12
とうとう初雪の便りが、届いた。基地から北へ三十分ほどの飛行で到達できる測候施設からだ。レーダーサイトの設置されたあの山岳地帯は、とうに雪化粧に染まり、朝晩は基地の通用路の水たまりが凍り付き、その中にガラス細工のような紅葉が閉じこめられていた。イライは氷を踏みしめる。薄ガラスを割るときのような音が、なぜか郷愁を誘った。幼い頃、霜柱を割ったときの音を、ふと思い出す。昔のことばかりを思い出すのは、もしかすると危険な兆候なのかもしれなかった。なぜなら、人間は過去に生きる生き物ではないからだ。
哨戒任務で飛んだ。いつもの増槽タンクを主翼に下げ、機銃弾を満載し、ハスミと二機で飛んだ。墜とされたタグサリの補充はいつまで待っても来なかった。飛来した二機のハチクマと、随伴する形で展開している八機のⅥ型のノスリが補充といえば補充なのかもしれなかったが、Ⅵ型ノスリはまだしも、二機のハチクマは味方を相手に日々戦い続けるだけで、積極的に作戦へ参加することはなかった。いつしか彼らは基地の中ですっかり疎まれる存在になっていた。それは、古参のパイロットたちが次々と彼らに撃墜されたからかもしれない。
イライは考えた。ヨノイや彼のウィングマンが、実戦を知っているのだろうか、と。二機の新型は実験航空隊の所属で、戦闘飛行隊に配備されたものではない。経歴を見ても明らかで、装備された機銃は、指定された射撃目標以外に対して火を吹いたことはなさそうだった。だからなおのこと、彼らは基地では疎まれた。
哨戒任務の日、基地は朝からひどく冷え込んでいた。冷蔵庫を買わなかった報復を、PXのケイがやったのかと思った。そういえばあれから、ケイがおもしろいことを言っていた。二機の新型とパイロットは基地で疎まれていたが、その憎悪にも似た感情を一手に引き受けているのは、二機の戦闘機そのものと、リーダーであるヨノイだけだということ。カンナリという名のウィングマンは、とりわけ基地の若手のパイロットでは、逆に人気がある、ケイはそういって笑わない目で笑った。イライはそのとき、チョコレートを買った。そして努めて無関心を装った。それがうまくいったのかどうかはわからない。ケイはいつもと同じ無表情なタイプでレジスターを操作し、イライに釣りのコインを手渡した。
もう、人違いだとは思わなくなっていた。
ヨノイとともにハチクマに乗って現れたパイロットは、カンナリ・ユウといった。イライが忘れるはずもない名前だった。パイロット本人に間近で遭遇したことはなかったが、デブリーフィングで彼女が見せた表情と、なによりも漂う雰囲気、そう、匂いのようなものにイライは覚えがあった。俺を追って、ここまで来たのか。デブリーフィングで出かかった言葉は、かなりの自制を必要として飲み込んだ。
「……」
イライは夢から覚めたように我に返る。ここは空だ。
「なんだ」
「イライ、聞こえなかったのか」
ハスミの声が耳を打つ。すでに二機は海に出ていた。今回は南、つまりは中立地域への哨戒飛行だった。
「すまん。……無線の調子が悪いらしい」
「考えごとか」
「いや」
空は晴れていた。いや、二万フィートも上昇すれば、いつだってそこは快晴だ。コクピットはヒーターが効いているが、やや寒い。寒いと感じる意識を大事にしようと思った。
「中立地域まで、五十マイル。機関砲の試射をするか」
「いや、いい。大丈夫だ」
「なにが大丈夫なんだ。イライ、具合でも悪いのか」
併走して飛ぶハスミ機のコクピットから、彼がイライを向いていた。酸素マスクにゴーグル、そして飛行服。アクリル製のキャノピーはよく磨かれていた。
「俺も機体も、どこも具合なんて悪くない。大丈夫だ」
イライが答えると、こちらを向いていたハスミが前方に直った。
大丈夫だ。
ここから先の空域には、現れるとしても敵機しかいない。後ろから味方に撃たれる心配などない。エンジンは快調、低空ではややもたつくが、いつもどおりの振動が、背中から伝わってくる。
「こんな任務こそ、奴らを駆り出せばいい」
ハスミが平淡に言った。
「なにが」
「旧型を飛ばすくらいなら、新型を出せばいい、俺はそう思うんだ」
「虎の子なんだろう。墜としたくないのさ」
「ノスリが束になっても敵わなかったんだ。俺たちが飛ぶよりずいぶんマシだとは思わないか」
「そうかもしれない」
「あんたは違うかもな。ミサゴを一機撃墜してる」
「僥倖だ、あれは」
「そう思うのか。墜とそうと思ったから墜としたんだろう」
「ハチクマは墜とせなかった」
「性能差があると思うか。ハチクマとミサゴでは」
「さあ……。誰がつけたんだ、あれにミサゴなんて名前」
「正式じゃない。……暗号名って奴さ」
「DF-200って型式名までわかっているなら、なぜそれで呼ばない」
「純粋培養さんたちは、暗号名で気取るのが好きなのさ」
「気取った名前には思えないが」
それは今イライが駆るノスリにしても、新型のハチクマにしても同じだと思った。センスのかけらもないネーミングだと思う。そもそもノスリの原型機は攻撃機だった。低空を素早く、軽やかに飛ぶ飛行機だった。それがⅠ型だ。イライは乗ったことはなかったが、まだパイロットになりたてのころ、何度も飛行場で見かけた。もはやⅤ型とは似ても似つかない形状をしていた。野を擦るように飛ぶ、「ノスリ」の名がふさわしい飛行機だったと記憶している。もともとが高空を大馬力で飛行する戦闘機ではなかった。
「今日は、さっさと帰るよ」
ハスミが鼻歌を口ずさむように言った。彼はいつでもそうだ。気負わずに飛ぶ。イライとは違う。自分とは。自分はいつも気負って飛んできた。だから今まで生きてこられた。が、ハスミは気負わずに飛び、そして同じように生きてきた。スタイルが違っても、飛び方が違っても、生きている現在は同じということだ。
「帰ろう。同感だ。さっさと帰ろう」
「ミサゴに出会わないことを祈る」
「気弱だな」
「あんたは一機墜としているから、そう思うのさ。俺たちの中で、ミサゴをまともに見ているのは、あんただけだ。タグサリを除けば」
「間もなくアツマだ」
「タグサリの機体は回収されなかったそうだな」
「できるんだったら、哨戒任務が実施されるはずもない」
「もっともだ」
「奴は本当に、……死んだのか」
「帰ってこない。……生きてるかもしれないが、姿が見えないのは生きていないのと同じだよ」
イライは言った。操縦桿がわずかに粘る。風が出ている。気流が荒れてきた。眼下は雲海だった。手が届きそうなくらい近い。
「荒れてきたな」
ハスミの機体がわずかにぶれ始めていた。イライ機も同じだ。
「この程度、荒れたうちに入らないさ。今日は積乱雲もない」
「隠れ場所もないってことか。俺は下を見張る」
「了解だ」
五十マイルなど、巡航速度では十分程度の距離にすぎない。が、眼下は雲海のままで、海岸線は見えなかった。航法が正しければ、もう中立地域に上陸しているはずだ。
「警戒」
ハスミの声が緊張していた。
「何か見えたか」
「まだだ。でも、いやな雰囲気だ」
「いやじゃない雰囲気があるのか」
「PXのレジだな」
「なんだって?」
「あんた、レジの子と仲がいいそうじゃないか。名前、なんていったっけ」
「知ってるんだろう」
「学生さんに手を出すなよ」
「そんな歳じゃない」
「歳なんて関係ない」
「喉が渇いたな」
「帰ったらたらふくコーラを飲んでくれよ。警戒。方位一七〇。あの雲、いやな感じがする」
「電探情報は」
「俺の勘だよ、イライさん」
「信じるよ」
スロットルをやや開ける。イライ機が増速、ハスミがついてくる。チェック・シックス。二機はコントレイルは曳いていない。そして、後ろに敵機もいない。やや気流が荒れてきたことを除けば、雲海上空二万フィートは、天国の風景のようだった。そう、有り体にいえば天国だ。それ以外にどんな言葉でここを表現すればいいのだろう。青と、白。基調になる色はその二系統。けれど、雲の峰の端々や二機を包み込むような青の天蓋には、様々な色が散っていた。数える気になればどれくらいの時間がいるだろう。ハスミなら上手に絵の具をパレットに溶き、この空を再現するかもしれない。
それからしばらく、二人とも無言で飛んだ。燃料残量からすると、そろそろ折り返し地点だった。操縦桿に添えた右手の人差し指は引き金から浮かせたままだ。来るならいつでも来てみろ。雲海に遮られ、地上からの高射砲攻撃の心配はあまりない。もしかすると地上は雨かもしれない。天候が悪ければ、敵の新型も上がってこられないはずだ。それくらいに天気が悪ければ。
イライは操縦桿をやや左に傾ける。ラダーは入れず、機体がそのまま滑るのに任せた。ハスミもついてくる。左にバンクを切ったまま、高度が落ちる。ゆっくりとダイブする。心持ち、機体後部が重い。それはこの機体の特徴だった。ノスリの悪癖に、機体の重心から来る失速特性の悪さが挙げられた。一度失速すると、重量物であるエンジンが機体後部に設置されている分、回復不能になることがある。機首上げ状態から回復できないのだ。イライも何度か背筋を冷やした経験があった。旋回時は余計な操作をしてはいけない。それがこの機体の特性だ。一言多い人間が嫌われるように、余計な操作を、この飛行機は特に嫌う。が、この高度と速度があれば、失速を気にする必要はない。イライは左バンクを維持し、高度が落ちるのに任す。高度が落ちる分、速度が増す。三〇〇ノットに達する。キャノピーを風が切る。そこでようやく、ゆっくりとエレベーターを引いた。機体は左旋回を開始する。ハスミとの距離は緩やかに開く。戦闘隊形だ。向かって左手、十時の方角に、先ほどハスミが「いやな感じだ」と漏らした雲が形を変えていた。成長している。やはり地上は雨だ。雲の中で稲妻が閃いた。
二機は湧き上がる雲を回り込むようにして旋回する。高度は徐々に落ちている。気流が荒く、機体がもまれる。コクピットがびりびりと震えていた。操縦桿は粘っこい。今はイライもいやな感じがしていた。大きく息をついてみる。首を巡らせる。あれが出てくるなら、この碧空に黒煙を曳くはずだ。見逃すはずもない。もしコントレイルでも曳いてくれれば、真っ先に迎えに行ってやる。
「イライ」
ハスミの声。無意識に振り返る。
「どうした」
「いやな予感が的中した」
ハスミの声がいやに冷たい。はじかれたようにイライは周囲を警戒、スロットルを握る手に力が入る。プロペラピッチにはまだ余裕があった。スロットルも全開ではない。
「どこだ」
イライは問う。
「違う」
ハスミは声を震わせていた。寒いわけでも緊張でもない、エンジンの振動がそのまま音声になったような、そういう音だった。
「スロットルが開かない。回転が上がらない」
「なに」
「エンジンだ。……過給圧もおかしい。ブーストがかからない」
「本当か」
「計器の故障じゃなければな。まずい。……早く帰ろう」
「高度を下げるか」
「まだ大丈夫だ。けれど、これ以上は上がれない」
致命的だ。なにが最新鋭だ。聞いてあきれる。イライは口の中で激しくののしった。が、声には出さなかった。
「イライ」
「なんだ」
「俺からは見えない。煙を吹いちゃいないだろうな」
応える代わり、イライはハスミを向く。
碧空。青。そして雲の白、灰色、まだら模様の雲海。
「煙は見えない。大丈夫だ」
「大丈夫じゃなさそうだ。本式にエンジンがぐずってきた。オイルを吹いたりしてないか?」
ハスミの声はひどく震えていた。先ほどよりもひどい。
「見えない。今のところ、煙もオイルも大丈夫だ」
「くそ、回転が上がらない。吹けない、ダメだ」
「ハスミ、増槽を捨てろ」
「帰れなくなる」
「燃料残量はまだ余裕があるはずだ。ハスミ、帰投しよう」
「すまない」
「エンジントラブルで墜落なんて、敵に墜とされるより屈辱じゃないか。ダメだ、そんなのは俺が許さない。帰ろう」
二機は旋回をやめた。方位を帰投方向へ、機首を基地へ向ける。ハスミ機はまだ煙を吹き出すような兆候はなかったが、飛び方に余裕がなかった。姿勢の修正が激しい。エンジンだけの不調ならいいが。
「雲に入るか」
イライは提案する。
「気流で落ちるか、敵機に墜とされるか、どっちか選べって?」
「気流で落ちるほど荒れていないようだ」
「わからないよ」
「了解、高度を維持しよう。大丈夫か」
「たぶんね」
ハスミに合わせて、イライはスロットルを絞る。それにしても、……いま襲われたらひとたまりもない。どれくらい中立地域に侵入していただろう。三十マイルでは効かないに違いない。自分だけでも一度雲海を降り、正確な位置をつかむか。それも危険だ。降りている最中にハスミが襲われるかもしれない。航法を信じるしかない。
「海まで出よう」
「いや、迂回することになる。早く帰りたい。くそ、このポンコツ」
「急がば回れ、だよ。海まで出よう。その方が安全だ。燃料ならまだ大丈夫だ」
「わかった。海まで出よう」
ハスミまで失いたくなかった。イライはグラブの中がじっとりと汗ばんでいるのに気づく。俺は、とんだ臆病者だ。いつもびくびくしながら飛んでいたのか? 最近はそういうことが多いだけだ。気にするな。
じりじりと背中が焦げ付くような、いやな気分だった。ハスミに起きているトラブルが、自分の戦闘機にも起きるのではないかと、そういう妄想は捨てることにした。
「いやな感じどころじゃなかったな」
ハスミが笑っていた。自嘲するような、いや、もっと簡単に、ひとり笑いのような。それがイライにとってもっといやな気分にさせた。
「余計なことは考えるな。帰るぞ」
「わかってる。考えたくはないが、でも考えちまうのさ」
「俺はさっさと帰ってコーラを飲みたい気分だ」
「いいだけ飲んでくれ。先に帰れとは言わないぞ」
「その調子だ。帰ったら、この空の色を俺に描いて見せてくれ」
「いくらでも描いてやるよ。帰れたら」
その調子で、エンジンもなだめすかしてくれ。二人で帰るぞ。
「雲海ぎりぎりまで降りるぞ、ハスミ。ただし雲には入るなよ」
「言われるまでもない。こんな状態で雲には入りたくない」
「機体の状態より、バーティゴが心配だ」
「ついてない」
「変針する。ヘディング二六○へ」
「了解」
二機はゆるやかに高度を下げる。ハスミの機体がばたついている。大丈夫だ。まだ煙も何も見えない。イライは大気速度計を確認する。二〇〇ノットと少しだった。ノスリⅤ型の巡航速度は二五〇ノット。ここが中立地域上空でなければ、新人パイロットの訓練飛行初日の一時間目といったところの速度だった。が、これ以上速度を落したくはなかった。これ以上の速力の低下は、同時に高度も失っていく。眼下の雲海は当初よりもはるかに密度を増していた。まるで弾力性のある固体のような、そんな手で触れられそうなほどの密度だ。
「後方、警戒」
震えるハスミの声がヘッドセットの中に響く。
「どうした」
「方位一七〇、レベル、何かが見えた」
イライは瞬間シートから身体を浮かすようにし、振り向いた。
「一七〇か?」
「レベルだ。確かに、何か見えた」
「キャノピーのゴミじゃないだろうな」
「こんなときにそんな冗談は言えない。確かだ。見えた」
イライはエレベータを引き、やや高度を取った。ハスミをカバーするように。そして、ハスミが言った方位を向く。北へ向かって飛ぶ二機にとって、ハスミの示した方角は真後ろに当たる。ミサゴか? こんなところで出会いたくはない。
「ハスミ、現在位置はわかるか」
「もう海に出ているはずだ。さっき変針してから十分以上飛んでる」
「ハスミ、増槽を捨てる準備をしておけ。もう燃料の心配はないはずだ」
「何をする気だ」
「決まってるじゃないか、迎え撃つんだよ。敵なら」
言うなり、イライはスロットルを全開に、プロペラピッチも最大にした。はじかれたようにイライのノスリは加速する。いい反応だ。過給圧が最大値を示す。最大出力だ。二〇〇〇馬力を上回るエンジンが咆哮を上げた。背中にひどく心地よい振動がびりびりと伝わってくる。操縦桿が粘っこさを通り越し、固くなる。気流が悪い。風は、……ハスミ、俺たちはまだついてる。追い風だ。
「ハスミ、雲海の上ぎりぎりを飛んでろ。俺は上に行く」
イライは言うが早いか増槽を切り離した。抵抗を減らした機体は一気に身軽になる。そして操縦桿を引きつけた。速度は三〇〇ノット弱まで加速していた。急上昇に入る。ほぼ垂直に機首を立て、その状態のコクピットからイライは真上を向く。角度としては先ほどハスミが示した方位を仰ぐ形だ。
見えた。
黒煙が二筋だ。
認めたくなかったが、間違いない。DF-200、ミサゴだ。しかし、遠い。普段であれば、スロットルを全開にし、そのまま十分に逃げ切れる距離だ。が、今日は違う。雲海ぎりぎりにハスミが見えた。エンジンに致命傷を負ったハスミが。彼をおいて逃げるわけにはいかない。逃げることができないなら、相手を撃ち墜とすしかない。イライはすでに急上昇をすることで、相手に姿をさらしていた。もう気づかれているに違いない。スロットルはまだ全開のままだ。ループに入れた機体は頂点からすでに下りに入っている。背面飛行から順面にロールを打つ。真上に見えていた真っ白な雲海が空と入れ替わる。速度は二五〇ノットまで落ちていたが、高度は二万フィートに迫っていた。画用紙に鉛筆をそっとすりつけたように、はるか遠くに黒煙が点として見えていた。こちらへ向かっているのか。が、またもイライは自分のつきを再認した。相手よりも高度で勝っているのだ。奴ら、上昇してこなかった。こちらに気づいていないのか。それにしても風が強い。見ると、眼下左手の雲海から、雲がするすると湧き上がってきていた。日を浴びててらてらと輝いていた。濃淡がほとんどなく、立体感が感じられなかった。イライは機をバンクさせ、相手の気を引くように心がけながら、その雲に回り込んだ。
いやな予感?
それは今頃相手がそう思っているのさ。
イライは強くそう思いこむことにした。
操縦桿が重い。対気速度は三〇〇ノット強、やや下降気味に積雲を回り込む。すでに黒い筋はとてつもない量感をたたえたあの雲の向こうだ。ノスリはDF-200に比べて一回りほど機体が小さい。小柄だということは、ようするに相手から見えにくいということだ。それは空中戦においてかなりの有利なポイントになる。まして奇襲を狙うならさらに。イライは人差し指をガントリガーから浮かせ、そしていつでも発砲できるよう、全神経の七割方を視力に預け、残りを全身に殺気としてみなぎらせる。いつもと同じだ。巡航速度に勝る相手を撃ち墜とすには、ようするに相手の速度を殺せばいいのだ。操縦桿を左にやや倒し気味で保持し、右のラダーを入れる。機体をゆっくりと、うねるように襲ってくるアドバース・ヨーを両足でコントロールする。もうすぐだ。俺の勘がただしければ、もう間もなくだ。ジャイロ式の照準器をにらむ。照準環に敵機を捉えたとき、それは彼らの最後の風景を意味するはずだ。左にバンクしたコクピットからは、ほぼイライの頭上を猛烈な速度で雲の峰峰が吹き飛んでいく。思考の片隅で、しかしはっきりと、僚機の安否を思う。ハスミ、じっと飛んでいてくれ。
やがて、雲が切れる。イライはスロットルを最大に、プロペラピッチも最大角度で、背後から心地よいターボエンジンの咆哮を聞く。見えた。思った以上に近く、すぐそこに黄色みがかったグレイの塗装を施した敵機が二機、並んで飛んでいた。気づいていない。そう信じるしかない。イライは機首を心持ち強くさらに左側へ振らせる。照準線が敵機の進行方向からわずかに先を指す。そして、トリガーを引く。四門の二〇ミリ対空機関砲が火を吹く。機関砲だけはこっぴどくしてやられたハチクマと同じ、メルクア・ポラリス製だ。銃身が長く、初速が高い。そして信頼性も高い。曳光弾が二機並んで飛ぶ敵機のウィングマンに吸い込まれていく。これは僥倖ではない、狙ったんだ。イライは弾道を確かめることなく、ノスリを急な右ロールへ持ち込む。撃たれたことに気づいた敵機は、雲を避けて右へ旋回するはずだ。あるいは雲に飛び込むかもしれないが、これだけの規模の積雲は、もはや積乱雲と等しい。そんななかへ飛び込むパイロットを、イライは知らない。だから右へ機体を振った。次の瞬間、視界のほぼ中央で茜色の炎が散る。命中だ。敵の編隊のウィングマンに、イライの二十ミリが命中した。喝采を上げたくなるほどに気持ちのいい射撃だった。敵機の左主翼が吹き飛んでいた。黒煙を盛大にまき散らし、被弾した敵機は左主翼を失い、一気に墜ちていく。次は、リーダー機だ。予想通り、僚機の被弾を見、リーダーは右へロールした。こちらを見ていなかったのか。すでにイライの照準器のなかに、彼、あるいは彼女はいた。イライはロールしていくリーダー機のミサゴを、意外にスレンダーな機体だと思った。エンジンに主翼と水平尾翼をくっつけたらこうなるだろう、そんな形状で無駄がなかった。ハチクマよりも美しいかもしれない。が、俺はこいつを叩き墜とさなければならない。トリガーを引いた。弾丸はきれいに集束していく。ハーモニゼーションが完璧だ。ゆるやかな弧を描いて、曳光弾がヴェイパートレイルとともにリーダー機へと飛翔する。空が青い。なんて青いんだ。キャノピー越しに、雲がまばゆい。ゴーグルをかけていてもまぶしい。そんな空だ。なんてきれいなんだ。イライが放った二十ミリは、そのままリーダー機の右主翼に次々と命中した。ミサゴのエルロンが飛んだ。フラップも飛んだ。右の水平尾翼に大穴が空いた。が、火が出ない。イライはマスクのなかで舌打ちをした。
が、敵はすでに手負いだった。止めを指してやろうか。それよりもイライはハスミが気になった。これ以上ミサゴを追い掛け回しても、今度はこちらの燃料が心配になる。洋上に出たとはいえ、いまだここは中立地域なのだ。海岸線まで逃げ込まれたら、帰れなくなる。イライは戦闘機乗りであり、戦闘機乗りは何が何でも敵に弾を撃ち込んで、そして基地へ帰還するのが使命だった。敵を撃ち墜としても自分が墜ちては意味がない。イライはトリガーから指を浮かせた。敵機の、ミサゴのエンジン排気管から、いつかみた青白い炎が吹き出していた。そういえば、ハチクマとの模擬戦闘のあとのデブリーフィングでヨノイから聞いた。ミサゴもハチクマも、ジェットエンジンの決定的な弱点である瞬発力のなさを補うため、オーギュメンタと呼ばれる推力増強装置を搭載していると。タグサリが撃墜されたあの日、形勢を逆転された大きな要因は、それだった。ミサゴが排気管から炎を吹きだし、イライとタグサリのノスリはその上昇力に追随を許されなかった。あれがオーギュメンタか。突発的な加速力はないとヨノイは言っていたが、それでも手負いのミサゴはすでに、徐々にノスリを引き離しはじめていた。深追いは禁物か。イライは機体を水平に戻し、そして後方に遠ざかったあの積乱雲に機首を向けようとした。何気なくぐるりと首を巡らせ、キャノピー越しに背後をうかがった。予感だったのかもしれない。次に、イライが見たものは、二筋の曳光弾の軌跡だった。
撃たれた!
イライは考えるより早く操縦桿を左いっぱいに倒し、機体を背面に入れ、さらに操縦桿を股間にめいっぱい引きつける。天地が逆転する直前、イライは背後に黒煙を二筋見た。襲いかかる加速度に、イライはマスクのなかで絶叫する。様々な思いをはき出す。前の二機は奇襲だった。が、奴らが二機編隊だとなぜ自分は決めつけたのか。違う。奴らは四機編隊だった。最初に見た二筋の黒煙は、先行する二機だったのか、後続の二機だったのか、もはやわからない。が、二機ずつのエレメントで、合計四機、ミサゴは空にいた。背面に入れ、パワーダイブに入ったノスリのコクピットから、手負いのミサゴが猛烈な速度で反転していくのが見えていた。主翼端から真っ白なヴェイパートレイルを引いていた。右フラップとエルロンを失った彼、あるいは彼女は、もう戦闘に参加することはないだろう。逃げているのだ。そして、失った僚機を屠った相手を撃墜すべく、後続の二機がいままさに襲いかかってきている。ほぼ逆落としになったノスリは、操縦桿が石になっていた。びくともしない。速度は四〇〇ノット。さらに対気速度計の針が回る。高度計の針が凄まじい勢いで逆回転していた。雲に飛び込むか。雲海の下に抜ければ、捲けるかもしれない。が、ではハスミはどうする。そう思ったイライの眼に、敵の二機が散開し、一機がノスリではあり得ないほどの速度で北へ向かっていくのが見えた。奴、ハスミに気づいている。イライは無線のスイッチを入れる。
「ハスミ、聞こえるか。まだ飛んでいるか」
雑音。かなり距離が開いてしまっている。あのままハスミが二〇〇ノットに達しない程度の速度で基地へ向かっていたとしても、こちらは最大速度で空中戦をやらかした。下手をすれば五十マイル程度の距離はあるかもしれない。
「ハスミ、ヒムロ・ニ、聞こえるか」
「……まだ飛んでるよ」
「様子は」
「よくない。危なくてスロットルに触れない。いつエンジンが止まるか冷や冷やしてる」
ハスミの声は雑音の向こうで、それでも穏やかだった。よもやあきらめているわけではないだろうな。
「ハスミ、悪い知らせだ。ミサゴが一羽、そっちに向かった。雲の下へ降りろ」
「撃ち漏らしたか」
「四機だった。うかつだった。俺のせいだ。奴ら、お前に気づいてる。ぎりぎりまで速度を上げろ、こっちもまずい」
イライの呼びかけに、ハスミは無線スイッチのオンオフ二回で応えた。
イライのノスリは、ほぼ限界速度まで達していた。ラダーペダルから計器盤に足をずらし、力の限りで操縦桿を引いた。引いている途中で雲に飛び込んだ。シーリングはどれくらいか。水平儀で姿勢を確認しながら、イライは渾身の力で操縦桿を引いた。五〇〇ノット。降下速度の限界だ。これ以上になると、機体がバラバラになる、かもしれない。振り返る気にならなかった。乳白色の雲のなかを、曳光弾が追いかけてくる。逃がしてくれる気はないようだ。全身の血が座席に向かって下がっていくようだ。五G、六G。四〇〇ノット。一気に雲を抜けた。鉛色の海面が飛び込んでくる。近い。背後から曳光弾。当たらない。ヘタクソ。放たれた曳光弾が海面にはねた。そんなに近いか。ようやく操縦桿を戻し、左へ急ロール。反転トルクの関係で、ノスリは左旋回が得意だった。増槽タンクを捨てたイライのノスリは、さらにロールレートが異常なほどに敏感だ。くるりと音がするように機体は反応する。振り向いた先に、ミサゴがいた。一機だった。こいつら、素人か。散開してくれたのは、イライにしてみれば、チェック・メイト一手前から解放されたようなものだった。多勢で無勢を袋だたきにするのが戦争だ。こいつら、よほどの平和主義者か。イライは口に出さずにマスクのなかで毒づいてやる。ならば、相手になるだけだ。機速は三〇〇ノットまで落ちている。それでも速い。燃料計は……まだ一試合できそうだ。が、延長戦にもつれれば、空中給油機のお世話になるしかない。空中給油機が展開できる空域まで飛べればだ。
曳光弾がしつこく追ってくる。イライは機体を今度は右にバンクさせる。ノスリの左主翼のすぐ上を曳光弾がかすめた。そのまま右へ抜けていく。引っかかったか。イライは機体を右にバンクさせたまま、右旋回せず直進していた。両足のコントロールが肝だ。首を巡らすと、案の定、イライの動きを読み過ぎたミサゴが踊っていた。ワンテンポ遅らせて、イライは右旋回、それもかなり急激な。旋回性能でははるかにノスリに分があった。速度は二五〇ノット。この速度域なら、ハンディはない。むしろ、ノスリが有利だ。イライをオーバーシュートした形になったミサゴは、腹をこちらに向けたまま、得意のオーギュメンタに火を入れていた。そのときイライはすでにスロットルを全開にしていた。ぐっと背中に心地よい加速を感じる。二機の航跡が交差する。が、まだイライの照準器にミサゴは入ってこない。それでもイライは撃った。普段より長めにトリガーを引いた。きれいな弧を描き、弾幕を張る。そのまま逃げていけ。イライは右旋回をやめ、スロットル最大で北へ向かう。こいつにかまっている余裕はない。できれば撃ち墜としておきたかったが、ハスミが心配だ。
「ハスミ、飛んでるか」
「まだ生きてる」
「ミサゴは」
「まだ見えない」
「現在位置は」
「海岸線はまだ見えない。カイバ島を三分ほど前に通過した」
中立線は越えたようだ。が、まだ味方の防空識別圏まで到達していない。
「メーデーは打電してる。友軍機が上がってくるはずだ」
カイバ島から十分ほどで防空識別圏に飛び込める。ホントの通信所が中継してくれれば、基地から迎撃機が上がってくるはずだ。もう中立線は越えているのだ。が、その前に二機のノスリが撃墜される可能性が高い。イライは最大速度で北を目指す。イライの弾幕につかの間逃げていたミサゴも、体制を立て直し、すでに追撃態勢にあった。追いかけてくればいい。ノスリの速度は再び増速、三〇〇ノットを超えていた。水平飛行時の最高速度記録でも作るか。増槽もなく、残存燃料も心細くなっている今、機体は軽い。やがて、照準器に黒い機影が見え始めた。黒煙を曳いていない。ハスミだ。もう一機のミサゴはどこで何をやっているのか、姿が見えなかった。イライは高度を上げる。眼下に漁船。航跡が白い。そして、波頭も白い。追い風だ。南からの風。おそらく間もなく、北からの風がぶつかる場所に着く。そこは前線だ。温暖前線。すでにキャノピーを雨滴が叩いていた。視界が悪くなる。イライは左垂直尾翼の向こう側を、次に右の垂直尾翼の向こう側を警戒する。プロペラはまだ勢いよく回る。こちらのエンジンは快調なのに、ハスミのエンジンはまだくずっているらしい。それでも飛んでいるだけ優秀だ。
「ハスミ、オイルは吹いていないか」
「油圧が落ちてる。吹いているかどうかはわからないが、これ以上の速度は無理だ」
「いまどれくらいだ」
「二〇〇出せない。一八〇くらいがやっとだ」
「十分我慢しろ。防空識別圏を越える」
「イライ、どこだ」
「後ろだ。五マイルくらいか」
「……敵は」
「視界が悪い。どこにいるのかわからない。警戒だ。警戒」
「くそったれ」
「喉が渇いたよ」
「帰れたらコーラをおごってやるよ」
「約束だ」
ジッパーコマンドが返ってくる。ハスミも自分も、まだ生きている。ゴールまで、あとわずか。あとわずかだが、まだゴールではなかった。
緩やかに高度を稼いでいた。雨脚が強くなっていく。コクピットのなかも冷えてきた。前線を越えたら、もしかすると雪になるかもしれない。けれど南風が強い今、それは錯誤に違いなかった。雪でも降ってくれれば、より視界が悪くなる。着陸は面倒だが、ミサゴから逃げ切るには好機になる。奴ら、帰ったのか。
「イライ、警戒、十二時、ブレイク、ブレイク!」
「なに?」
首を巡らせたとたん、左主翼の、ちょうど左垂直尾翼のつけ根あたりの外板がはじけた。激しい衝撃と目の前を過ぎる曳光弾。そのときに黒々とした機影。雲に紛れていやがった。振り向いたまま、イライは操縦桿を左へ倒す。フラップは無事だ。かすめただけだった。ヘタクソが。イライは反転させた機体をひねる。上昇するような愚は犯さない。速度が落ちていた。曳光弾がよぎる。
「ハスミ、上昇できるか。雲に入れ」
「くそ、ポンコツ!」
ハスミは怒鳴りながらもゆったりと上昇を開始した。そのハスミにも曳光弾が襲いかかっていた。振り向くと、イライの背後にいたミサゴが離れ、もう一機と編隊間を詰めていた。ハスミが手負いであることに気づいたのだ。イライは左ロールからそのまま一回転し、順面に戻したあと、燃料残量を忘れた。スロットルを再び最大に。残弾はどのくらいか。撃ち尽くすほどは撃っていない。それよりも二機のミサゴだ。盛大に撃ってくれるじゃないか。そろそろ弾切れを期待したいところだ。二二〇ノット、操縦桿は軽い。空気が重い。高度が低いのだ。この高度では、EJ20型エンジンは最大出力が出ない。イライは照準することなく、ミサゴがいるあたりめがけてトリガーを引く。短く撃った。先行している一機が身を翻す。もう一機はまだハスミをねらえる位置にいる。
「ハスミ、雲だ、雲」
「わかってる。でも、ダメだ、エンジンがついてこない」
ハスミの声がうわずっていた。悲痛だった。イライは膝元の非常無線のスイッチを連打する。ハスミの背後につけたミサゴが撃った。近い。当たる。ハスミのノスリが被弾する。白煙がエンジンから上がった。エンジンナセルが吹き飛んだ。
「ハスミ!」
呼びかけにハスミはそれでも無線スイッチのオンオフで応えた。どんな意味か。生きてるよ、そう言いたいのだ。が、ハスミの機体は、ゆっくりと右に傾きだした。目に見えて速度が落ち始めた。高度も。白煙は止まらないが、黒煙にはならない。致命傷ではないようだ。プロペラもまだ回っている。イライは一気に操縦桿を引き、高度を上げるとロールし、背面飛行でミサゴに接近する。照準器のなかの照準環が揺れていた。見切りをつけたところで掃射する。もとより当てるつもりもなく、殺虫剤をぶちまけるような気分だった。一機のミサゴが反応したが、もう一機はイライが照準していないことを悟っているかのように動かない。ハスミにとどめを刺すべく、追いつめていく。
「イライ、雲には入れない。シリンダーが何本か完全に死んだ」
「もうこちらの防空識別圏に入ってる。針路を維持してくれ。俺が何とかする」
「期待してるよ」
イライはハスミを真似、ジッパーコマンドで返す。イライはノスリを左へ急ロールさせ、先行するミサゴに交差するように機銃を撃つ。左右五発ずつ、計十発。当たらない。照準していないからだ。もう一機はやや離れたところから、まっすぐにイライを向いて迫っていた。見るともう一機の機首から白煙が上がる。撃った。曳光弾がイライの左垂直尾翼上部を貫通した。衝撃に機体が震える。方向舵はまだ無事だが、左垂直尾翼の先端がなくなった。それだけで機体は砂利道を走るモーターサイクルのように安定を失った。イライは一気に操縦桿を引きつけ、失速ぎりぎりまで機体を立てた。もう一機を引きつけて、ハスミを逃がすしかない。ノスリは機体の構造上、牽引式の戦闘機がアクロバットで見せるような失速を利用した急旋回ができない。そのまま尻から落ちる。イライはまだ翼が空気をつかんでいるうちに、スロットルを開けて右へ機体を倒す。その先にはハスミと先行するミサゴがいる。イライは祈りながら撃つ。ハスミに当たってくれるなと。その動きが意外だったのか、イライを狙うミサゴが離れた。あるいはそのイライの動きと、ノスリの機首から上がった発砲煙を被弾か故障かと勘違いしたのかもしれない。イライは息が上がっていた。視界が悪い。ゴーグルを上げた。そして、自分を狙っていたミサゴが離れた理由を知った。雨雲から機影が見る間に近づいてくる。北からだ。機銃弾がイライとミサゴの間を閃く。
「ハスミ、味方だ、味方だ!」
気づいたときには叫んでいた。
機影はやがて灰白色の迷彩とともにあらわになり、それがハチクマであることに気づく時間は、ほとんどかからなかった。苦々しい思いだったが、二機のハチクマは青白い炎を主翼に下げたエンジンポッドから吹き出させて、二機のノスリを追いすがるミサゴに機関砲を撃ちまくった。
「ヒムロ・イチ、イライ大尉?」
「ヨノイ大尉か?」
「無事?」
「見ての通り」
ヨノイは応えず、二機のハチクマは戦闘隊形を維持したまま、まずあっという間にハスミを狙っていた一機を粉々にしてしまった。爆音、炎、そして黒煙。パラシュートは出なかった。撃ったのはヨノイではなく、彼のウィングマンだった。正面からミサゴをバラバラにした。コクピットを狙ったかのような撃ち方だった。はっきり見えた。すれ違い、反転する。もう一機のミサゴは、急激に反転すると、そのまま一気に高度を捨て、逃げた。ヨノイも追わなかった。
「ハリエンジュ・ニからイチ。作戦終了」
リコーダーのような声だった。
「カンナリ、お疲れ」
模擬戦闘のときと同じやりとりを、イライは汗をグラブでぬぐいながら聞いた。苦々しい思いだった。
「ハスミ、生きてるか」
「九死に何とやらだな。生きてるよ。エンジンもまだ」
ハスミのノスリはまだプロペラは健在、盛大に白煙を吹いてはいるが、燃料が漏れている様子はなかった。エンジン本体への直撃だったのだろうが、運がよかった。
「振動がひどい。シリンダーが半分くらい死んでるんじゃないか」
「帰ったら診てもらえ」
「生きた心地がしない」
「ホントを越える。もう陸地だ」
「ハリエンジュ・イチからヒムロ・イチ」
「ヨノイ大尉、なんだ」
「生きててよかった。何よりだよ」
「ありがとう、といえばいいのかな。素直に」
「そうだね」
ハスミはもう一五〇ノットも出せていなかった。それに合わせ、三機が編隊を組み直す。
陸地が見える。海岸線が見える。なじんだ風景だ。雨が強い。そして、失われた左垂直尾翼の先端が、おかしな風切り音を立てていた。
帰ったら。
コーラを飲もう。PXの彼女にはなんと言えばいいだろうか。とりあえず、冷蔵庫を買ってもらえるよう、稟議書でも書くことにしよう。
四機はそれから、黙ったままでソラノ川を越えた。