16
停留所は、町から丘陵に上がった途中にあるようだ。通りからナヨシの街並みが見渡せた。空からは何度も見たが、この角度から街並みを眺めるのは、もしかすると初めてかもしれない。イライは枯葉がびっしりと散った街路を歩く。煙草を喫いたいと思ったが、やめた。閑静な住宅街だった。生け垣をまわした家が何軒か。キリウが示してくれた住所へは、まず通りを折れる。その角に黒く大きなセダンが停まっていた。風が吹き上げてきて、枯葉が舞った。海風ならぬ、川風だ。
病院は角を曲がるとすぐ正面に見えた。白い壁で、下から数えると七階建てだった。上品な建物だと思った。それは普段、迷彩塗装を施した掩体だの、モスグリーンに塗られた指揮所だの、そういった愛想のかけらもない建物に囲まれて暮らしているからかもしれない。かといって、イライは今さら、こんな上品な住宅街に埋没してしまいたいとも思わない。何となく、遠くへ来てしまった、そう感じた。
病院のエントランスは明るく、暖房が入っていた。常緑の観葉植物の鉢が並んでいて、受付でハスミが収容されている病棟を聞くと、顔色のやたらいい若い看護婦が笑顔を含んでエレベータを指さした。あれで上れという意味らしい。イライはまず煙草を喫いたかったが、手に持ったカタバミの花束が、それを許してくれなかった。ハスミに会うのが、今になって恐くなった。なぜだ?
エレベータは広かった。ストレッチャーごと移動できるようにするためだ。意味もなく自分が艦載機になったような気がした。以前空母に乗ったときに見た、艦載機用のエレベータを思い出したからだ。けれどイライは艦載機でもなく、空母に着艦したこともない。海軍のパイロットは空軍のパイロットを揶揄する。動きもしない滑走路に着陸するなんて、訓練生でもできる、と。そうかもしれない。そんな揶揄も、イライには無意味だった。イライは海が好きではない。空と溶けてしまうからだ。まして、空母に乗り組むなんてとんでもない。あそこは人間関係がややこしすぎる。
エレベータは七階で止まった。最上階だ。ハスミが収容されているのは、七○七室だという。エレベータを出ると、清潔そうな廊下がまっすぐに続いていた。アルコールの匂いがする。酒ではない、エタノールの匂いだ。この匂いは嫌いではなかった。もっとも、イライはガソリンの匂いの方が好きだ。オクタン価一〇〇の航空用ガソリンだ。
病院と花束は、相性がいいのかもしれない。少なくとも、フライトジャンパよりは。すれ違う看護婦たちはみな、カタバミの花束よりもイライのフライトジャンパを一瞥した。これならば、キリウの杞憂をそのまま受け入れ、制服で着た方がよかったかもしれない。こういう機会を考え、今度から制服にアイロンをかけておこう。いや、その前にクリーニングだ。
ナースステーションは出撃を控えたディスパッチャー席よりあわただしく見えた。そこを通り過ぎ、部屋のナンバーを見ながら、たどり着いたのが七○七号室だった。四人部屋で、部屋の入り口横にプレートがあり、ハスミの名があった。どこにも彼がパイロットであることなど書いてはいない。当たり前か。スライドドアは開け放たれており、入ると窓の大きさがまず目に入った。そして、ハスミは向かって右奥の窓際にいた。来訪者に耳ざとくなっているのか、目を閉じていたハスミは、イライが部屋に入ったとたんに目を開いた。瞬間、イライはここに来たことを後悔した。
「やあ、イライ」
ハスミはベッドに横たわっていた。しばらく会わないうちに、彼は痩せていた。
「めずらしいこともあるもんだ」
かすれがちな声でハスミ。声に張りがない。一気に五歳は老け込んだような顔をしていた。イライに傍の椅子にかけるように勧めた。
「それは、見舞いの品か」
カタバミの花束を見て、ハスミは笑った。いや、笑ったようだった。左の頬に大きく絆創膏が貼られており、頭には包帯が巻かれている。そうか。お前はそんな怪我をしたのか。今の今まで知らなかった。知らなくていいことと知らなければならないことがあるなら、眼前のハスミの容態は、どちらだったのだろう。イライは思う。
「よくそんな花、見つけたな。どこに咲いていた」
ハスミは起きあがろうとした。動きが緩慢だった。あの日の彼の機体のように。
「買った。今どき、こんな花は咲いてない」
「そうだな。今朝方は雪が降ったしな」
「雪?」
「気付かなかったか」
「いや」
「明け方、ちらついたんだよ。ここからはよく見える」
そう言って、ハスミは顔をしかめつつ身体を起こした。布団に隠れていた右腕が見えた。操縦桿を握る方の腕だ。二の腕に包帯がぐるぐる巻きになっていた。
「見晴らしがいいだろう。動かない街並みもいいもんだよ」
ハスミが言う。怪我のことには言及しない。あるいはイライが訊くのを待っているのかもしれない。
「花瓶はないのか」
ようやく口を開いたイライから出た言葉はそれだった。
「さあ」
ベッド脇のサイドテーブルに、水差しがあったが、飲料用のそれにカタバミを入れるわけにもいくまい。と、水差しの横に一輪の花が生けてある「何か」を見つけた。気がつかなかった。
「なんだ、これは」
イライが見ると、青く小さな花が一輪、生けてあった。花の名前は、やはりイライにはわからない。ただ、イライにもわかるものがあった。青い花を生けてある、その容器だ。
「誰だ、こんなものを持ち込んだのは」
「リンドウだ。秋の花だよ」
「花の話じゃない」
そのリンドウとやらは、二十ミリ機関砲の空薬莢に生けてあった。小さく可憐なリンドウの花を生けるにはちょうどいい大きさかもしれない。それにしても、どこの誰だ、病院に機関砲の薬莢を持ち込むとは。
「新型機のパイロットさんだ。それを持ってきたのは」
「なんだ?」
言われて、真っ先に考えたのはあのヨノイという名の大尉だった。
「あの男か。殊勝なことをする。それにしては冗談が過ぎるようだな」
「違う違う。女の方だ。カンナリ少尉か。彼女が来たんだ」
言われ、イライはカタバミの花を持ったまま、しばし立ちつくした。
「ユウが」
「あんたの娘だそうじゃないか」
「……」
窓からは確かにナヨシの街並みがよく見える。ソラノ川のやたら広い川幅も。その向こうに茶色と黒々とした針葉樹のまだら模様は、基地だ。赤い鉄橋もここから見える。
「いつ来た」
イライが問うと、ハスミはしばらく考え込むようにして、そして半身を起こしていた身体を再び横たえた。
「忘れた。ここにいると、時間の感覚がなくなる」
「あいつが来たのか」
「その、リンドウの花を持って。お前と同じように、花瓶を最初は探していたが、たぶん見つからないことも予想したんだろう。あの子は俺に謝りながら、それに生けたんだよ」
イライはカタバミの花束を持ったまま。
「機関砲の空薬莢なんて、いい趣味じゃないか。もしかしたら、そいつは、俺を狙ってた敵機を撃ち墜とした弾かもしれない」
「言葉がないよ」
「なんでだ。俺は気に入ったよ」
「節操がない」
「世間知らずなんだよ」
「それは、俺もだ。病院に見舞いの品を持ってきて、花瓶がないとは思わなかった」
「探せばあるかも」
「この花束を生けることができる空薬莢か。戦車砲の薬莢でも持ってくるか」
冗談のつもりはなかったが、イライの言葉にハスミは笑った。空咳のような笑い方だった。その姿を見て、イライは暗澹たる気分になった。もしかすると、ハスミは二度と戦闘機に乗れないのではないか。そう思ったからだ。
「それにしても、どうしてそんな季節外れの花を持ってきた。よく見つけたな」
ハスミはまた半身を起こした。つらそうだ。イライはさらに起きあがろうとするハスミを制した。
「いつだったか、俺にこの花の花言葉を教えてくれたのは、ハスミ、お前だ」
「そんなことを言ったか」
「俺は憶えてる。『心の輝き』。違ったか」
言うと、ハスミは苦笑した。声に出さず、唇を歪めた。
「そうだ。いつの話だったかな。そんな話もしたかもしれない」
「俺はよく憶えてる。お前はパイロット向きじゃない、そうも思ったよ」
「じゃあ何に向いている」
「絵描きか詩人だな。どうだ、今からでも」
イライが言うと、ハスミは顔を曇らせた。それも、露骨に。
「俺がもう飛べないと、そう言いたいのか」
予想外に鋭い言質だった。
イライは窓を向き、街並みを一回り眺めると、ハスミを向いた。
「怪我の具合はどうなんだ」
「見ての通り、と言ってもわからないか。俺は運がよかったそうだ。俺は憶えちゃいないが、あれだけ被弾した機体で帰還できたこと」
「憶えていないのか」
「すまないが、憶えていない。どうやって基地まで飛んで、どうやって着陸したのか、まるで」
「そうか」
「そして、あれだけ弾をぶち込まれて、俺自身には一発も当たらなかったこと」
イライは黙ってうなずく。
「けれど、コクピットは火災を起こしていた。この傷はそれだ。火傷なんだ」
「重いのか」
「この程度で済んだのが奇跡だそうだ。運がいいとさ」
「よかったじゃないか」
「よかったのか。本当に」
「なぜだ」
「右手の握力が戻らない。火傷もしたが、撃たれたときどこかにぶつけたのか、それとも破片がやはり当たっていたのか。右手の握力は、前のとおりじゃない」
イライはベッドサイドのリンドウを眺めていた。青、紫、そんな色。どこで摘んだのか。摘んだわけではあるまい。もしかすると、イライが今も手に持つカタバミと出所は同じかもしれない。
「リハビリをすればいい」
イライは小銃を持つように、花束を持ち替えた。
「それ以前に」
ハスミは視線をリンドウからイライへ、そして窓の向こうへと移す。
「恐いんだ」
「なにがだ」
「飛ぶことがだ」
晴れている。色ガラスのような空だ。真っ白な雲が、ソラノ川の向こう、ちょうど基地のある方角に湧いていた。
「俺はもう飛べないかもしれない」
ハスミが小さくつぶやいた。
「バカなことを」
「そうかな」
「違うのか」
「さっきあんた、俺に言ったじゃないか。今からでも、絵描きか詩人になれと」
「冗談だ」
「それにしちゃきつい」
「すまなかった」
イライが言うと、ハスミが笑った。空咳のように。
「あんたが謝るなんてね。はじめて聞いた」
「そうか」
「それに、見舞いだ。親子揃ってとは。案外義理堅いところもあるんだな」
「それは皮肉か」
「正直な気持ちだよ。あんたたちは不器用なんだな。そう思ったよ」
看護婦が来た。検診か。一言二言、看護婦はハスミに声をかける。それにハスミは応じる。基地にいたときよりも、ずっと繊細そうな声音だった。あるいはいまのハスミが本当の姿なのかもしれない。戦闘機を降りた彼が、本当の姿なのか。自分も、戦闘機を降りたとき、本当の自分に戻るのか。ではいったい、本当の自分とは何だ。そんなものがあるのか。
「きれいな花ですね」
看護婦が言ったが、それが誰に向けられたものなのかイライはわからず、黙っていた。
「何という花ですか?」
看護婦の目がイライのフライトジャンパから彼の目に移った時点で、彼女がイライに訊いているのだとわかった。
「カタバミ」
一言で答えた。
「花瓶、持ってきましょうか」
看護婦は、いくつくらいだろう。若い。ここの看護婦も、すれ違ってきた医師たちも、みんな若く見えた。イライは看護婦の申し出を受けた。ここに戦車砲の薬莢があるとは思えなかった。看護婦はイライからカタバミの花束を受け取り、部屋を出て行った。
「見舞いに来たのは、ユウと俺だけか」
「キリウも来た。それだけだ」
「俺は三番手か」
「順番なんて関係ない。あんたが来ること自体、俺は予想もしていなかったよ。不意打ちだ」
ハスミはやはり痩せた。いや、痩せた、という言葉は当てはまらない。彼は、やつれた。
「なあ、イライさん」
再び横になったハスミが言う。
「なんだ」
「リンドウの花言葉、知ってるか」
にやりと笑ってハスミが言う。
「知ってるも何も。俺はこの花の名前も知らなかった」
「正義、だよ。正義」
ハスミが言い、イライは黙っていた。
二十ミリ機関砲弾の空薬莢に、一輪だけ生けられたリンドウの花。鮮やかな青。可憐だった。ユウは、この花一輪だけを持ってここに来たのか。花束ではなく。
「俺が苦手な言葉だな」
イライは応えた。
「ひとつ、訊いていいか」
ハスミが問う。
「なんだ」
「あんたの娘は、カンナリ少尉は、……純粋培養か」
イライは即答しない。その間に、先ほどの看護婦が花瓶に生けたカタバミを持って戻ってきた。黄色いそれは、リンドウのように可憐だった。どちらも野花だ。ユウがなぜリンドウをたった一輪持ってきたのかはわからない。ハスミが言った花言葉が象徴するなら、正義はひとつでいいということか。そんな思慮が彼女にあるような気がしない。いや、わからない。
「なあ、どうなんだ」
ハスミがなおも問う。
看護婦が一礼して退室していくのを見送り、イライはようやく口を開く。
「俺が純粋培養に見えるか」
「それが答えか」
「違うか」
「はぐらかされた感じだ」
イライは小さく笑う。声に出さず。
イライは再び窓に目を向ける。飛びたい、と思った。自分の飛行機はもう直っている。ハーモニゼーションも二日前に調整された。いつでも飛べる。今日が休日なだけだ。
「空ばかり見てる」
ハスミが言った。力なく。
「窓が大きいだろう。よく見えるんだ。さっき、四機上がったな」
「見えるのか」
「見える。ノスリが四機だった。違うか」
「そうだ。誰が上がったのかは知らないが」
「飛行割りを見てこなかったのか」
「今日は休みだからな」
「あんたらしいよ」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ」
ベッドサイドに、リンドウとカタバミが並んだ。花瓶は白いセラミック製のもの。模様もなく、まるで高圧線の碍子のような材質だ。リンドウは、一輪、機関砲の薬莢に正義をささやかに主張していた。機関砲弾が正義だというのだろうか。俺たちの戦争に、正義があるのか。きっとあるのだろう。どこかに。探せば。けれど、関係ないとイライは思う。敵がいるから俺は飛ぶ。やはり、俺は飛ぶことに理由を探している。
「そろそろ、俺は帰る」
イライは腰を上げた。居心地のいい病室かもしれない。四人部屋に、ハスミはたった一人だった。軍の意向か、それとも病院側の配慮か。だったら個室をよこすだろう。イライは前者の意思を感じた。
「今度は、基地で会おう。待ってる」
イライは言った。空虚かもしれない。言ったあとで自分の言葉の響きに気付く。
「ありがとう」
ハスミは、一言、そう言った。そう言うと、イライから視線をはずし、窓へ向いた。
イライは、ハスミの視線をたどる。
空と、町と、川と、赤い鉄橋と、森と、その向こうに平原。基地。
やはり、制服で来ればよかったと、イライは悔いた。フライトジャンパは、戦闘機の匂いが強すぎた。見舞いに着てくるべきではなかった。
煙草を喫いたいと思っていたことを、イライは今、思い出した。