17
未帰還機が六機出た。
その日、イライはタクシーアウトしていく四機のノスリを、ストーブが燃え、ケトルが蓋を弾ませる待機所から眺めていた。朝の出来事だった。煙草を喫っていた。あと数本で切れる、そう思った。煙草の箱は軽かった。今日はフライトがない。ハスミを見舞ってから、まだ飛んでいない。飛行割りを毎日見るが、イライの名が乗らなかった。機体はすでに調整され、ガソリンを入れればいつでも離陸できる状態になっていた。テストフライトをさせろとホガリに言ったが、断られた。俺が許可を出すわけではない、と。
滑走路とエプロンが黒々としていた。そのほかは、白かった。
雪の季節だった。
海流の関係なのか、このあたりはさほど雪が多くない。多くないというだけで、降らないというわけではない。もうすぐ根雪だ。寒暖計を見なくても、季節がもはや秋ではなく、冬のそれだというのはわかった。わかっていた。イライは憂鬱になる。様々なことで。まず、離着陸に気を使う。なかでも着陸だ。滑走路が凍結していれば、当然着陸の際の制動距離が果てしなく伸びる。過滑走帯ぎりぎりまで機体が止まらないこともある。万一爆装した状態で離陸して、爆弾を投下することなく帰投する際は、帰り道、海上で爆弾を投棄する。夏場も同じことをするが、冬場は深刻だ。オーバーランでもやって脚を折った日には、飛行割りから数ヶ月単位で名前をはずされるばかりでなく、配置転換すら覚悟しなくてはならない。イライはそこまで未熟ではなかったが、過滑走帯をはるかにオーバーしたあげく、戦闘機を逆立ちさせてそのまま炎上したパイロットを知っている。彼は二度と飛ぶことはおろか、自分の足で歩くこともできなくなってしまった。そんなことをぼんやり、煙草を喫いながら午前中を過ごしたとき、待機所があわただしくなった。飛行服姿のチナミとユサがパニックドア方式の待機所の扉に体当たりをして飛び出していった。見ると、エプロンでは二機の戦闘機がトーイングカーに引かれて、すでに暖気中だった。主翼下に増槽タンクを二本、やがてもう二機、トーイングカーが戦闘機を引っ張り出してきた。つづいて待機所に現れたのは、アイズだった。起き抜けのような顔をして、それでも飛行服は上下きっちり着込んでいた。
「イライ大尉」
声に振り向くと、キリウがいた。めったなことでは待機所に顔を出さない飛行班長だ。彼もまた飛行服をまとっていた。しばらくぶりに彼の飛行服姿を見た気がした。
「なんだ、あんたも飛ぶのか」
新しい煙草に火を点けて、イライはキリウに笑って見せた。
「三〇三から四機が未帰還になった」
姉妹スコードロンの第三〇三飛行隊の話だ。
「ケツを拭きに行くのか。班長自ら」
「三〇三は残存戦力から六機、さきほど離陸させてる。こちらからも出す。あんたも飛んでくれ」
「俺がか。冗談はよしてくれ。飛行割りからはずされっぱなしの俺が飛ぶのか」
「わたしも冗談を言っている余裕はない。敵の編隊が防空識別圏に迫っている。数は、わからない。先遣の三〇三が全滅してる。爆撃機でも控えていたら大事だ。出てくれ」
イライはソファに座り直した。
「新型はどうしたんだ」
「彼らは実戦部隊ではない」
班長らしさをこんなところで出さなくてもね。イライは危うく口にするところだった。けれど飲み込んだ。
「一度出撃してるじゃないか。なぜ出さない」
「我々がやる。イライ、頼む」
そう言って、キリウはまっすぐにイライの目を射た。めずらしく真摯な態度に、イライはいささか驚いていた。
「おれたち旧世代をまとめて始末するのか」
「どうしてそんなことを」
航空ヘルメットにマスク。どれくらいの高度から迎撃を行うのか、それでなんとなく想像がつく。ならばなおさら、ターボジェットの彼らを出せばいい。一個飛行隊分展開している、ノスリⅥ型だっている。
イライはキリウから視線をはずした。彼らはどこまでも純粋培養で新世代なのだ。撃墜すべき敵がいるというのに、人間に絶望していないのだ。彼らの眼前には希望しかない。仮に希望がないのであれば、彼らは自分で希望を作り出そうとする。それが自分の使命だとでもいうように。
イライはますます屈託する。キリウもそうだ。あの新型機を駆るヨノイもそうだ。純粋培養の彼らは、イライにとってまぶしい。だから目をそらした。
視線をはずしたままのイライを、キリウは最後ににらみつけるような目を向けると、それ以上の言葉を残さず、イライの前を去る。イライは残された。
残された待機所は、それでもにぎやかだった。窓の向こうの、タキシングしていく戦闘機の爆音でだ。喉に渇きを感じていた。煙草を喫いたいと思った。そして、今の自分が飛べば、二度とここへ帰ってこられないような気がした。以前なら、きっと思っただろう。それならそれでいい、と。それ以上に、以前の自分なら、二度と帰ってこられないかもしれない、そんな感情を抱くこと自体が少なかった。僚機が撃墜される。それは屈辱だ。自分が撃墜される。それはもっと屈辱だ。自分が撃墜されることを想像する。それも屈辱だ。イライは自分が戦闘機に乗る理由について、一瞬だけ考えた。まっとうな理由からではないような気がした。一瞬でそう感じた。
爆撃機が控えていたら?
俺が撃ち墜とす。
俺が存在できなくなる原因を排除するためだ。
そうしていままで生きてきた。
窓が震える。ノスリのプロペラが巻き起こす後流が、窓にぶち当たっている。機番を読む。セムラだった。キャノピーが日を浴びていた。そこだけ夏と同じ色をしていた。今は冬だというのに。凍てついたエプロンから誘導路を経て、さらに眼前の滑走路を、二機のノスリが離陸していく。
イライは嘆息する。
もしかすると、胸の内に湧いていた諦観を含ませて。
イライは、待機所を出た。喉の渇きを感じたままに。PXに行く気など、起きるはずもなかった。
空はよく晴れていた。雲もなく、風も弱かった。気温は下がっていたが、照り返す雪面に、イライは目を細めていた。
爆音を聞きながら。
行き着いた先に、なじんだ機体があった。かすかな煙草の匂いを感じた。爆音は空をまだ揺るがしていた。レシプロエンジンとしては、もはや戦闘機搭載型の最大出力限界近くに達しているノスリのEJ20は、火を入れ、スロットルを開けると、とてつもない爆音を奏でる。頼もしく、力強い音だ。イライはその音が好きだ。かすかな煙草の匂いの先に、暖気中のノスリがいた。
「来ないと思ったよ」
煙草は何本目だろう。掩体に寄りかかり、ホガリが笑わない目をしていた。
「来るつもりはなかった」
イライは寒さに震えた。待機所から幾ばくかの逡巡ののち、結局足は乗機の眠る掩体地区に向いていた。
「では、なんでそんな格好で来た。俺には飛ぶ気のないパイロットの姿には見えないがね」
「寒いからさ」
「普段しゃべらないから、あんたの口は減らないんだな」
ホガリはまだ笑わない目をしていた。けれど、イライはそこに自分と同じ色を見た。ホガリがなぜパイロットにならなかったのか、訊いたことはない。基地のパイロットたち以上に、戦闘機を知り、そして好んでいるように見える。なぜ飛ぶ方にまわらず、送りだす方を選んだのか。機会があれば、そうだ、機会があれば、今度訊いてみよう。はぐらかされるかもしれない。が、今度、訊いてみよう。今じゃない。
「暖気は十分だ。点火時期も調整した。ハーモニゼーションも完璧だ。俺が思うにね」
「信頼しているよ」
「では、俺もあんたの減らない口を信用することにしよう」
「飛べるんだな」
「燃料搭載量を知りたいか」
「増槽は二本か」
「しかも満タンだ。離陸でこけるなよ。凍ってる」
「着陸の方が心配だ」
「着陸の心配をしているなら、大丈夫だ。行ってくれ」
イライは軽くうなずいた。
なぜ、飛ぼうと思うのか。
コクピットに身を沈める。掩体の中は冷えている。外以上に。イライはヘルメットをかぶり、マスクをつけた。酸素ビンは三本。燃料を使い果たして、ちょうどいいくらいの量だ。久しぶりのコクピットだった。操縦桿の感触や、いやに固いシートの座り心地が、妙に懐かしい。計器類のチェックをする。ハスミの顔がよぎった。もう、奴は飛べないのか。飛ばないのか。わからない。プリフライトチェック、終了。異常なし。ホガリにハンドサインを送る。チョーク、はずせ。スロットルを開ける。機体がゆっくりと動き出す。そういえば、ホガリはいつ煙草を消したのか。キャノピーを閉じ、ロックする。そして、するすると誘導路に、機体を滑らせる。
バックミラーにホガリが映りこむ。首をすくませて、プロペラ後流を受けていた。ピッチを上げる。コクピットのヒーターは作動しているが、どうにも寒い。上がればもっと寒いだろう。基地のグラウンドを呼び出す。離陸のクリアランスを求める。やはり、自分が最後だ。あきれたような管制官の声が耳を打ったが、許可が下りた。滑走路に進入する。それにしても、風もない。雲もない。気圧が高い。空気が硬いような気がする。硬質な金属か、そんな色。塗装したような空の色だった。まっすぐ伸びた滑走路は、ところどころ凍り付いている。それが空を映して青かった。
スロットルを全開位置に。一瞬でエンジンは吹け上がり、機体は満タンの燃料分をスポイルされた加速力で滑走路を走り出す。じれったいと感じたが、イライは操縦桿を引かず、速度を稼ぐ。雪をかぶった山と、裸の木々。右手に待機所と、管制塔が加速度を上げて後方へすっ飛んでいく。普段より速度超過気味でエレベーターを引いた。反応はよかった。下半身から伝わっていた地上の感触が、ある一点で消える。機体が浮いた。ギヤを上げ、角度はそのまま、加速しながら緩やかに上昇する。味方の編隊は、管制塔の誘導では、もう五十マイルほど先行している。無線はオープンにしていた。ナヨシの街並みを右手に見ながら、左へロール。二〇〇ノット、いい速度だった。やはり久しぶりのGが、意外なほどに心地よかった。もしかすると、自分はこのために飛んでいるのかもしれない。飛んでいると実感するために。
イライは、作戦に支障が出ない程度のエンジン出力で、可能な限りの速力と高度を稼ぐ。僚機はない。今は、自分だけだ。いや、きっと今までも、編隊飛行をしていたときですら、飛んでいたのは自分だけだったのだ。だから、屈辱を感じたのだ。それはこれからも変わらないに違いない。左旋回を続けると、再び基地の上空に差しかかる。北向きに離陸した際のコースだ。戯れるつもりはなかったが、イライは素早く機体を背面に入れる。頭上に滑走路と基地が広がった。二機のハチクマは、どこにいる?
見えるはずもなかった。
先行していた味方の編隊は全部で十六機。いずれも無線封鎖をしていなかったから、イライの耳にはパイロットたちの声がすべて届く。空中戦はおよそ飛ばない人間がイメージするほどに殺気だったものではない。いや、相手を撃墜するために飛ぶわけだから、空間は殺気に満ちている。ただ、交わされるパイロットたちの声音は、あるいは緊張が含まれていたとしても、怒鳴り合うことはない。静かなる殺意が、空域全域にみなぎっていた。
機関砲の試射は必要なかった。イライはスロットルを最大に、昇れるだけの高度を稼いでいた。二機を最小単位とする現在の空中戦で、イライは明らかに編隊を乱していた。自分は十七機目の戦闘機で、ぽつりぽつりと浮かぶ雲を利用して、すでにたなびき始めている黒煙の先を目指していた。誰かが、すでに、撃墜されている。それが敵機なのか味方機なのかはわからない。
「ヒムロ・ナナよりヒムロ・リーダー」
イライは静かに声を出す。
「ヒムロ・リーダー、ナナ。今頃どうした」
キリウの声だ。落ち着いている。
「リーダー、ナナ。飛べというから飛んできた」
「ナナ、リーダー。ヒムロ・キュウが一七○、レベルにいるはずだ。目標は、見えるな」
「誰か墜ちたか」
「ヨンが墜ちた」
ヒムロ・ヨン。割り当てられたコールサインは誰だったのか、今は思い出すよりも先にスロットルと操縦桿にそえた指に、わずかな熱がこもった。
「ナナ、リーダー。聞こえているか」
キリウの呼びかけに、イライは無線スイッチのオンオフ二回で応えた。あとはもう話す必要がない。ヒムロ・キュウ、チナミだ。機番を確かめるまでもなく、手前に湧き上がった雲の峰のすぐ下側にいた。イライはやや機首を下げる。速度が上がり、キャノピーが風を切る音が暴力的に大きくなる。風がやや強い。横風気味だ。ラダーペダルの左側を踏み込んだ。
「ヒムロ・ナナ、キュウ、生きてるか」
「今頃登場か。レベル、二五○、二機いる。速度差はほとんどない。奴ら、爆撃機の護衛だ」
「爆撃機?」
「町を狙ってるわけじゃなさそうだ。進路が違う。海峡に出ようとしている」
「何機見た」
「まだ腹のでかい奴が、最低でも四機。まだ後続があるかもしれない。レーダーサイトは何も言ってこない」
「護衛は、エスコートは?」
「セムラが一機やった。ナナ、イライ、三時、いた!」
チナミは言うが早く、素早く機体を右へロール、雲の峰を回り込むようにして変針した。主翼端から真っ白いヴェイパートレイルを曳きながら。イライも続く。機関砲弾を装填、電気式の装填装置が小気味よい音を立てる。イライ機はほぼ主翼を垂直に立て、右主翼を下にしたまま、チナミ機の三〇〇メートルほど後方に占位する。雲が近い。キャノピーに触れるようだ。触れたらさらさらと音がしそうな気がする。空が青い。高度は、二万フィートにやや届かない。
見えた。敵機は無塗装のプロペラ機だ。まだ遠かったが、イライの目には機種がわかった。単発のプッシャー、ノスリと同じターボチャージャーを搭載したE201の型式を持った機体だ。機体規模はノスリとほぼ同じで、エンジン出力はわずかに彼らの方が上だ。陽光に機体をきらめかせ、四機。二対四では分が悪い。
「キュウ、チナミ、ダメだ。編隊を組み直せ」
「遅刻したくせに何を言ってる」
「セムラとアイズは」
「名前を呼ぶな」
「奴らはどこだ」
「爆撃機を追いかけてる」
「エスコートがここにいるんだ。近いんじゃないのか」
「奴らは、体のいいおとりだよ。おとりにしては、ちょっとばかり強敵だが」
ハスミがいてくれたら。イライはプロペラピッチを最大に。ロールから水平飛行へ操縦桿を戻すとき、やや機体がぶれた。風が強い。
「チナミ、流されてる」
「ネコザメはこいつに乗ってるんだよ」
ネコザメ。敵の爆撃機のコードネーム。相変わらず幕僚監部のネーミングセンスを疑う。
「やり過ごすか」
イライの問いに、
「墜とす」
普段、質問に質問で返すような口調のチナミがめずらしくまっすぐに答えた。
「行くぞ、大尉」
「お前と心中はゴメンだ」
「死ななければいいだけだろうが」
言うとチナミは唐突に機体を背面に入れ、そのままパワーダイブに移行した。イライはやや遅れた戦闘隊形で続く。E201は四機編隊の間を詰めている。かき乱す気か。チナミとイライの二機は背面のまま、ほぼ垂直に降下する。キャノピーが、カナードが、そして主翼が猛烈な風切り音を立てている。この速度で引き起こせば、リベットが飛ぶ。下手をすれば、また翼にしわを寄せてしまう。急激な機動で速度を殺す必要はない。チナミはあのハチクマが得意とするような一撃離脱を考えているに違いない。垂直降下からゆっくりと機首を上げ始めた。それでも降下は続く。対気速度計の針がが四〇〇ノットのあたりをふらふらしている。五〇〇を超えると引き起こすこともできなくなる。頃合いだった。
「イライ、十二時」
「わかってる」
「頭をやる。イライ、カバー」
無線スイッチをオンオフ二回。イライは応え、チナミよりやや高度を持ち、対気速度三七〇ノットでレベルオフ。光学照準器の端に四機編隊の二機が飛び込んでくる。気付いているはずだ。それでも相手が回避行動を取らないのは、向こう側の速度も速すぎるからだ。急降下からの引き起こしは、もともと対地攻撃機だったノスリの機体強度の方に分があった。
閃光。チナミが撃った。やや遠い気がしたが、曳光弾がきれいに集束して、見越し射撃をした先頭の機体に次々と吸い込まれていく。黒煙。一機、撃墜だ。
「イライ」
「ライトターン、後ろをやる」
先頭を撃墜された相手の編隊はブレイク、一機と二機に分かれる。イライがチナミと入れ替わり、分かれた一機を追う。速度はまだノスリの方が数段上だ。降下からレベルオフ、それからまだ旋回すらしていない。ラダーペダルが粘っこい。いつもの感覚だ。それでだいたいの速度がわかる。正面に湧き上がる雲が白い。雲の中に逃げ込む気か。その前にイライの照準器の真ん中に、瞬きするほどの時間、相手の機体が飛び込む。すかさず短くイライは撃つ。四門の二〇ミリ対空機関砲が吠える。発射速度を上げているため、発砲音は断続的に聞こえる。パイロットにとって、飛翔していく弾丸は、その実際の速度よりずっと遅く見える。早く、早く当たれ。イライは航跡を見なかった。すぐさま操縦桿を一度引きつけ、瞬時に左へ倒し、ラダーペダルの右を強く踏み込んだ。風車とまでは行かないが、ノスリは敏感に反応する。ややタイムラグを感じるのは、まだ両主翼に増槽タンクを下げているからだ。捨てるか? ネコザメに追いつくまでは、まだだ。
閃光。イライのバックミラーに四散するE201が映りこむ。撃墜だ。あっけない。
「イライ、そのまま上昇だ、上昇。後方、六時」
チナミにの声がざらついている。イライは振り向きもせず、スロットルを再び最大位置へ叩き込み、タービンが猛烈に回転するサイレンに似た音を背後に聞き、眼前の雲の峰を駆け上がる。とたんに背後から曳光弾が襲ってくる。ブレイクした相手編隊の残り二機だ。これで二対二。チナミは……? 探すまでもなく、イライの左主翼の遙か下、高度差にして三〇〇フィートほどにいた。突き上げる気だ。
増槽タンクを捨てたい衝動に駆られる。雲の峰を駆け上がりながら、息苦しかった。ノスリのエンジンがいくら強力でも、垂直に上昇することなどできない。上昇角度はいいところ五〇度だ。徐々に速度が落ちていく。その前にイライは操縦桿を引き、瞬間的にスポイラーを立てた。ノスリの機体特性のひとつだ。上昇角度がこのあたりで、操縦桿とスポイラーを併用すると、瞬時に背面反転ができる。機体後部に重心がある割に、こういう芸当ができるのも、やはり出自が対地攻撃機であるからかもしれない。が、この技を実戦で試す人間はあまりいなかった。失敗すればそのまま失速し、敵の餌食になるだけだからだ。
反転したイライのノスリは、追いすがっていた敵機とほぼ正対した。イライは迷うことはなかった。トリガーを引く。長く引いた。自機が背面から順面へ移行する間、発砲した。弾幕を張るようにして、曳光弾が筋を描く。そのうち何発かでも当たればいい。当たらなくても、下から突き上げてくるチナミがもうすぐ撃つだろう。敵機との相対速度は、互いに上昇中だったこともあり、せいぜい三〇〇の上あたりだ。が、すれ違う手前、相手機のキャノピーが砕け散るのを見た。当たった。それでいい。機体への命中に変わりはない。パイロットに当たったか? どうでもいい。機体に当たれば、それが致命傷ならば戦闘機もろともパイロットは死ぬ。パイロットに当たれば、……二〇ミリ対空機関砲の直撃を受けて、パイロットに生存の可能性などみじんもない。順番の違いだ。どちらでもかまわない。自分が攻撃する分には、だ。自分が撃たれたとしたら、そう考えるのは、乗機のメインギヤが滑走路にそっと触れ、トーブレーキを踏み込んで機体が完全に静止し、キャノピーを上げ、ハーネスをはずし、コクピットを降り、そして、機首の機関砲まわりに浅黒いススがこびりついていたり、あるいは撃墜した敵機の破片が作り出した傷を見たときだ。飛んでいる間にそんなことを考えていては、殺される。
「イライ、チェック・シックス」
鋭い声に、イライは瞬時に機首を翻し、右主翼を上にしてバンク。曳光弾がイライのキャノピーの真上あたりを通過した。撃墜した敵機のウィングマンだ。
「チナミ、任せる」
「勝手なことを」
右主翼を立てた体勢から、そのままロールし、イライは右へ旋回した。得意とするフェイントだった。速度は落ちるが、敵機が一機なら、オーバーシュートしてくれることもある。まして、相手はノスリよりも機動性と加速力にやや劣る。最高速度ではノスリが劣るが、降下速度ではノスリが上だ。単に機体が頑丈なのだ。が、イライは急降下で速度を稼ぐと、緩やかに操縦桿を引いた。左のラダーペダルを踏み込み、操縦桿をやや左へ。機首をやや上に向けたまま、イライはキャノピー越しに上空を見る。一気に一〇〇〇フィートほど降下した。速度は上々、そのまま正面の雲に入る。雲は白く陽光を反射していたが、密度はさほど濃くもなく、飛び込んでも機体が翻弄されるようなこともなかった。
「チナミ」
呼びかける。
「戻ってこい」
「生きてるか」
「こんなときに皮肉か。いい加減にしてくれ」
雲の中でイライは上昇しながら旋回している。高度計が時計回りに鋭く回る。急降下で得た速度を、いま再び高度へ変換するのだ。エンジン音は快調そのものだった。甲高いタービンの音と、機体が空気の中へ切り込んでいく音。コクピットはにぎやかだ。そしてイライは、高度計がさきほどの急降下で失った分の高度を取り戻した頃合いで、イライから見て頭上方向、陽光が差し込み明るく輝く雲と空の境界を目指した。おそらくは、このあたりだ。
「チナミ、どこだ。太陽はどちら側に見える」
「話している暇はない。右上だ右上」
怒鳴りながらもチナミは答えてきた。ハスミや、そしてタグサリほどの回数を飛んだ経験はなかったが、チナミもまた、生き残ってきたパイロットだった。あの孤島の基地と比べてのどかだとはいえ、こうして敵の爆撃機が防空識別圏ぎりぎりを飛んでくる。やはりここも前線なのだ。前線で生き残っているパイロットは皆、優秀だった。あらゆる意味で。
雲が切れた。
真っ青な空、そして、真っ白な雲、乳白色に染まりかけた雲の峰々。時間が流れている。空中戦を始めて、それでもまだ十数分と言うところだ。基地を飛び立ってから、どれくらいだろう。太陽が移動しているのがそれでもはっきりとわかる。もう、午後だ。そして、雲と雲の谷間に、無塗装の戦闘機と、制空迷彩のノスリがいた。近い。あたりだ。こういうカンははずれたことがない。説明しろと言われても、数値化できるものでもない。けれど、なぜか、当たる。
「チナミ、動くな」
返答を待たずに、イライは撃つ。機関砲の残弾が気になり始めていた。全弾を撃ち尽くしたことなど滅多になかったが、今日の目標は敵の爆撃機であり、敵の戦闘機ではなかった。しかし、と考える。ほんのわずかな時間。戦闘機の目的は、敵の航空機を撃墜することだ。目の前にいるのは敵機とチナミであり、撃ち墜とすべき存在は、チナミではなく、間違いなく敵機だ。彼の名は知らない。知らない方がいい。きっと知り合えば悪い奴じゃない。そう思った自分を不思議だとイライは思った。今まで敵機のことなど考えたことはなかった。目標は敵の戦闘機であり、敵のパイロットは戦闘機の付属品程度に考えていた。だとしたら、自分もこのノスリの一部であり、部品ということだ。ある意味当たっていて、まったく見当違いな認識のような気がした。それでは自分はなんのために存在しているんだ。
撃つ。考えるのはやめた。
照準環の中に敵機の主翼がかすかに掠めた。それは撃ったあとだ。敵機と自分の相対位置はほとんど変わらない。自分が直線的に追いかけている体勢で、だから見越し射撃もほとんど必要ない。当てるつもりはなく、チナミを逃がすための数発だった。
「チナミ」
「わかってる」
雑音の向こうで、別の僚機がネコザメの編隊に襲いかかっていると誰かの声が叫んでいた。到達したらしい。チナミの機体がやや傾く。機首をわずかに水平より沈めた、主翼の抵抗がもっとも少ない姿勢での加速に入ったのだ。イライが撃った相手はまだ飛んでいたが、二対一で戦いを挑むのは、愚の骨頂だ。自殺したいのなら止めないが、賢明な判断ではない。敵のパイロットも自殺志願者ではなかったようだ。全速力でイライたちの二機から離れていった。敵の戦闘機の編隊は、今どこにいるのか。
チナミはイライ機よりもやや高度を取り、そしてキャノピーの向こうからイライに頭を振った。それが合図で、二機はほぼ同時に増槽を捨てた。抵抗を失った機体が加速を増した。やがて、前方の碧空に、ちらほらといくつかのきらめきが、二機を誘うように舞った。
「いた」
どちらともなくつぶやいた。黒煙は見えない。それにしても高度がある。三万フィートに届く。コクピットは寒かった。残弾は、どれくらいだろう。燃料残量は、ほとんど心配がない。イライは右手にチナミを見、身体の芯がほんのわずか、熱を帯びるのを感じる。なんのために飛ぶのかって? きっと、このためだ。
空中戦は間延びしていた。味方が何機墜とされたのか、敵機が何機生き残っているのか、一瞥しただけではわからなかった。甲高いタービン音を背中に聞いて、正面に四機、やたらとバカでかい飛行機が見えた。ネコザメだ。敵の四発エンジンの爆撃機だ。銃座がちらちら発砲している。当たるはずもないとイライは妙に冷めた気分で思っていた。戦闘機の速度に比べれば、爆撃機のそれは、地上の対空砲を攻撃するよりも簡単だ。少なくともイライはそう思っていた。何せ、相手も飛んでいる。致命傷を与えれば、放っておいても墜ちるのだ。地上の対空砲はそうはいかない。やはり、俺の相手は飛行機なんだ。
「ヒムロ・ナナ、キュウ。ほかは?」
「サンとニ、ロクが見える。墜とされた様子はない」
「頼もしいことだ」
墜とされたヨンは誰だったか。イライはまだ思い出せずにいた。
「行くぞ」
「黙ってろ」
イライは機体を左へ素早くロールさせる。空気が薄いのが、操縦桿を通して感じる。エルロンに粘りがない。ターボエンジンを搭載したノスリの、進化の果てが高々度迎撃機となったⅤ型だ。基地でさんざん古参を相手に遊んでいたⅥ型はどこにいる。ハチクマと同じでおやすみか。いい身分だ。口には出さないが、イライは胸の内で罵っていた。
「ヒムロ・ナナ、キュウ、リーダー。目標、一八○、あれを墜とせ」
キリウだ。まだ残っていた。セムラの機体も見える。見知った機体で、いま見えない者はいなかった。優秀なことだ。先遣が全滅したのはなんだったのか。イライは無線スイッチのオン・オフ二回で応えた。
二機の増援に、ネコザメは右主翼を下げた。旋回を始めている。こいつはまだ腹がでかい。ネコザメを見るのは何度目だろう。それほど見慣れた相手ではなかった。でかい。バカでかい。が、その分足が遅いようだ。四機編隊を組んだネコザメの、シンガリにまず後方から照準環を合わせた。この爆撃機は、側方と前方と上方にそれぞれ対空機銃を装備しているが、どういうつもりか下方と後方には銃座がない。後ろから狙ってくれといっているようなものだ。
「ネコザメは全部で何機だ」
あと、三〇〇、二〇〇。カウントダウンをしながら、無線に訊いた。
「視認したのは六機。一機はクチナシが撃墜した」
キリウの声だった。クチナシは姉妹スコードロンの三〇三に割り振られたコールサインだ。イライは口の中で苦笑を噛みつぶす。クチナシとはひどいコールサインだ。香りは好きだったが、戦闘機にふさわしい名前ではない。自分に割り振られたヒムロ・キュウのコールサインも同じだ。まったくやる気が失せる。
「大所帯だな。どこを狙いに来た」
「ガス田だよガス田」
誰かが言った。雑音に紛れて誰かわからなかった。
「このまま北へ飛べば、掘削中のガス田があるのさ」
「それを?」
「分捕るんじゃなくてぶっ壊しに来てるんだよ」
乱雑な口調には覚えがあったが、イライはついに思い出せないまま、ネコザメの真後ろまで駆け寄っていた。パイロットの三分頭だ。トリガーを引く。ネコザメのエスコートはどうした。こんなに簡単に撃ち墜とされていいのか。イライは撃った瞬間、いや、撃ち終わった瞬間、機体を背面に入れてスプリットS。いつまでも張り付いていると、追い越す瞬間に撃たれる。十二、七ミリとはいえ、直撃を受ければひとたまりもない。だから、自分の撃った弾が当たったかどうか、見届けることはなかった。が、機体を逆ループから順面に戻したとき、仰ぎ見たキャノピーの上遙か高く、黒煙がたなびいていた。当たったらしい。二十ミリではこの程度か。雲が多くなってきていた。どこまで追いかけるんだ。




