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 結局イライのノスリがある程度元通りになるのには、さらに十日を要した。その間イライは一度として飛ばなかった。この基地ではパイロットが乗る戦闘機は固定されている。だから、自分の乗機が故障あるいは定期点検に出ている期間、パイロットは飛べない。時に複座型の戦闘機の後席に乗り込み、若手パイロットのしなんやくに駆り出されることもあったが、まれだった。イライが所属する基地は最前線であり、まだ二機編隊長資格も取れないようなパイロットは、まず配属されてこなかった。配属されたとして、イライたちベテランが指南する前に、敵機が撃墜してしまうだろう。

 その日、誘導路は溶けた雪で黒々としていた。雑木林はすべて葉を落し、残っているのは針葉樹だけだった。草地には雪がうっすらと載り、吐く息は白い。イライは宿舎から二十分かけて掩体まで歩いた。いつもの場所だ。いつも、イライの戦闘機が格納されるシェルターだ。そこにはホガリがいた。久しぶりに顔を合わせた。

「予想外に重傷だった」

 ホガリが口を開く。吐く息は白い。

「どこが」

「左主翼に被弾しただろう。あれが予想外に傷が深くてね。それに、あんたは主翼にしわが寄るほどの無茶をした」

「垂直尾翼よりもか」

「垂直尾翼は交換した。それで済んだ。主翼を交換するには、ここの設備では無理だからな」

「主翼を交換するほどの傷だったのか。だったら交換してくれ。気分が悪い」

「一枚翼だからそう簡単にはいかない。共食い整備をするわけにも行かないし、大丈夫だ。そこまでは重傷ではなかった。外板がめくれて、中の桁に損傷があった。それを治すのに時間がかかったのさ」

 ホガリはこざっぱりとしたツナギを着ていた。彼が油にまみれた格好をしている姿を見たことがない。もっとも、イライがホガリたち整備員の作業過程を見る機会がほとんどないから、彼らはパイロットと会うときは、よそ行きの格好をしているだけなのかもしれない。

「まあ、表向きにはそういうことだ」

「表向きってどういうことだ」

「あんたになら言ってもいいかな」

 もったいをつけるような口調だが、ホガリの顔はいつもと変わらず、音楽堂の入り口においてある彫刻のような表情をしていた。つまり、彫り込んだような作り物の微笑だ。

「なんだ」

「戦闘機が補充される」

「ここにか。何機だ」

「向こう側、ほら、空いてる掩体がかなりあるだろう。あれを埋めるくらいにだ」

 いつかの夕食を思い出す。ヨノイが言っていたことは本当だったか。

「一個飛行隊分、十八機。くらいかな」

「全部新型か」

「GDBも来る。大半はⅥ型だ。レシプロ機の数を、タービン機が上回るというわけだ。そのための準備でね。整備員が交代で教育にぶち込まれている。それでこいつの修理に時間を要したのさ」

「いよいよ俺が飛ぶ機会が減りそうだな」

「聞いていないのか」

「何を」

「機種転換の話を」

 ホガリの言葉に、イライは顔をしかめる。

「今更俺にか。そんな話は聞いていない」

「まあ、俺も聞いていない」

「なんだ」

「あんたはⅤ型で敵の新型を二機撃墜だ。押しも押されぬエースじゃないか。英雄だよ」

 そういうホガリの口調はまるで真剣みがなく、けれど嘲笑する向きもなかった。淡々としていた。まるであたりを漂う初冬の空気のようだ。

「相手が間抜けだったんだ」

「ハスミはしばらく飛べないぞ。あれは、機体の損傷よりもパイロットのダメージの方がでかい。もっとも、機体は新しく造った方が早いかもしれないが」

 ハスミはあれから医務官の診察を受け、基地の外の病院に入院してしまった。前線基地とはいえ、ここには空軍病院並みの設備がなかったからだ。

「身体よりも、精神的にね。けれど、一緒に飛んだのがあんたでなければ、ハスミは墜とされていた」

「そうかね」

「謙遜は無意味だよ。二機のノスリでよく戦ったさ。しかもハスミの機体は戦う前から手負いだった」

「エンジンがぶっ壊れやがったからな。誰が担当だ」

「今となっては、どこが壊れていたのか、原因もわからない。機付はヤダだ。奴はここ一週間、げっそり痩せた。ハスミの機体は、あんたの機体とエンジンのロットが違う。アクチュエータの作動不良くさいが、いまとなってはわからん。それより、その状態で敵と遭遇して、帰ってこられたのが奇跡だ。あんたがいたからだ」

「敵を墜としたのは、ハチクマだ」

「最後はね。GDBは最高速に到達すれば無敵に近いが、ノスリのようには行かないのさ。瞬発力が決定的に欠けている。ハスミはあんたが助けたんだ」

「そうかね」

「そうだ」

 言うだけ言うと、ホガリは「煙草を喫わないか」とイライを掩体の外に連れ出した。飛行場地区は禁煙だが、ホガリはときおり、掩体の外の猫の額ほどの空き地を見つけ、そこで煙草を喫っていた。コーラの赤い空き缶を灰皿代わりに、掩体にもたれ、火をつけた。

「GDBのパイロット、知り合いだそうじゃないか」

 二口ほど無言で喫ったあと、ホガリが言う。誰のことかは言外に目が語っていた。

「どこまでの知り合いかも、あんたは知ってそうな気配だな」

 イライも外套のポケットから煙草を取り出し、喫った。禁煙なのはわかっている。けれど、咎める者はいないし、ガソリンの匂いもしない。オイルの匂いもしない。ひたすら寒かった。

「血縁者だってことはもう知ってる。俺だけじゃない。みんな知ってる」

「みんなって誰だ」

「みんなだ、みんな」

「パイロットみんなか」

「基地中みんなだ」

 イライは身体を折り曲げ、吹き付ける風から身体を守る。

「だからなんなんだ」

「血は争えないものなんだな」

「そういうものか」

「さあ。俺には子供はいないからわからない。……あんた、一度も家族がいるなんて話をしなかったな」

「俺だけじゃない。あんた、ハスミに家族がいるかどうかを知っているか」

「知らない」

「俺もだ。だから、なんだっていう話だ」

 ホガリは小さく笑う。しかし声がない。煙草を指先に挟み、「それにしても寒いな」とつぶやく。イライも同意する。

「それに、彼女は家族じゃない」

 イライが言うと、ホガリはやや目を見開き、そしてまた笑った。

「家族の定義ってあるのか」

 イライが言う。

「知らない。ただ、あのパイロットはあんたの娘だそうじゃないか。娘は家族じゃないのか」

「血縁はあるが、最後に顔を見たのがいつなのか覚えていない。まともに一緒に暮らしたこともない」

 その通りだった。風が吹く。冷たい。冷たさよりも疼痛を感じる。空は雲量が増えている。

「一緒に飛べたじゃないか」

 ホガリは空き缶に煙草をつぶし込み、顔をイライに向けず、言った。

「そうだな。……ハスミまで助けてもらったしな」

「そう思っているのか」

「ハスミをすんでのところで助けた新型戦闘機のパイロットが、たまたま彼女だっただけの話だ。それ以上の意味なんてない。そうじゃないのか」

 だんだんと、イライは会話が面倒になっていた。それにしても寒い。仕上がった機体を見に来ただけなのに、なぜ身の上話をしなければならない。煙草を空き缶に放り込み、両手を外套のポケットに突っ込んだ。

「この話は、あまり愉快そうじゃないな」

 ホガリが空き缶を拾い上げ、イライに背を向けた。

「わかっているならしないでくれ。それより、飛べるんだろうな」

「ガスを入れれば飛べる。が、戦闘は無理だ」

「なぜだ」

「ハーモニゼーションが終わってない」

「機銃を降ろしたのか」

「あんたは知らなくていいことだが、こいつは一度ほぼバラバラに分解されてる。とうぜん機銃も降ろす」

「どこからどこまでの部品を交換したんだ」

「修理報告書でも必要か」

「そんなものはいらない。あんたの口から聞きたい」

「さっき話したとおりだ。エンジンも降ろしたが、交換したわけじゃない。圧縮比も混合比も過給圧もなにもかも前と同じだ。ただ、スロットルワイヤは交換した。左主翼は交換こそしていないが新品同様だ。使える部品は流用したが」

「飛んでみないとわからないか」

「違いに気付くほど違うなら、俺に言ってくれ。が、今日は飛べない。飛行許可は俺が出すわけじゃない。むしろあんたがキリウやレンダに上申するんだな。大尉殿」

 ホガリはもう掩体に戻り、灰皿代わりの空き缶を工具箱を収納しているスペースにしまい込むと、移動用のトーイングカーに乗り込んでいた。

「置いていくぞ。それとも歩いて戻るのか」

「置いていくならそれでいい。ここまで歩いてきたんだ」

「飛べないパイロットは哀れだな」

「あんたがさっさと修理をしてくれなかったからだ」

 ホガリはトーイングカーのエンジンを派手な黒煙とともに始動させ、再度イライを誘った。イライは断り、ホガリはまた小さく笑った。声を上げたかどうかは、トーイングカーの排気音に紛れてわからなかった。おそらく無言だったろう。

「行くぞ。残るのは勝手にするがいいが、飛ぶなよ」

 ホガリが言い、イライは了解と両手を上げて伝える。ディーゼルエンジンの排気煙をもうもうと吐き、ホガリは掩体から誘導路に出、去った。

 イライはひとり、ポケットに手を突っ込んだまま、自分の戦闘機を見上げた。機体は整備に伴い、きっちり洗浄されていた。機関砲付近のススもない。そっと近より、機首に手を触れる。冷たかった。エンジンをかけられず、かけられたとしても、ガスが十分ではない。飛べたとしても、機銃も撃てない。こいつはいまは戦闘機ではない。ただの飛行機だ。いや、飛行機の形をした機械だ。

 イライは短く嘆息すると、掩体を出、重い防護扉を閉めると、すっかり曇り空になった天を仰ぎ、歩き出した。


 町に出ようと思った。

 宿舎から基地のゲートまでは遠い。外出するのを億劫に感じるほどに遠い。他のパイロットや整備員たちはモーターサイクルや自動車を使って基地を出る。けれど、イライはそのどちらも所有していない。イライが所有している機械は、左手首の航空時計と、あとは、なんだろう。少なくとも乗り物と呼べるものは所有していないし、所有したこともなかった。昔乗っていた自転車以外は。まさかホガリからトーイングカーを奪い取ってくるわけにはいかない。あれは公道を走るようにできてはいない。

 イライはゲートを抜け、空を見上げた。爆音もなく、静かだった。鳥が飛んでいた。名前もわからず、音もせず。ゲートを抜けた道路は未舗装で、湿っているが幸いだ。夏場は埃がひどいのだ。ゲートには警衛の兵士が自動小銃を抱えて突っ立っていた。弾倉を装着しているが、弾が入っているのかどうかは知らない。イライは年に数回ある訓練以外で小銃はおろか拳銃すら撃たない。イライが撃つ物は、戦闘機についた対空機関砲だけだった。小銃を抱える兵士に一礼して、イライは未舗装の道を行く。ゲートからさほど遠くない場所にバスの停留所があった。そこを目指す。道の両脇の雑木林はすべて裸で、草地は枯れていた。初雪以来、本格的な冬の到来はまだだった。だが、雪がないと、いっそう寒さを感じるような気がする。色彩を失った地面は、寒々しいのだ、きっと。

 バスがいつ来るのかを、イライはよく知らない。停留所の時刻表はさびだらけだった。航空時計を見ると、午前十時を少し回っていた。緯度が極端に高いこの地域で、太陽はゆったりと物憂げに木立の少し上でぼんやり考えごとをしているように見えた。バスの時間まで、あと十五分ほどあるようだ。もし仮に、バスが時刻表どおりに来るのであれば。

 戦闘機パイロットがバスを待つ。警衛の彼はフライトジャンパ姿のイライを見て、何を考えているのだろう。声をかけるつもりもなかったが、まだ年若い彼が抱える自動小銃はよく手入れが行き届いているようだった。プレス加工を多用した量産性に優れた銃で、イライが訓練で撃つときも、その癖のなさは扱いやすく気に入っていた。その銃を、警衛の彼は大事そうに抱えていた。弾倉に実弾が装填されているかどうかは関係ない。彼はきっと、ゲートを守ることが自分の使命だと疑っていないのだ。もしかすると、彼もまた純粋培養組の一人なのかもしれない。純粋培養組がパイロットなどの幹部だけとは限らない。彼らは今の時代、どこにでもいる。むしろ自分たちが旧世代なのだ。生きることに無理矢理意味を見いださなければ、バスに乗ることもできないような旧世代だ。非効率的で、あらゆる能力で劣った人種だ。イライはそう自分たちを認識していた。

 基地で、パイロットたちの間で純粋培養組ではないのは、誰と誰か。墜ちたタグサリは違う。ハスミも違う。チナミやセムラも違う。彼らは同じく航空学校出身だ。高等中学を卒業して、適性検査と簡単な学力試験ののち、即座に操縦桿を握った。イライは思う。ユウは、彼女はどうなのか。彼女もまた航空学校出だと言った。出自からいって、彼女が純粋培養のはずがない。なぜなら、直系の自分が純粋培養ではないからだ。けれど、とイライは考える。チナミが言っていたではないか。ハチクマのウィングマンには、迷いがなかった、と。イライたち旧世代は、迷う。生きることに意義を見いだそうともがくように、迷う。迷う時間は短いが、まったく迷いがないのとは根本的に違う。ユウは、迷うのだろうか。あの日、ハスミの機体がトラブルを抱え、敵の戦闘機にいいように追い立てられたあの雨の日、迎撃に飛来したユウは、ためらいなく対空機関砲で敵機を粉々に撃墜してしまった。敵の戦闘機にもまた、パイロットという人間が乗っていることなど、まったく意に介さないような、そんな撃ち方だった。敵の戦闘機のパイロットもまた、人生を持ち、それ相応の悩みと喜びと、そして殺意と敵意を抱く一個の人間だ。それを、ユウは迷いなく、メルクア・ポラリスMG-4型二〇ミリ機関砲で粉々にした。撃墜されたパイロットは、自分に何が起きたのかもわからないまま、機体ごと粉々になったに違いない。ユウは、もしかしたら後天性の新世代なのかもしれない。イライはフライトジャンパのポケットをまさぐり、指先にブリキ缶でできたシガレットケースを掘り当てた。よく冷えていた。オイルライターとともに取り出したとき、バスが来た。タイミングとは、こういうものだ。

 バスは運転手以外に乗客がなかった。イライは最後部座席に座った。けたたましいディーゼルエンジンが叫ぶ。それは戦闘機のエンジンのように洗練されてはいなかったが、あふれ出るような咆哮は、戦闘機のそれよりもずっと生き物のように思えた。派手に黒煙を吐き出し、走り出す。未舗装の路面は、揺れた。

 バスは基地外周を巡る道路を進み、やがてあの真ん丸い沼地の、基地から見ると対岸を行く。空から見るよりもずっと大きい。どのような地形的作用でこの沼ができたのかはわからない。それにしてはまん丸だ。空から見ても、地上から眺めても、沼は円かった。水面は澄んでおり、時折水面がはねた。魚だ。食べられるのだろうか。そういえば、しばらく魚を食べていない。基地で出るのは正体不明の肉だけだ。どういうわけか魚が出ない。

 沼の横を過ぎれば、車窓の左手に赤い鉄橋が見えてくる。コヤチダ本線の鉄橋だ。トラス構造で、空から見るより、やはり大きい。もし自分が対地攻撃を命じられたら、失敗のしようがないほどに立派で大きな構造物だった。コヤチダ本線から基地へ、軍用列車の支線が伸びているはずだが、ここから分岐は見えない。航空機用の燃料や食料などの物資は鉄道で輸送される。車窓からぼんやり鉄橋を眺めていると、ディーゼル機関車に牽かれた貨物列車が今まさに鉄橋にさしかかろうとしていた。ソラノ川の鉄橋で、イライが乗るバスもまた、並行する道路橋で川を渡る。貨物列車は有蓋車で、ディーゼル機関車は重連だ。編成は長い。どこから来てどこへ向かうのかはわからない。こんなとき、イライは飛びたくなる。空からあの列車がどこへ向かうのか確かめたくなる。地図では、これから向かう町からさらに北へ、さらに緯度が上がった国境の付近に大きな町があるはずだ。これといった軍事目標がないため、イライたちが飛ぶことはあまりない。もちろんだから、敵機が飛来することもあまりない。もしかしたら、あの列車はその町へ向かうのかもしれない。

 やがて、バスも橋にさしかかる。河口から十マイル、二十キロ近くさかのぼった場所だが、このあたりでもソラノ川の川幅は三キロ以上ある。厳冬期でも凍結しない。水深があることと、河口に近い割には流れが速いためだと、誰かに聞いた。だから、これだけの川幅がありながら、水上輸送がほとんど発達していない。そのへんの話は、もしかするとケイあたりから聞いたのかもしれないが、覚えていない。橋にさしかかると、ソラノ川の広さがよくわかる。飛んでいるときより、ずっと。

 貨物列車が鉄橋を走る轟音が、窓を閉め切ったバスの中までよく通る。赤いトラス構造の鉄橋と、濃いグレーの機関車、そしてブラウンの貨物車。いま攻撃機に襲われたらひとたまりもないな、などと考えているうち、バスは橋を渡りきってしまった。線路はまた木立の向こうに隠れてしまった。バスはそこからいくつかの停留所と集落を過ぎ、国道に合流する。国道といっても、簡易舗装が施された二車線の道路で、通る自動車も少なかった。道路脇の畑で農夫が突っ立っていた。収穫の過ぎた畑で彼は何を思っているのだろう。彼は空を見上げていた。イライも倣って、バスの中で彼が見上げる空を向いてみた。澄んだ青空に、機影が見えた。特徴のある推進式のプロペラ、前翼、ノスリだ。アプローチに入った機体ではない。ギヤが降りていない。離陸した機体だ。二機。機番は見えない。増槽を左右に一個ずつ抱いているのが見えたが、それだけだった。爆装しているわけでもなく、そもそもノスリのⅤ型は迎撃戦闘機だから、めったに爆装をしない。誰と誰が飛んだのだろう。思ううち、さらに二機のノスリが追って飛んでいく。都合四機、上がったようだ。今日のイライは休日だった。だから飛行割りを見てこなかった。そして、待っても離陸した四機のノスリ以外には戦闘機は飛んでこない。今日はハチクマも休日のようだ。イライは再びバスのシートに深く座った。バスの中は暖房が効いていて、暖かかった。町のそこここには雪が残っており、気象隊の予報では、今週末から本格的に雪になるだろうということだった。いよいよ冬だ。

 バスはようやく、町のターミナルに到着する。市街電車が乗客を待っており、そこはコヤチダ本線の駅もある。町の名はナヨシといった。だから、イライたちが勤務する基地の正式名称は、「第七空軍第二戦闘航空団ナヨシ基地」というわけだ。そういえば、かの警衛兵士が立っていたゲートに、基地の銘が記されていたはずだが、どこにあったのか覚えていない。そんなものだ。イライがかつて所属していた第五空軍の基地にしても、もう記憶が曖昧だ。旧世代の特権だ。都合の悪いことは忘れる。

 バスを降り、市街電車の線路を突っ切り、石造りの建物が目立つ街路を歩く。イライは花屋を探していた。ケイから聞いた。ナヨシの駅の近くに、立派な、でもちょっと変わった花屋さんがあるから、行ってみれば。カタバミの花がまだあるみたいだから。

 道ばたや草原で咲いている黄色い花がカタバミという名を持っていることを、イライはハスミから聞いた。ついでに花言葉まで聞いた。心の輝き。それがカタバミの花言葉だそうだ。ハスミがそう言ったとき、イライは笑うこともできなかった。心が輝くのか。では俺たちは、輝くべき心をいくつ空に散らしたのだろうかと。けれどそのときは口には出さなかった。今日は、ハスミの見舞いに行くつもりだった。手ぶらでは申し訳ない。スケッチブックでも買っていこうと思ったが、あいにく、イライはナヨシの町で画材屋を知らない。そして、ハスミが収容された病院のベッドで絵を描ける状態なのかもしれない。だったらせめて輝いてくれ。そこでPXのケイに聞いた。町に花屋はあるのかと。それはどうやら、町に肉屋や八百屋があるのかと聞くくらいに間抜けな質問だったらしく、無愛想にコーラを買った釣り銭をレシートにくるむようにして放り投げ、そしてイライに告げたのだ。ナヨシの駅前に花屋があるから、行ってみたらと。カタバミの花、きっとまだ置いてあるから。なぜそんなことを知っているのか、と、イライは聞いた。その花屋の在庫状況までどうして知っているのかと。するとケイは答えた。私の家だから、と。

 カタバミの花が、花屋ではいくらで売買されているのか、イライは知らない。野原で咲いているくらいだから、およそ高価とは思えない。そして、負傷したパイロットへの見舞いの品にカタバミの花がふさわしいのかどうかもわからない。が、ハスミへの見舞いの品に、スケッチブック以外に思い当たるものがなかったのだから、それでいいような気がした。イライは横断歩道を渡り、その花屋を探した。

 花屋は簡単に見つかった。ナヨシの駅から駅前通りを一本西側に入った角に建っていて、年季の入った煉瓦積みの建物だった。フライトジャンパ姿のまま、イライはさほど広くない間口の入り口から店内へ。イライは草花に詳しくない。いま探している花はカタバミで、他の花の名前はわからない。左肘で引っかけそうになった花弁の大きな白い花がなんという名前なのかもわからない。だから、カウンターの奥で器用にハサミで名前もわからない花の茎をカットしている女性に声をかけた。声をかけた女性は顔を上げ、イライを向く。なるほど、とイライは思った。ケイに似ているのだ。ケイがあのまま二十年ほど年を経れば、目の前の女性になる。そんな顔をしていた。

「カタバミを、探しています」

 イライは女性からわずかに目線をはずした。女性はとりわけ、目がケイとよく似ていた。遺伝子とはこういうものか。

「カタバミ?」

 オウム返しに女性は言った。左手に持っていたハサミをカウンターに置いて。そうか、女性は左利きか。

「黄色い、道ばたで見かける、あの花」

 イライが言うと、女性はカウンターを離れて、所狭しと並ぶ花々の間を縫うように歩く。よくもまあ、陳列してある草花を引っかけて倒さないものだと思う。プロだと感じだ。意味もなく。格納庫でのホガリやヌノベの動きを思い出したからだ。一見乱雑そうに見える工具箱や、血管のように配管や配線が走り回るエンジンカウルの中も、彼らにとっては見知ったものなのだ。カウンターを離れた彼女にして、店内は彼女の仕事場だ。どこに何があるのかは把握しているのだろう。店内は彼女の他に二人の女性が作業をしていた。流行っているようだ。田舎町とはいえ、本線の駅前近くに店を構えているわけだ、それなりの実力があるということか。やがて女性は、まるで二十ミリ機関砲弾の弾帯を抱えるように、ようするに大事そうにして、黄色い花と緑の鮮やかな束を持って現れた。

「今どきね、こんな花があるなんてね。もうちょっと前なら、そのへんにいっぱい咲いてるのにね」

 彼女の口調もどこか娘のケイに似ているような気がした。けれど、イライは女性に、あなたの娘さんと知り合いなんですよ、そんな言葉は発しないことにした。あるいは今日、イライがここを訪ねることを、娘のケイが伝えているのかもしれない。どちらでもいいと思った。フライトジャンパ姿の客などめずらしくないはずがない。

「花束に?」

 女性が訊く。カタバミの花束。おそらくイライもそんな花束を聞いたことがない。

「見舞いでね」

「なるほどね」

 女性は手際よくカタバミの花を揃え、専用のハサミで茎を切る。パチンパチンと小気味よい音がする。手入れの行き届いた道具だけが奏でる音だ。それは、整備が行き届いた戦闘機に乗ったときも聞こえる音に似ている。ラダーペダルを動かしたとき。操縦桿を左右に倒し、エルロンが機敏に反応してくれたとき。

「パイロット?」

 カタバミはまだ花束と呼べる状態ではなかった。茎の長さを揃え、まとめ上げ、花弁の位置を調節している段階だ。可憐な花だとイライは思った。だから、女性が手元を向いたまま、イライに向かって質問をしたことに気付くのに、数瞬遅れた。空中戦ならば、命取りになるくらいの時間。

「あなた、パイロットでしょ」

「ええ。見てのとおりで」

「うちの店、どこで知ったの」

「なぜですか」

「パイロットが花束を買うなんて、いままでここでずいぶん長いこと店を開いているけど、ほとんど聞いたことがない」

「そうですか。パイロットもたまには花束を買ってもいいと思いませんか」

「お見舞いと言ったかしら」

「ええ。同僚が入院しまして」

「あなた、戦闘機乗り?」

「そんなところです」

「娘はいないよ」

「は?」

「ケイに聞いたんでしょう、うちのことは」

 女性はまだ顔を上げない。ぶっきらぼうな話し方もケイにそっくりだ。

「わかりますか」

「パイロットが花を買いに来るときは、うちに来るからさ」

「さっきは、パイロットが花束を買いに来たことがないと」

「例外もたまにはあるのさ」

 話しているうちも、女性の手は止まらない。やがて、野花であるはずのカタバミが、立派な花束に化けた。

「いくら?」

 ラッピングされた花束がカウンターにできあがった。イライはポケットから財布をまさぐる。

「カタバミに値段が付くのかね」

「でも、今はもう冬だ」

「どこから見つけてきたのか。カタバミの花束なんてね、わたしは初めて作ったよ」

「そうですか」

「まあそういうことにね、しておいて。いくら払えるんだい」

「いくらなんですか」

「娘がいつも世話になってるそうだから」

 女性は言うと、傍らにディスプレイされている大輪の花束のプライスの、ほぼ三分の一ほどの価格を提示した。

「安いのか高いのかわからない。俺はこういう買い物をしたことがない」

「高い買い物だと思っておくんだね」

 女性は花束をイライに手渡すと、高笑いした。気持ちのいい笑い方だった。そこだけ、娘のケイと違っていた。ケイもやがてはこんな屈託のない笑い方をするのだろうか。

 店を出た。煙草を喫いたいと思ったが、舗道はよく清められていた。煙草を吸えるような雰囲気ではなかった。だから花束を抱えたまま、市街電車の停留所へ向かった。ハスミが収容された病院は、ナヨシの駅前から発着する市街電車に乗り、終点近くまで走った場所にある、とのことだった。飛行隊長のキリウから聞いた。

(負傷パイロットの見舞いか)

 キリウは相変わらず何物かわからない書類と格闘していた。

(いけませんか)

(あんたにそういう趣味があるとは思わなかった)

(趣味じゃない。負傷した同僚の見舞いに行くのがいけないんですかね)

(そんなことは言ってない。前代未聞だと言いたいだけだ)

(俺が見舞いに行くことが?)

(パイロットが、同僚の見舞いに行くことがだ)

(それは知らなかった)

(負傷で済んでよかった。撃たれたら帰ってこないパイロットの方が多い)

 キリウはそれだけ言うと、ハスミが収容された病院の名と場所を示してくれた。軍の関連施設ではなかった。基地以外、この近隣に軍の関連施設はない。レーダーサイトや通信所以外には。

(その格好で行くつもりか)

 退室しようとしたイライを、キリウが呼び止めた。イライは飛行服にフライトジャンパを羽織っただけだった。

(いけませんか)

(正装しろとは言わない。あんたのその格好は中途半端すぎる)

(礼装に着替えますか)

(わたしの言葉を聞いていなかったのか。中途半端だと言っただけだ)

(では、考えます)

 結局イライは飛行服を脱ぎ、平服にフライトジャンパを着込んで基地を出た。制服に着替えた方がよかったのかもしれない。けれど、イライは着るべき制服にしばらくアイロンすらかけていないことに思い当たる。これでいい。フライトジャンパには飛行隊を示すパッチとウィングマーク、それ以外には何もついていない。階級章も何も。もし市街戦に巻き込まれても、自分が空軍の人間だと証明するものは、ポケットの奥深くにしまってある身分証明書だけだ。それだけあれば十分だろう。町に出て階級がものを言うとは思えなかった。

 電停では、市民が少なからず列を作って電車を待っていた。人々は厚い外套に身を包んでいた。すっかり装いだけは冬だった。西の空をふと向いてみる。まだ空は晴れていたが、真っ白い雲がゆったりと流れてきていた。雪雲だ、そう思った。今夜あたり、いや、早ければ夕方にでも雪になるかもしれない。気象隊の予想はよく外れる。

 イライはフライトジャンパのジッパをいちばん上までしめると、花屋の女性が丹誠込めてくれた花束を抱えて、電車を待った。


 フライトジャンパに花束という組み合わせがよほど奇妙なのか、それともパイロットという人種がこの町ではめずらしいのか、電停で列に紛れたイライは、乗客の目が自分をちらちら何度も向くのを知った。ふだんほとんど町に出ないからなおさら、自分たちパイロットの位置がわからない。

 電車は空いていて、イライは花束を抱えたまま席に着いた。石畳に線路を敷いた通りを、くたびれた電車は、イライにとっては異質な速度で進む。イライが知っている速度は、戦闘機の離着陸の速度か、あるいは歩いているか自転車に乗っているか、そのどれかだ。空に上がってしまうと、性能諸元どおりの速度が出ていても、それを感じない。唯一感じるのは、雲を突き抜けるときくらいだ。だから、この電車のいかんともしがたい中途半端な速度が異質だった。のべつ失速しているような気がする。

 電車の中を見ると、冬の装いに身を固めた自分と同じくらいの歳とおぼしき中年夫婦、中等学生程度の幼い顔立ちの少女が二人、大学生風の若い男が一人、そして自分。大学生風の男を見て、ふと、この町に大学があったのかどうかイライは思う。あったかもしれない。わからない。そういえば、PXの彼女は学生だったはずだ。では大学があるのだろう。

 前任地の第五空軍の基地からこの第七空軍へ赴任してからもう何年もたつというのに、イライはその活動を基地の中に限定してきた。基地の中でだいたいの用はすべて済んでしまうからだ。衣食住のすべてが基地の中で完結してしまう。だからイライは基地の外に出る習慣がない。同僚たち、中でも若いパイロットは積極的に外へ出る。なにかと理由をつけて、町へ出る。この基地は、ナヨシという比較的規模のある町が隣接している分、たとえばさらに辺境の前線基地と比較すれば環境はいいといえる。

 前に所属した第五空軍の基地は、本土から離れた島にあった。滑走路は一面、時折海軍の艦載機が降り立つこともある、それこそ辺境の基地だった。配備されていた戦闘機は、十八機。敵と遭遇する確率はいまとたいして変わらないかもしれない。が、あの島には基地とそれに関連する施設以外に町と呼べるような場所がなかった。だからパイロットや整備員たちからは二度と赴任したくない基地だという評判を、ここに来て知った。けれどあのころもイライは基地の中ですべてを完結していた。同僚の中には、唯一市街地らしきものを作っていた港町へ、休日ごとに出かける者もいた。あいつは、なんという名前だったろう。確か、……海軍の空母の直掩に出たとき、撃墜された奴だ。悪い奴じゃなかった。港へ出かけては、魚介類をモーターサイクルの荷台いっぱいに積んで帰って来、パイロットたちに振る舞ってくれた。奴がくれたエビはうまかった。

 あのころ、イライはノスリのⅣ型に乗っていた。二段式スーパーチャージャーを装備した機体で、Ⅴ型ほど高々度性能はよくなかったが、瞬発力はⅤ型より優れていた。あの日、イライたちは十二機の戦闘機で編隊を組み、空母を護衛する任務にあった。もちろん空母からも艦載機が二十機ほど飛んできた。艦載機はサシバの愛称がついた単発推進式の戦闘機で、そして敵は南からやってきた。空気が濃かった。そして増槽が重かった。対空機関砲は、Ⅴ型が積んでいるメルクア・ポラリスMG-4ではなく、同じ二〇ミリだが前モデルのMG-3だった。

 戦端が開いたのは、先行していた海軍のサシバ四機が敵と遭遇したところからだ。海軍の戦闘機は、ノスリと比べて大柄で航続距離は長かったが、明らかに足が遅かった。イライはすでにそのとき編隊長だった。ノスリ四機を引き連れて戦端が開かれた空域へと全速力で向かった。やけに風がなく、そして雲もなく、晴れていた。ただ、空気が重かった。

 遠くでひとつ、ふたつと黒煙が青空にたなびいているのが見えた。敵味方どちらの黒煙なのかはわからなかった。無線から、誰かの叫びが聞こえた。それでサシバがいきなり三機撃墜されたのを知った。スロットルを最大位置まで叩き込み、エンジンが高鳴った。イライの編隊は二機ずつのエレメントに分かれる。イライのウィングマンが、奴だった。二分ほどして、敵機と遭遇した。敵は双発のペトレルで、どう考えてもサシバが勝てる相手ではなかった。イライの編隊は高度を上げた。ペトレルもサシバと同じ艦上戦闘機だったが、迎撃戦闘機であるノスリと比べれば、降下速度は優れていたが、加速力で劣っている。ただ、水平速度は圧倒的にペトレルの勝ちだ。増槽を切り離し、ラダーを入れ、機体の動きをちらりと確認したイライは、他の三機を連れて一気にペトレルの編隊に襲いかかった。そのときすでに先行していた四機のサシバは全滅しており、空軍機であるイライたちの編隊がまず相手をするほかなかった。後方から海軍機が全速力で向かっているはずだが、腹が立つほどに彼らの足は遅かった。

 双発のペトレルと遭遇するのは、そのときのイライは二度目だった。一度目がいつだったのか、もう憶えていない。憶えているのは、ペトレルがやたらと直線速度が速いことと、そのかわりに旋回性能が著しくノスリに劣っていたことだ。きっと今乗っているⅤ型でやれば、もっと楽に勝てただろう。イライたちは旋回戦に持ち込んだ。ペトレルから速度を奪えば、ノスリが優位だからだ。どこかで聞いた話だ。イライは思う。

 イライは機関砲弾の装填ボタンを押し、小気味よい音を立てて二十ミリ対空機関砲が発砲可能状態になったのを冷めた思考の端で知る。そして撃った。はずれるはずがなかった。飛び込んできたイライたちのノスリから逃げようと、二機のペトレルが左旋回から急な右旋回に入る瞬間、その一瞬を狙った。弾筋は見なかった。当たるのを確信したからだ。視界の端に鮮やかなオレンジ色の炎が上がり、ウィングマンが撃墜を報告してきた。奴も同時に狙ったが、撃墜したのはイライだった。もう一機のペトレルは逃げた。自慢の速力を生かして、味方と合流しようとしたのだ。それを見ても、ペトレルの加速力がノスリに及んでいないのがわかった。追えば撃墜できただろうが、深追いはしなかった。さらに遠く、敵の編隊十数機が接近しているのを、後続の海軍機が知らせてきていたからだ。海の上での空中戦は、それにしても自分の感覚があてにならなくなる。計器を意識しなければ、空と海が溶けてしまうのだ。イライはそのとき、三〇〇ノット強の速度を生かしたまま、ゆっくりと右に変針した。ウィングマンもついてきた。けれど、ウィングマンは、奴は、バックミラーを見ることも、振り返ることもしなかったのだろう。イライたちの編隊の上空から、三機の敵機が逆落としになっているのを、運悪くイライもウィングマンも気付いていなかった。なぜだったのか、今でも思い出せない。太陽の中にいた? もうわからない。憶えていない。

 曳光弾がイライのノスリの右主翼端を掠めていったのを見た。そのとき初めて振り返った。反射的に操縦桿を引きつけた。ただし、緩やかに。機体は機首を上げ、スロットルを全開にした。ウィングマンを探すと、奴は黒煙を吹いていた。エンジンカウルに大穴があき、左主翼のフラップもエルロンもなくなっていた。

 逆落としで襲ってきたペトレルは、イライたちの編隊からやや離れた場所で引き起こし、イライの照準環に入る間もなく猛烈な速度で左方向へ去った。イライは無線に叫んだ。そのとき味方のノスリ八機は、三カ所に分かれて戦闘中だった。被弾したウィングマンは、もはや帰還することも難しいほどのダメージを負っていた。イライは無事だったが、もうその時点で戦意のほとんどを喪失していた。なぜだったのだろう。ウィングマンは徐々に高度を下げていく。脱出しろ、そう命令した。ウィングマンは緊急脱出ハンドルを引かなかった。無線に対する呼びかけにも応答しなかった。回避行動を取りながら、イライが彼の機体を向くと、ウィングマンの機体は、キャノピーが粉々になっていた。その時点で、イライはウィングマンがすでに逝ってしまったことを知った。見えるはずのパイロットの身体が見えなかったからだ。脱出したわけではない。パイロットごとコクピットを撃たれたのだ。奴の機体は緩やかに背面飛行に入り、そして急激に高度を下げた。爆発はなく、黒煙を曳いたまま、海面に激突し、派手な水しぶきを上げた。そこまでをイライは見届けてしまった。

 あの日の戦闘で、イライたち空軍機は、四機を失った。海軍機は、……知らない、憶えていない。ただ、空母は無事だったはずだ。敵機は、基地に戻ったイライが聞かされたところで、七機が空軍、海軍双方により撃墜されたという。どちらが何機を墜としたのか、あるいは空母に随伴する艦が撃墜したのかは、当時の飛行隊長は教えてはくれなかった。おそらく彼も知らなかったのだろう。

 そのあと十数回出撃し、何人かの同僚を失った。みな、海の上に墜ちた。そして、今の基地へ転属になった。戦闘機もⅣ型から、新型のⅤ型に変わった。何年前の出来事だったのだろう。今の自分と当時の自分に連続性があるのだろうか。イライは電車がブレーキをかける金切り声を聞き、膝の上のカタバミの存在に気付く。ここは第五空軍時代の離島ではない。今の自分は、当時の自分ではない。では、いったい誰だ。

 気付けば、乗客の顔ぶれが変わっていた。あの大学生風の若い男は姿を消し、夫婦の姿もなかった。少女たちが嬌声をあげていた。彼女らは何が楽しいのだろう。イライのやや離れた隣席に、杖を抱えた老紳士が座っていた。灰色のあごひげをたくわえ、チャコールのコートを着ていた。やはり、フライトジャンパ姿の自分は異質だった。あの離島の基地では、こういう気分を味わったことがなかった。島の住人は、大半が空軍の兵士たちであり、多数派だった。けれど、ナヨシの町では、自分たちは少数派なのだ。乗客たちは、パイロットがどういう職業なのかを知っているのだろうか。それを質す気もしなかった。

 やがて、車内放送が目的の電停に近づいたことを知らす。キリウから教わった停留所の名だ。ハスミが収容されている病院は、市内でももっとも規模の大きな病院だという。ハスミはそこまで重傷だったろうか。エプロンで泡まみれになったノスリから引きずれ出された彼の姿を見て以来、イライはハスミに会っていない。彼の負傷状況も、詳しくは知らない。聞かなかったからだ。会えばわかる。

 イライはポケットから硬貨を取り出した。そしてふと、前任地の空を思い出した。あの基地の空は、にじんだような青だった。ここのような、澄んだ色ガラスのような色ではなかった。あの基地は、まだあの島にあるのだろうか。取り出した硬貨は、冷えていた。



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