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 エプロンをカエデの葉が一枚、肩をすくませるほどに冷たい風に乗って、カラカラと転がっていった。紅葉を通りこし、葉はすっかり枯れ色で、季節がすでに移ろいで、あとは化粧を、そう、雪化粧を待つだけになっていることを悟らせた。

「初めまして、じゃなかったな」

 もう少しましな言葉があったはずだ。そう思ったときには、すでに言葉は相手に命中しているものだ。イライは自分の顔が笑っているのか、怒っているのか、無表情なのかわからなかった。つとめて無表情を装ったつもりだった。けれどここには鏡がなかった。

「ここにいるって、知っていた」

 ユウは目を伏せ、言った。新鋭機のウィングマンが無線を通じてこちらに聞かせた声音とは違っていた。

「いつからだ」

「ずっと前」

 イライはその場にとどまっていた。動けなかった。影だけが伸びていく。

「誰から聞いた」

「聞いたんじゃなくて、知っていたんだ」

 少年のような声音。イライの記憶にある彼女の声は、もっと幼い。

「調べたのか。俺の居場所を」

 イライは落日に目を細めた。空気が濃いに違いない。ユウが歩み寄り、イライに並んだ。

「調べなくても、耳には入ったよ」

「俺のことがか」

 ユウを向かず、イライは言う。ほとんど呟きだった。

「ここに来て、わかったことがある」

 ユウが言う。

「何だ」

「海峡を越えて、こっちに来たら、空気が違った」

「寒いか」

 イライの言葉に、ユウは小さく笑ってみせた。その笑みが驚くほどに子供のようで、イライは胸の内のどこかを、彫刻刀かなにかでえぐられたような痛みを感ずる。

「確かに寒いけど」

「もうすぐ冬だ」

「もう冬だよ」

 イライの右手が煙草を探っていた。けれど、飛行場地区は禁煙だ。手持ち無沙汰になった右手がポケットに居場所を見つける。

「季節の話じゃない。ここに来て、確かに戦争をやってるんだって実感が湧いた」

 ユウは平淡に言うと、その場にうずくまるようにしてしゃがんだ。彼女は飛行服をまとっていた。階級章は少尉だった。イライはとりたてて驚かない。パイロットはみな士官だったし、最新鋭戦闘機のパイロットが少尉以下のはずがなかったからだ。けれど、と思う。彼女が自分の階級を追い越す日がきっと来る、と。生きていれば。

「お前がパイロットになっているとは、俺は知らなかった」

 だんだん息が詰まってくる。高度二万フィート上空で、酸素ビンがすっからかんになったかのようだ。頭の回転も鈍る。

「あなたが、パイロットだから、そういうのは答えにならないかな」

「ならないね」

「そう」

 ユウはうずくまったまま、ふと見ればカエデの葉をもてあそんでいた。飛行服を脱ぎ、そしてここが基地のエプロンでなかったら、彼女を誰が戦闘機のパイロットだと思うだろう。

「俺を探していたのか」

「言ってるじゃないか。探す必要なんかなかった」

「ではなぜここへ来た」

「GDBのパイロットだから」

「偶然、と言いたいのか」

「偶然でなければ、必然かも」

「お前がそんな言い回しをするようになるなんてな」

「あなたの頭の中で、きっと私はまだ十三歳なんだね」

 言うとユウはイライを見上げる。目が恐ろしいほどに澄んでいる。それはパイロットたち共通の目だ。どこまでも澄んでいる。昼に星を数えるというのも、あながち嘘ではない。パイロットを生かすのも殺すのも、最終的には目だからだ。

「止められなかったのか」

「母に?」

「健在なのか」

「活版所でまだがんばってる」

「そうか」

「止められなんかしなかったよ。……パイロットは丘陵がいいから」

「そうか」

 ユウが育った町は、海峡を越え、さらに夜行特急で半日以上かけた先にある。イライにとっての故郷でもある町だ。田園とあぜ道、道祖神に丘陵、錆びた鉄橋に湿地帯、ちびた家内制手工業の工場が立ち並ぶ小都市。自分が敵爆撃機のパイロットだとしても、爆弾をもったいないと思うほどにありふれ、何の価値もない町だ。ユウの母は、まだあの活版所で活字を拾っているのか。少し意外な気がした。時間が、海峡の向こうとこちら側では流れが違うのかもしれない。そんなはずもないが。

「ここは、最前線なんだね」

 しゃがみこんだまま、ユウ。

「そう感じるのか」

「ミサゴを見たのは初めてだった」

「俺は二度目だ」

「緩衝地帯に近いから?」

「緩衝地帯じゃない。あれは中立地域だ」

「どう違う?」

「あそこに住んでるやつらは、どっちつかずなのさ」

「高射砲や敵の基地があっても?」

「そうだ。大人の事情だ」

「わからないよ」

「わからなくていい。ただ、敵の戦闘機が飛んでいれば、それを撃ち墜とせばいい。それが俺の仕事だ」

「空を飛ぶのが仕事じゃなくて?」

「両方だ」

 いつまで会話を続ける気なのか。イライはやや疲れていた。何年振りかの会話だった。もはや共通の話題など、活版所のあのインクが染み付いた床のことくらいしかないのかもしれない。ユウもあそこでアルバイトをしていた時期があった。小さな手で活字を拾い、並べ、そして帰り道にサイダーを一本買って飲むのが、彼女に許されたささやかな褒美だった。あれはいつのことか。考えてみれば、目の前にいるユウが、いまいったいいくつなのかをイライは知らない。

「お前はなぜパイロットになった。俺は知らなかった。お前がパイロットになっているなんて」

「飛びたかったから」

 間髪をいれず、ユウは答えた。あまりにも真っ当で、そして抽象的な返答だった。

「なぜ戦闘機なんだ」

「一人で飛べるから」

「あのヨノイとかいう男と飛んでいるじゃないか」

「それでも、飛んでいる間は一人でいられる」

 イライはそれを聞いて、声を漏らさないよう努めつつ笑った。面白い答えだ。

「怖くはないのか」

「なにが?」

「敵。……あるいは飛ぶこと」

「敵は……、怖い……というより、邪魔、かな」

 しゃがんだままのユウに、イライは視線を向ける。こいつは驚いた。

「邪魔?」

「一人で飛べなくなるから」

「道理かな」

「さあ」

 ユウはいまだ、カエデの葉をいじっていた。それにしても小柄だ。Gには強いかもしれない。小柄な割りに首が太い。ユウはすっかりパイロットの身体を持っている。

「俺に何か話があるのか」

 イライが言うと、ユウは意外そうに顔を上げた。

「ないのか」

「ずっとさっきから話してる」

「そうか、そうだ」

 伸びきった影が、すっと消えた。日が暮れた。滑走路にはすでに誘導灯が点り、背景の森林は黒々とその量感をたたえていた。

「やっぱり寒い」

 ユウはしゃがんだ格好のまま、両腕で身体を抱きしめた。

「慣れる。飛んでると思えばいい」

「コクピットにはヒーターがある」

「ハチクマのコクピットはそんなに快適なのか」

「その名前、好きじゃない」

 憮然とした表情でつぶやくユウに、イライは苦笑がこみ上げる。

「誰がつけたのか。確かにセンスがない」

 イライは応える。

「名前なんて、どうでもいい」

 ぽつりとユウはつぶやく。驚くほどに冷たい声音で。イライは瞬間、彼女が何を言わんとしているのか、肌で感じたような気がした。

「何かが存在している限り、きっと名前が必要なんだ」

 ユウは自答するように言った。イライは何も応えなかった。

「戦闘機とか、滑走路とか、森とか、鉄橋とか」

 両腕で身体を抱きしめたまま、ユウはつぶやく。およそ新鋭機のパイロットにそぐわない、頼りなく寄る辺ない姿に見えた。

「そうだな。呼び名がなければ、識別できない」

「自分とほかを、分け隔てるために?」

 イライは応えなかった。

「大尉」

 それが自分を呼んだのだと気づくのに、上空でなら致命傷になるほどの時間を要した。

「コールサインは誰が決める?」

「飛行班長」

「空では、お互い、名前で呼び合う?」

「無線が使えれば」

「そう」

「それがどうしたんだ」

 イライの問いに、ユウは応えなかった。

 しばらく、静かだった。

 日はすっかり山地の向こう側へ沈んでしまい、鳥の声も聞こえない。出撃機も帰還する機もなく、滑走路を隔てた区画に、大型の輸送機が二機、羽を休めているのが見えた。擬装網をかけるなどということもせず、野ざらしだ。上層部も、よもやここまで敵の爆撃機が飛来するとは考えていないようだ。あるいはもしかすると、信じられないほどの鈍感さがそうさせるのかもしれない。中立地域での散発的空中戦が、短期間に二度あったことを、パイロットほどに重要視していないのかもしれない。もっとも、それについて、危機感をあおるような報告書をイライがしたためたわけでもない。イライたち戦闘機パイロットにとって、空中戦は日常だったからだ。何をしている? 戦争をしているんだ。

「航空学校出だそうだな」

 俺と同じに、という言葉は飲み込んだ。

「大学に行く余裕はなかったから。それに、人より長く飛んでいられる。上級中学を出て、すぐ」

「飛行特性があったのか」

「知らない」

 ユウは、本当に知らない、そんな風に、抱きしめていた両腕を解き、足元のカエデの葉を拾う。

「飛ぶのは好き」

「一人でか」

 ユウはカエデの葉を手のひらに載せ、それをくしゃくしゃに砕いた。乾いていた。今朝までの雨はどうしたのか。

「ハチクマ以外に、何に乗ったことがある」

 イライが問うと、ユウはころころと笑った。

「何がおかしい」

「ヨノイ大尉と同じことを訊いた」

「それがおかしいのか」

「書類を見れば、全部わかるのに。みんな、どうして無駄なことをするのか、私にはわからない」

 ユウは鼻白んだようだった。無駄なことをする。ユウの平淡な物言いは、けれどさほど不快に感じなかった。あの馴れ馴れしい態度のヨノイのほうが、イライには合わない気がした。

「大尉」

 ユウ。

「ノスリ以外に、何に乗ったことがある?」

「俺は、ノスリ以外に乗ったことがない」

「ノスリは、手ごわい」

「俺は、お前に撃墜された」

「あんなの、ただのデモンストレーションだよ。勝って当たり前だった。もっと限定された空域で、もう少し高度が低かったら、ノスリには勝てない。きっと。私はノスリには乗ったことはないけど、見ててわかる。ノスリは風車みたいに回る」

「戦うステージが違うか」

「離着陸時を狙われたら、GDBはおしまい」

「おしまい?」

「エンジンの反応が、きっとノスリからでは想像もできないくらいに鈍いから」

「そんなことを言ってもいいのか」

「なにが」

「それは、お前の戦闘機の弱点だろう」

「離着陸時に狙われるようになったら、この戦争は、もう負けなんでしょ」

「それは、そうだ」

「だったら、関係ないよ」

「そうか」

 イライが言うと、ユウは立ち上がった。小柄なユウは、立ち上がってもやはり小柄だった。

「帰る」

 一言言うと、ユウはイライの反応を待たず、くるりときびすを返し、エプロンを出て行った。

 別れの言葉もなく、イライはエプロンに一人になった。

 日暮れた飛行場地区は、きっと本来の気温以上に冷え込む。

 静かだった。

 時折、工具か何かがうなりを上げていた。ハスミの機体を修復している音かもしれない。

 自分の機体はどうなったろう。

 イライは両手をポケットに突っ込み、煙草を喫いたいと思った。


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