11
それから一週間、一度も飛ばなかった。
飛行隊のパイロットたちは、次々と新型機に、ハチクマに挑んでいったが、みんな撃墜されて帰ってきた。唯一、イライとは別の飛行隊のパイロットが、リーダーであるヨノイ機を撃墜したという話を聞いたが、同時にヨノイのウィングマンに撃墜され、結局彼らに勝った者は誰もいなかった。彼らはこの基地にいる限り、無敵だった。天敵のいない猛禽だった。
イライは彼らが離陸し、そして二時間ほどで帰ってくるまで、ときには宿舎の窓から、あるいはランウェイエンドの草地から、または報告書を作成する合間の休憩室の窓辺から、眺めていた。ヨノイと口を利いたのは、イライが撃墜される前夜の夕食の席から一度もなく、まして彼のウィングマンと顔を合わせたのは、あのデブリーフィング以来一度もなかった。イライが避けていたというのは間違いなかった。とたんに居心地の悪い基地になった。
居心地が悪くなったのは、同僚のパイロットたちも同じだった。たった二機の新型に一太刀すら浴びせることもできず、次々と撃墜され、ハチクマと同時に進駐してきたⅥ型のノスリにすら喰われる日々だった。
「取り残されていたってことかな」
「何が?」
「俺たちが」
「今に始まったことじゃないでしょ、イライさん」
PXのストーブが日増しにありがたく感じる日々だった。イライは煙草とコーラをレジに並べ、なんとなくひとりごちた。それにレジ係の彼女が答えた。ネームプレートを見た。サトミ・ケイ、そう記されていた。
「私語する余裕があるんだから、君もいい身分だな」
財布を抜いて、コインを彼女の手のひらに転がした。彼女の手がかすかに荒れているのに気づく。
「爆撃機が飛んできたら、イライさんたちが撃ち墜としてくれるでしょ。だから安心していられるの」
声音は邪気のないものだった。けれど、視線に色がなかった。ユサやキリウより、ケイの目はくすんでいた。だから、イライはつい言ってしまった。
「本当に、安心していられるのか」
コインを受け取り、レジスターを操作する指は、いつも通り。ケイはそして、イライに視線を向けてこない。そういえば、いままで一度も彼女と視線を合わせたことがない。
「そのために飛んでいるんでしょ」
やや間があって、ケイが答えた。
「さあ」
紙袋に煙草を二箱、コーラを一缶つっこみ、イライ。
「じゃあ、どうして飛ぶの」
「飛びたいから、ではダメか」
「いい身分じゃない」
「確かにそうだ。いい身分かもしれない。……けど、俺は撃墜された」
イライはレジを離れようとした。ふと見ると、レジスターに指を載せたまま、ケイがこちらを向いてじっとしていた。
「でも、生きてる」
ケイが言う。PXの中はストーブが燃える音しか聞こえない。静かだった。ほかのパイロットも整備員も誰もいなかった。誰もいない時間を見計らってイライはここを訪れる。
「だから屈辱なんだ」
「生きてることが?」
「撃墜されたのに生きていることが、だ」
「撃墜されたの?」
「ほかの連中がさんざん話をしてるんじゃないか? 君の耳にも届いているんだろう?」
「初日に、四対二で負けた話?」
「知ってるんじゃないか」
「で、次の日は六対二で負けて、次の日も四対二で負けて、三〇三のパイロットも四人撃墜されたんでしょ」
三〇三はイライの所属する飛行隊の姉妹スコードロンだ。同じ滑走路と空港施設を使用しているが、あまり交流がなかった。この基地には二つの飛行隊が配備されていて、双方同じⅤ型のノスリを使用している。
「三〇三の話まで知っているのか。結局君らの方が詳しいんだな」
「だから辞められないのよ。うかつに辞めたら、一生つきまとわれるから」
「誰にだ」
「言わなくてもわかるでしょ。いろんな意味で」
窓を閉め切っているPXにいても、離陸あるいは着陸する戦闘機のエンジン音はよく聞こえる。ここから滑走路まで、駆け足でも五分以上かかる。戦闘機なら一〇秒もかからないだろうが、PXから滑走路は見えない。それでも音はよく聞こえる。耳になじんだノスリのレシプロエンジンの咆哮だ。
「二〇三のイライさん」
ケイは「にひゃくさん」と発音する。二〇三飛行隊は依頼の所属する飛行隊。同じく三〇三飛行隊を「さんびゃくさん」と彼女は呼称する。パイロットたちと同じ言い方だった。門前の小僧? ちょっと違う気がする。
「何だ」
「新型に、負けてられないよ」
そうしてケイは決して笑わない目をイライに向けた。ほんのわずかな時間、イライとケイの視線が交差する。けれど、直交しなかった。イライが目をそらしたからだ。
「負けたんだ。もう」
イライは自分よりはるかに年下の彼女へ、ただ愚痴をこぼしていることに愕然とする。
「負けたんだ」
愕然としながら、もう一度口にする。
「イライさん」
「何だ」
「イライさん、生きてるじゃない。生きてるってことは、負けてないってことじゃないのかな」
もうケイはイライを向いておらず、手元の帳簿になにやら書きつけていた。彼女は左手でペンを持っていた。左利きだったのか、君は。知らなかった。
「生きてる。確かに。……今日のコーラは、ちょっとぬるいな」
「冷蔵庫の調子が、今日は悪いの。飛行機にはお金をかけるのに、冷蔵庫やレジの機械には、お金をかけてくれないのね」
「そういうもんだ」
「簡単に片づけてくれるのね」
「また来る。今度は、コーラをもっと冷やしておいてくれ」
「外に出しておくね。さもなきゃね、イライさん、あなたが新しい冷蔵庫を買ってよね。パイロットなんだから、それくらいのお金、持ってるんでしょ」
「外に出しておいてくれ」
イライがPXを出るまで、ケイはもうこちらを向こうとしなかった。手元の帳簿にずっとペンを走らせ、まったくイライを向こうとはしなかった。