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夜半過ぎ。イライは仮眠室のベッドで目を開いたまま仰向けになっていた。隣のベッドではハスミが枕を頭の上に載せたままの姿勢で寝息をたてていた。およそ警戒感のない姿だった。たとえば子供のように。イライがそんな連想をしたのは、もしかすると予感だったのかもしれない。
日付が変わろうとしている時刻、基地は平和だった。緊急発進を告げる電話は沈黙を保ち、待機室で十分待機を続けるもう一組のパイロット二人の低い談話の声が、薄い扉とパーティションで区切られた仮眠室までしとしとと届く。もう一組のパイロットはユサとアイズで、ユサがイライと同じ大尉、アイズは少尉だった。アイズは確か、三回目のアラート任務のはずだ。ユサがイライと同じ四機編隊長資格を持っているのに対して、アイズはまだ二機編隊長資格すら持っていない。ようするに若かった。イライから見れば、高等学校を卒業したての子供と同じだ。戦闘機操縦過程を修了してそのままこの基地に配属されたらしい。アイズとは二、三回しか言葉を交わしたことはなく、ともに飛んだことはまだなかった。そんなことを思ってベッドに横たわっていた。静かな夜だった。
このまま夜が過ぎてくれればいい。計器飛行に頼らざるを得ない夜間飛行は、誰もが敬遠する。それはイライも同じだった。海の上を飛ぶときは、漁船の灯火と空の星座が相対して区別がつかなくなることもある。美しい、そんな感傷が湧きあがったときがいちばん危険だった。人は何かに見惚れるとき、自分の位置を失っていることが多いのだ。戦闘機に乗るとき、自分の意思を失うことはすなわち死を意味する。確かに美しい夜空のもと、イライも星座を探すことはあった。航法のためだ。が、意識して見惚れないよう注意した。自分はそういったものが好きなのだ。だからなおさら。
ハスミが寝返りをうった。スローロール。右のエルロンを使って、機体を滑らかに横転させる。操縦桿を劇的に操作し、くるりとロールさせるのは誰でもできる。それを倍の時間、三倍の時間をかけるのは難しい。スローロールを一定の速度でこなすことは、たとえばアイズには無理だろう。ハスミは、きっとできる。ユサも、多分できる。けれど、中立地域へ飛んで、ハスミが「ミサゴ」と呼んでいたあの戦闘機が襲いかかってきたとき、スローロールなど役に立つだろうか。フェイントとしてなら役に立つかもしれない。それにしても奴は速かった。排気管から吹き出していた青白い炎は忘れられない。あれはなんだったのか。飛行隊長のレンダに訊いたところではぐらかされるだけだ。幹部学校出の純粋培養組はイライたち飛行学校出を軽視する傾向にあった。それは班長のキリウも同じで、航空団幹部はみな同じだった。そういえば、今待機所で低い声でアイズに空中機動を伝授しているらしいユサも、幹部学校出のパイロットのはずだ。彼らは誇り高く、一様に抑制の効いた性格の持ち主だった。
目を閉じてみた。すると、聴覚が冴えてくる。耳の底に、夕刻宿舎に流れていた音楽がよみがえってくる。きっとレコードだ。基地のあるこの区域は電波状況が決してよくなく、飛行隊が使用するアンテナは目立たないぎりぎりまで高さを稼いでいた。個人所有のラジオの受信状態など推して知るべしで、もっとも近い放送用中継アンテナは、宿舎の部屋から目を細めて眺める山地の手前、戦闘機で飛べば三十分ほどだが、自動車やモーターサイクルで走れば半日かかるような場所にある。レーダーサイトもすぐそばにあるから、北方への偵察飛行の際はそこを必ず通った。この区域で、初雪の便りがもっとも早く届くあの山を越えると、海峡に出る。基地からその山地を越える北方監視の偵察飛行に出ることはあまりなかった。海峡の向こう側は味方の実効支配の効かない領域だったが、あちらに大規模な戦闘機基地があるとも聞かない。ときおり偵察機が識別圏すれすれまで飛ぶことはあるようで、そのときは緊急発進が行なわれるが、年に何回もなかった。こちらの戦闘機が最大巡航速度で識別圏に到達したころには、もうあちらの偵察機は姿形もなかった。
目を閉じたが眠くはならなかった。アラート待機が明ければ非番になるが、その前にまた十分待機のローテーションがめぐってくる。眠っておいた方がいいのはわかっていた。けれど眠くならなかった。ハスミの寝息が気になった。そして、中立地域で墜ちたタグサリを想った。なぜ、中立地域にたった二機で哨戒に上げられたのか。解せなかった。ハスミとの会話で、イライはあのときの自分たちをエサだと自嘲したが、それはそのとおりだと感じたからだ。様子を見たのだ。上は。そして、イライとタグサリという生餌は、まんまと獲物をおびき出すことに成功したわけだ。イライは何の警告もなく、相手の一機を撃墜した。あれはツイていた。相手が初心者だったに違いない。あれほどイライが接近したにもかかわらず、回避するわけでもなく、逆に襲い掛かってくることもなかった。思い出してもあれはイライ側の完全な奇襲だった。よほどの初心者が新型に乗っていたのか。あるいはイライ側の奇襲が運良く成功しただけか。
虎の子とも呼ばれる新型の戦闘機に、初心者を乗せるだろうか。友軍もガスタービン機を開発しているとは聞く。ハスミに言われずとも、飛べる機体が存在しているらしいことも知っている。試験機ではなく量産機が飛んでいるらしいが、実戦配備されているのかどうかは知らない。レンダやキリウは知っているかもしれないが、イライたちには教えられてもいない。だから性能や諸元もよくわからない。その点、姿形をはっきりと視認し、ついで撃墜にまで至った敵機のほうが、味方の新型よりも身近だった。
相手の新型の第一印象を簡潔に述べるなら、その速度は特筆に価する。速かった。低空での急速旋回性能ならノスリの方が上だろう。だからノスリがミサゴを撃ち墜とせたのだ。奴は旋回速度に自信がないに違いない。噂に聞いたとおりだった。そして、あの上昇力は噂以上だった。タグサリは運が悪かった。エレベーターが効かなくなったノスリを、ミサゴは狙い済まして撃ち墜としてしまった。そのあとでイライが逃げ切れたのもまた、運がよかっただけかもしれない。ガスタービンエンジンの弱点として、その高回転ゆえの加速性の悪さが挙げられているが、巡航速度で勝ち目はないだろう。わざと逃がしたのか、それとも互いに僚機を失い、戦闘を避ける気になったのか。イライはただ逃げただけだった。まともにやりあえる相手ではないと判断したからだ。出撃報告書にもそう書いた。タグサリが墜とされる要因となったあの一手、敵機の急上昇を見たとき、もうすでにこちら側は王手まで数手というところまで追い詰められていたのだ。イライはだから逃げた。
眠れない。目を閉じたまま、ユサの講釈に聞き耳を立てていた。彼は後輩思いで、飛行隊の誰からも嫌われていなかった。幹部学校出の奴らはみんなそうだ。人格者で誰からも好かれる。そういう遺伝子があるのだ。そして、自分は幹部学校出の奴らには疎まれている。扱いづらいのだ、おそらく。イライもまた、自ら彼らが操縦しにくいように振舞ってきたからだ。嫌う理由はどこにもなかったが、あの純粋培養面を見ると、素直に仲良く、という気分にはなれなかった。彼らは辺境のこの基地に配属されても嫌な顔ひとつせず、基地の仲間や町に住む人々を守ろうと真剣に思っていた。きっと、幼いころから愛情をたっぷり与えられて育ったのだ。だから、他人に分け与えるだけの愛情も持ち合わせている。自分にはない。他人に与えるほどの愛情など、ない。
ハスミはどうだろう。スローロールを打ったきり、ハスミは動かなかった。イライはハスミから、一度だけ聞いたことがあった。
(俺はね、イライさん)
まだ、ハスミはあのころ、自分を「さん」付けで呼んでいた。
(パイロットになりたかったわけじゃないんだ)
いつかわした会話なのか、まったく記憶になかった。元来イライは必要以上のことを記憶できない頭脳を持っていた。要点だけ覚え、他はすっぱり忘れ去ってしまう。おそらく端から覚える気がないからだ。物事や事象を、選択して記憶する。見たものすべてを記憶していたのでは、脳の容量がいくらあっても足りない。イライはそう思うから、あのときのハスミの背景を思い出せない。季節すら。
(俺は、イライさん)
ハスミがどんな服装だったかもわからない。一緒に飛んだあとだったのか、それとも食事を終えたときだったのかも。
(絵描きになりたかったんだ)
表情はよく覚えている。敵機がいつどんなタイミングでエルロンを切り、エレベーターを使ったか、ラダーはどちらに向けていたか、それらをすべて記憶しているように。
(でもね、俺にはセンスがなかったんだ)
イライは絵を描く能力がまったく欠如していた。文章は書けても、絵は描けなかった。あれは特殊技能だ。おそらく天賦の。
(美術学校に行くつもりで、ずいぶん絵を描いたんだ。風景画ばかりだけどね)
ハスミの目はよく澄んでいた。パイロットに共通する目だった。
(だから目だけはよくなったよ。遠くばかり見てたから。俺の故郷は、ここによく似ているんだ。冬は寒くてね。誇れるのは景色だけだった)
ハスミの出身地も聞いたような気がするが、地名は思い出せなかった。イライが記憶できる地名は、爆撃目標や偵察対象地域くらいのものだった。
(でも、俺のセンスじゃ美術学校には合格できないって、宣告された)
イライの幼い日の夢はなんだったろうか。気づいたらパイロットになっていた。そう、空が好きだった。いつでも空を見上げていた。棚田の上空をパスして行った三機編隊の戦闘機は、おそらく既視感だ。未来の自分を、あの時、道端の道祖神に誓ったのだ。だから、幼い日の夢は、宣言するまでもなく「空を飛ぶこと」だった。
(俺の学力じゃ、大学には行けなかった。金もなかった。そしたら気づいたのさ。三食が保証されて、しかも他人よりは優れた視力を持っていて、ついでに給料までもらえる職業があるってね。飛行学校の試験を受けたんだよ。だから)
絵描きのセンスは、もしかするとパイロットにも共通するかもしれないな。イライはハスミとかわした会話で、そう答えたような気がする。うまくは説明できないが、ハスミの飛び方を見ると、空に軌跡を描くその飛び方を見ると、彼が絵描きを志望していた片鱗がうかがえる気がした。考えて飛んでいない。空全体にある自分の位置を、常に把握しているように見えた。空を画用紙かキャンバスに見立てて、ハスミの戦闘機はそのキャンバスの上に走る絵筆か何かなのだ。自分の飛び方とは違う。イライは考えて飛んだ。
(でも、今にして思えばね、パイロットになったのは正解だったかもしれない)
どうしてだ、そう問うた記憶。
(下から見上げていた風景を、上から見下ろすのはいい刺激だよ。おかげでスケッチブックが前より埋まるようになった。飛んでる間は楽しい。敵機に出会わなければね)
イライは違った。敵機に出会おうがそうでなくても、飛ぶことそのものが楽しかった。自分の飛行を邪魔する者は、排除する。排除できない存在があれば、逃げる。敵機だろうが、積乱雲だろうが、同じだ。それが自分のスタイルだった。
(イライさん、こんな話をしたのはあんたが初めてだ。悪かった)
あのときハスミはそう言ったが、言葉の意味とは正反対の顔をしていた。笑っていた。
(身の上話をするつもりじゃなかった。ただ、なんとなく、あんたには話しておいた方がいいと思ったんだ。ありがとう)
礼を言われる所以はなかった。が、イライはハスミにうなずいた。
眠れない。夜は更けていた。ハスミは眠っていた。ユサはまだ講釈を続けていた。アイズがときどき相槌を打っていた。
緊急発進を告げる電話は、沈黙したままだった。