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基地は海を渡り、海岸線沿いに国道上空を二十マイルほど飛び、ソラノ川の河口を十マイルほど上流へ、コヤチダ本線の赤い鉄橋を過ぎて真ん丸い沼地を越えたすぐそこにある。一面だけ伸びた滑走路は二五〇〇メートル。対空砲陣地の土塁が上空から確認できる。川の上で機首を振り、速度を殺してアプローチに入る。可変ピッチプロペラは大きく、反転トルクは着陸時に気を使う。が、増槽を捨てた挙句に空戦機動を経た機体は軽く、風の影響も無視できる程度であるから、着陸は楽だろう。
行きは二機で、帰りは一機か。イライは補充人員がいつ来るのか、グラブの中の汗がすでに乾いたことを感じながら、思った。タグサリが生還するとは思えなかった。コクピットへの直撃弾ではなかったようだが、座席も飛ばず、パラシュートも出なかった。自分が見えたのはタグサリ機のキャノピーが飛んだところまでだ。その時点で彼の機体後部は炎に包まれ、プロペラは回っていた。要するに緊急脱出の初動シーケンスであるプロペラ爆散が失敗したということだ。もし自分なら、脱出できる状況ではなかっただろう。脱出できたとして、パラシュートが開ききるだけの高度も怪しい。
沼を越えた。すでに主脚は下ろしている。降着灯を点灯させ、管制塔に帰還を告げる。労をねぎらう言葉はなく、未帰還のパイロットを悼む声もない。今日はまだましだ。六機が出撃して四機が帰還しなかったのは、つい三ヶ月ほど前の話だ。以来パイロットも戦闘機も補充がなく、班長はローテーションに頭を悩まし、パイロットは疲れ果てていた。飛ぶことに嫌気を感じたことはなかったが、イライ自身、果てしない諦観にとらわれて、気づけば仲間とはなれて自室のベッドに転がっていることも多くなった。まるで学校を出たばかりの新米のようだ。今日、果たして二機ではなく、四機で出撃していればタグサリは墜とされずにすんだか。それはわからない。考えても無駄だ。
主脚が滑走路に接地する。ほとんど煙も出ず、軟着陸。スポイラーを立て、スロットルを絞る。エプロンまで機体を運び、エンジンを切る。キャノピーを開くと、秋風が冷たかった。コクピットには一応空調が……といっても暖房だけだが……ついている。しかしそれ以上に、密閉された空間から開放されるこのとき、イライは気づけば大きく息を吸い込んでいる。
「お帰り」
ホガリがボーディングラダーを用意する。イライは無言でラダーを降りる。
「タグサリは」
知っているだろうに、ホガリは訊く。イライが答えないのも知っているのにだ。ラダーを降りきり、イライはわずかな時間、ホガリに向きあった。自分より頭半分背が低い。俺よりパイロット向きなのではないか、何度思ったかわからない。イライは飛行隊でいちばん上背があった。
「煙草、持ってるか」
言葉の接ぎ穂が見つからなかったわけではない。もちろん探したわけでもない。ただ煙草を喫いたかっただけだ。
「持ってるが、ここではダメだ」
「わかってる」
イライはホガリから離れ、やや早足で進む。ホガリは追ってこない。パイロットに代わって戦闘機に乗り込んだ。空中戦を終えた機体だ。そのまま掩体に格納するわけにもいかない。ホガリは牽引車を呼び、機体を整備庫まで運ぶ。イライはまっすぐ待機室へ向かった。扉を開ける寸前、わずかに振り向いた。愛機と、牽引車、そしてコクピットのホガリが見える。今日も被弾しなかった。が、タグサリ機は墜ちた。待機室に入ると、パイロットたちの視線が一斉にイライを向いた。飛行隊の年齢的序列では、イライは上から数えたほうが早い。タグサリはイライの次に年を食っていた。出撃前に彼が喫った煙草は、きっとまだこの部屋の灰皿に残っているのだ。けれどイライはタグサリが出撃前、どのソファに身を投げ出し、どの灰皿に煙草の灰をぶちまけていたのかを知らない。イライの席は待機所の出入り口から最も遠い窓際と決まっており、そしてイライはタグサリがいつもどこに座っていたのかを覚えていない。
「イライさん」
指定席に腰掛けようとして、呼ばれた。セムラだ。ローテーションで一昨日いっしょに飛んだパイロット。年齢的には下から数えた方が早い。
「タグサリさんは」
イライは答える代わり、セムラの飛行服の胸ポケットから煙草を抜いた。
「もらっていいか」
セムラは答えず、オイルライターを差し出して火を点けた。きつい煙草だ。タグサリが喫っていた煙草と同じなのかどうかも、イライはわからない。
「イライさん」
「墜とされた」
我ながら感情が欠如していたと思う。案の定、セムラは表情を固めたまま、立ち尽くしていた。
「敵の新型だ。初めて見た。タグサリはあれに墜とされた」
言うと、場にいたパイロットたちが少しざわめいた。声のないざわめき。ここまで来たか、そんな印象の吐息が混じる。
「でもイライさん」
「なんだ」
「一機墜としたと」
窓の向こうから回転翼機の羽ばたきが聞こえる。救難機か。タグサリが墜ちたのは海ではない。そして、彼が墜ちたのは中立地域であり、彼は墜ちたのではなく撃墜されたのだ。回転翼機がどこへ向かうのか。
「気をつけることだ。奴は速い」
「新型、が」
セムラのよこした煙草はうまくない。自室に戻れば自分の煙草があったが、今は座りたかった。ソファに身を預ける。
「イライ」
セムラの肩越しに、別のパイロットが呼ぶ。チナミだ。年齢的には、真ん中。
「班長が呼んでる」
「これを喫ったら行く。伝えてくれ」
「自分で言え」
チナミも飛行服姿だった。
「セムラ、行くぞ」
セムラはイライの前を離れる際、ほんのかすかな躊躇を膝の裏に見せた。何か訊きたいのか。イライは喉から出かかったが、待機室の扉を音を立てて開き出て行くチナミの後姿に、言を飲み込んだ。セムラは胸ポケットの煙草を、イライの座るソファ横のサイドテーブルに投げ出すように置き、短く嘆息して部屋を出た。外はまだ日が高い。本日四ソーティ目か。ランナップするエンジン音がイライの耳にも届いた。牽引車に引かれて二機のGC-8がエプロンに並んだ。機番はセムラとチナミの乗機だ。イライが以前配属されていた飛行隊では毎日乗る戦闘機が変わったが、ここは戦闘機とパイロットの数が同じで、パイロットは毎回同じ戦闘機に乗った。言い訳できないところが気に入ったが、くせのある機体をあてがわれたと文句を言うパイロットがいることも知っていた。それも言い訳だとイライは思っていた。
背後で何かを放り投げる音が響く。振り向くと、一冊の雑誌がゴミ箱に命中せず、床に転がっていた。
「はずれたか」
タグサリの次に年増のパイロットがつぶやいた。
「取っておいてやれよ。奴の読みかけだ」
別のパイロットが言った。
「イライの顔を見ろよ。帰ってこねぇよ。あいつは」
雑誌を放ったパイロットが、片手にサイダーのビンを握ってつぶやく。
「冷たい奴だ」
俺のことかと言おうとしたが、イライはとどめた。ソファに座った時点で、どっと疲れがあふれ出していた。目を閉じる。セムラとチナミの機のエンジン音が高まっている。まぶたの裏には、敵の戦闘機の排気ノズルから吹き出していた炎がよぎる。
新型か。
俺は新型じゃないからな。
イライは飛行班長が呼びに来るまで、ソファで午睡を決め込んだ。呼びに来たら報告に出向いてやる。たっぷりと、あの数分間のできごとを話してやる。班長が嫌になるまで。
タグサリは墜とされたのだ。
飛行班長はキリウといった。イライよりはわずかに若いと聞くが、実年齢は知らない。少佐の階級を持っていたが、純粋培養の臭いがした。ともに飛んだことが数回あるが、反転トルクを「上手に」利用した飛び方をする。イライはあまり好きではなかった。だが、腕はあった。キリウの駆る戦闘機は、鳥のように飛んだ。
「報告は以上です」
イライが言うと、キリウはシガレットケースから煙草を抜いて火を点けた。仕草そのものを言葉にしようとする、それは大根役者がリアクションに困って行なう小技のように思えた。反転トルクを利用するように、俺を利用してみろ。イライは眉に意思をこめてみたが、キリウには見えなかったようだ。
「DF200だ」
ふた口ほど煙草を吹かしてから、キリウが言った。
「はい」
「あんたの見た新型だよ」
「はい」
「こんな奥地まで配備されてるとは思わなかった。上には報告を上げる」
「連絡機を出すのですか」
「バカな。撃墜される」
「では」
「定期便に報告書を載せる」
基地の裏手に、コヤチダ本線の信号所がある。航空ガソリンや弾薬、その他の物資はそこに作られた簡易プラットホームで荷受された。定期便とは、貨物列車のことを指していた。
「爆撃されないことを祈ります」
「皮肉か」
「タグサリは墜ちました。それだけで十分です」
イライはできる限り屈辱を唇の端に浮かべないように努力した。僚機が撃墜される。こんな屈辱は、自分が撃墜されるに次いでのものだ。
「救難機は入海を越えられない」
航続距離のことを話しているのか、それとも敵の脅威のことを話しているのか、イライは詮索しないことにした。
「レンダさんはなんと言っているんですか」
「隊長は何も言っていない」
「キャノピーは飛びました。けれどプロペラが飛ばなかった」
「絶望的だな」
「そうは言ってない」
キリウは手荒に煙草をもみ消し、罫線だけが鮮やかな複写式の書類を放り投げてよこした。
「明日までに書いてくれ。明日の昼には定期便が来る。それに載せる」
「出撃報告書でいいんですか」
「我々の戦闘機は偵察機じゃない。それともスケッチでもしてくれるのか」
「ご要望なら」
「期待してない」
「ハスミに描かせますか」
「モンタージュを作るわけじゃない。あんたの言葉でよく分かった。もういい。戻っていい」
飛行服のままのイライ、制服のキリウ。事務室の空気は淀んでいた。キリウの吐き出した煙草の煙が層雲のようだった。イライは一礼して踵を返す、が、退室寸前で立ち止まり、ドアを向いたまま言った。
「チナミとセムラを上げたのは誰の指示です?」
滑走路に面した事務室は静かだった。ブラインドのスラットは中立位置で、傾きかけた日差しが縞模様を床に落としていた。
「俺だ」
キリウが答えた。
「空対空装備で?」
「そうだ」
「ひとつ訊いていいですか」
沈黙。キリウが応えたのだ。
「俺とタグサリはなぜ飛ばされたんですか」
沈黙。
「本当は知っていたんじゃないですか」
沈黙。
「電探情報が俺たちを追いかけてきたのも不可解だ。違いますか」
「イライ大尉」
「はい」
「俺は答えられない。それが答えだ。わかってくれるか」
イライはドアを向いたままで、一度瞬きをした。普段なら瞬きなど意識しないはずなのに、そのときは自分が一度瞬きをしたと、はっきりと認識した。
「わかりません」
イライはそう言い残し、部屋を出た。
煙草を喫いたかった。自分の煙草を。
イライは飛行服の前をはだけた。汗の臭いが上がってきた。航空ガソリンの匂いも上がってきた。短く刈った髪を、右手でかきむしってみた。汗が散った。煙草の前にシャワーでも浴びるか。
明日はアラート待機だった。ならばいい。今日はもう飛ぶことはない。
チナミとセムラが帰ってこなくても、今日はもう俺は飛ばない。そうさ。俺のノスリは格納庫で整備中だ。
右手の拳を握り、軽く壁を、ノックするように突いた。冷たかった。次に、今度は腰を入れて右腕を振る。壁が鳴る。思いのほか大きな音がした。
キリウにも聞こえたことだろう。
今日の空はことのほか青かった。