやったことがない。幼い日、仲間たちと川で遊んだことはあっても、この雑誌に載っているような、きらびやかなアクセサリーのような仕掛けを施した釣竿など持ったこともなかった。雑誌に落としていた視線を上げる。パイロット二人が機体に乗り込もうとしていた。セムラもチナミも、いつもどおり落ち付いていた。死地に赴くような雰囲気ではない。やはり違う。中立地域への哨戒飛行などではない。イライは判断した。だが、次に続かない。では彼らは一体どこへ向かうのか。
やがて、二機のノスリは羽音を高め、エプロンから出て行く。吹流しは東へ向かって流れていた。だから、彼らは西へ向かって離陸する。陽射しを背に受け、離陸する。轟音をとどろかせて、チナミとセムラは見事なフォーメーション・テイクオフだった。セムラも上達したものだ。アイズならああは行かないだろう。
イライは思う。
一度、自分の飛んでいる姿を、地上から見上げてみたい、と。