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 その者は、翼を持つ者である。

 その者は、畏れを知る者である。

 故に、その者は、勇気を持つ者である。


 レシプロエンジンは調整にひどく気を使う。油圧、油音、排気音、彼が駆る機体は排気タービンを利用した過給機を搭載していたから、なおのこと低圧縮かつ高過給であり、高度一万メートルを想定した微調整は、パイロットである彼の領域ではなかった。

 彼が駆る翼は、道端に散った木の実をついばむ小鳥ではなく、それらを狙う猛禽だった。彼は戦闘機乗りだ。初めて雲の峰を駆け上がってから、どれくらいの時間が経過しただろう。一人、蒼い世界に身を浸し、振り返ってもそこにはプロペラと垂直尾翼の向こうに広がる空と雲があるだけで、もはや鳥たちですら追いつくことのできない領域は、もはや人間の世界でもなかった。彼を地上に叩きつけようと狙うものは、彼と同じ戦闘機乗りと戦闘機だけだ。

 エンジンに火を入れる。スロットルを開けてみる。過給圧は正常、オイルが温まってくると排気音が柔らかくシフトする。ゴーグルを通した滑走路は物憂げな青に染まり、グラブ越しに感じる操縦桿の手ごたえはことのほか心地よい。赤ん坊が空に憧れ、そしてその思いを果たそうと丘陵を風とともに駆け回れるようになる時間よりもはるかに長く、彼は戦闘機とともに空にいた。愛機は都度変わった。機種が変わるたび、性能が上がった。エンジンの出力が上がるたび、操縦性はこなれてくる。余裕が生まれるからだ。その分、あらゆる意味で限界も高くなる。最大速度であり、上昇限度であり、上昇速度であり、旋回速度であり、航続距離であり……あらゆる限界が彼の身体を痛めつけていった。だが、彼は幼いころに抱いた憧憬をいまだ翼とともに持ち続けていた。曳光弾がキャノピーを掠め、ときに主翼をえぐり、方向舵を弾き飛ばされても、彼は戦闘機とともに空にあった。

 何人もの仲間が蒼い世界に飲まれていった。蒼い世界に彼らが飲まれるとき、決まって彼らの戦闘機は紅く燃え上がり、黒煙を曳いて雲海に沈んでいくのだ。次は自分の番だと感じたことはなかったが、そうなる可能性は一度として否定したことはない。そして、失った仲間より多くの敵機を、彼は撃墜してきた。顔も知らぬ、同じ空に生きるパイロットたちに、彼は同じように曳光弾を叩きこみ、蒼い世界に生きつつ、紅い炎を吐き出させてきた。そう、彼は戦闘機乗りなのだ。機首に穿たれた対空機関砲は二十ミリ。破壊力は大きいが、銃身の長さを十分に取れず、初速が低い分敵機に接近しなくては命中しない。弾の首も太く、かつて彼が駆っていた戦闘機に搭載された十二、七ミリ機銃と比べても装弾数は少ない。一発の重さが違うのだ。彼は空にあって、いまだ一度も機銃を撃ちつくしたことがなかった。

 滑走路の上を、薄い雲がたなびいていた。きっと上空は風が強いだろう。ラダーペダルに載せた両足がかすかにうずく。もう若くはない。今彼が駆る戦闘機も、もう若いとはいえない機体になりつつあった。彼は知っていた。瞬発力には優れるが高速性に弱みを持つレシプロエンジンはやがて廃れ、新開発のガスタービンエンジンが主流になるであろうことを。

 黎明期にあるガスタービンエンジン……ターボジェット・エンジンは、同規模のレシプロエンジンに比べて推力には勝るが、瞬発力がまるでなく、加速力に劣っていると聞いた。まだ彼は空でジェット戦闘機に遭遇したことはなかったが、遠方の友軍機が、敵のジェット機に撃墜されたという噂は耳にしていた。速度ではるかに勝るジェット機は、高空から獲物を狙う、まさに猛禽のように、友軍の戦闘機を屠ったという。空では、最終的に速度と高度を温存できた方の勝ち、あるいは速度と高度を相手より早く稼ぎ出したほうの勝ちだ。加速力には勝っても、最終的に到達できる高度と速度に限界のあるレシプロエンジン機がジェット機を叩き墜とそうとするのなら、相手から高度と速度を奪い取るしかない。奪い取れなければ、逃げることもできず、ただ撃墜されるだけなのだ。それは考えればわかる。

 彼はスロットルを開ける。敏感にエンジンは反応し、甲高い排気タービンの音が耳を打つ。プロペラ・ピッチを変え、ブレーキを離す。軽い機体は滑走路を駆け始める。いちばん気持ちが高揚する瞬間だ。いくつになっても、彼はこの瞬間が好きだった。蒼い世界の扉を開ける瞬間なのだ。

 離陸する。

 車輪が滑走路を離れ、機体は加速を続ける。上昇ピッチを低く押さえて速度を稼ぎ、そして引き起こす。エンジンは息継ぎもせず適正回転を維持している。バックミラーを一瞥する。二枚並んだ垂直尾翼の間でプロペラが勢いよく回っている。ブレードの先端からヴェイパーを曳いていた。湿度が上がっている。荒れるかもしれない。空の流れが変わるかもしれない。今日は迎撃でも対地攻撃でもエスコートでもなく、偵察任務だった。いわゆる威力偵察という奴だ。満載の燃料に、左右の主翼にひとつずつ、増槽タンクを下げている。普段より身体が重い気がした。ロールが鈍い。乗り込めば、戦闘機はすでに彼の身体の一部だった。

 僚機がやや遅れてついてきていた。僚機操縦者は見知った男だ。ところかまわず煙草をふかし、整備員からはひどく嫌われていたが、空の上では頼りになった。彼らが駆る戦闘機、GC-8は二〇ミリ対空機関砲を収納する関係で機首が長く、前部下方視界が極端に悪い。またコクピット前部にカナード翼が配置されていた。要するに前下方から攻め上がってくる敵機に対しては極端に分が悪い。その不足する視界をカバーしてくれるのが僚機であり、今日ともに飛ぶ彼もまた、編隊の周囲を警戒する目をしっかりと持っていた。電探情報も大事だが、最後に頼れるのは、パイロットの目だ。地上での性格などどうでもよかった。空で頼りになれば、そして地上での振るまいが度を越えない程度であれば、気にする必要などなかった。

「イライ、少し雲が多くなってきた」

 僚機操縦者が話しかけてきた。無線封鎖はしていない。偵察任務とはいえ気楽なものだ。

「タグサリ、調子は」

「タービンの調子がね。過給圧が今ひとつ上がらない」

「ホガリを大事にしないからだ」

「俺は奴は嫌いだ」

「そんなことは関係ないさ」

「イライ、あんたはどうなんだ」

「頼りになるさ」

 それっきり、僚機操縦者、タグサリは黙り込んでしまった。イライはバックミラーを一別した。主翼にそびえる垂直尾翼とプロペラのあいだに、タグサリのGC-8が見えた。タービンの調子が悪いと言いながら、編隊長から適度な距離をとって離れない。バックミラーをのぞいたのが見えたのか、タグサリは主翼をわずかに振った。戦闘空域でなら、味方を意味する合図だった。なんとなく深い意味合いを探ってみたが、イライにはわからなかった。

 雲に入る。上昇はまだ続く。水平飛行で速度を稼いで上昇、そしてまた水平飛行。二一〇〇馬力以上の出力を誇っているEJ20型エンジンも、さすがに寄る年並みにはかなわない。が、この機体を越える戦闘機を、まだ友軍機は持っていない。一応の最新鋭戦闘機がこれだ。愛称は「ノスリ」。幕僚監部が名づけた公式名なのだが、飛行隊の誰も、その名では呼んでいなかった。

「イライ」

 雲海を見下ろす高度になってから、タグサリが聞いてきた。

「ハーモニゼーションは」

「いつの話をしている」

「弾道が安定しないとあんたぼやいていた」

「どこで聞いた」

「PXだ」

「気のせいだ」

「試射しなくていいのか」

「弾がもったいない。俺はホガリを信用している」

「奴がハーモニゼーションをやっているわけじゃないだろう」

「いい加減にしておけ、中尉」

「……了解、大尉」

 雲海が切れる。眼下は海だ。このまま海を越え、海岸線が見えたら高度を下げる。そして十分も飛んだ場所になだらかな丘陵地帯が見えてくるはずだ。そこを一周して帰ってくる。それが今日の任務だ。写真を撮るわけでもない。それは偵察機の仕事で、イライが乗るのは戦闘機だった。要するに、戦闘機が出向かえてくる可能性を示唆しているのだ。イライはそう理解した。

 日差しが強い。酸素マスクをつける高度でありながら、エンジンはいまだ快調だ。燃料消費もいつもどおり。空中給油機を呼ぶ必要もないだろう。タグサリはイライの機体からややはなれた低空を飛ぶ。波頭が白いのがここからも見える。海は荒れている。落ちれば一分と持つまい。寒流が流れ込んでいるこのあたりの海は、夏でも泳ぐことができないくらいに冷たい。そういえば、最後に泳いだのはいつだったろうか。イライは少年時代を思いだす。近所の川原で水遊びをし、日暮らしが鳴くころに畦道を歩いたあの夕刻の時間を。自分を待つ人間がまだいた懐かしい時間を。自分の住む町を、棚田が広がる里山の上空を三機編隊で軽やかに飛び去っていた戦闘機を見上げた少年の日を。懐かしい。

「イライ」

 呼ばれて我に帰る。

「なんだ」

「聞こえなかったか」

「なんだ」

「電探情報だ。機影を見たそうだ」

「どこに」

「方位二七〇」

「いくつだ」

「わからない」

「探せ」

「高度を下げる」

「了解だ。こちらはこの高度を維持する」

 無線機のスイッチを二度鳴らし、タグサリ機がハーフロールを打ち、背面のままで高度を下げて行く。パワーダイブだ。タグサリ機の翼端から真っ白いヴェイパートレイルが曳いた。イライは操縦桿の安全装置を解除する。機銃はいつでも撃てる。親指の腹で空気を感ずる。殺気はない。が、情報を信じよう。敵が来る。

 高度は維持、速度を上げる。エンジンにまだ余裕はある。増槽タンクはまだ切り離さない。任務は継続中だ。海岸線が見えてきた。オン・マップ。すでに味方の領域ではない。中立地域への偵察は違法でもなんでもなかったが、相手がそう思ってくれるとは限らない。人差し指はまだ操縦桿から浮かせたままで、キャノピーの向こうに目を凝らす。まずは遠くの雲に焦点を合わせ、周囲を警戒する。自分の目なら、十マイル以上離れて飛んでいる戦闘機を見つけることができる。先に見つけたほうがはるかに有利になる。ボードゲームと同じだ。先手を打った側がとりあえず優位に立てる。

「イライ」

 タグサリの声が耳に届く。旋回中なのか、息が荒い。

「見えるか」

「まだ見えない。そっちはどうだ」

「波が荒い。漁船が何隻かいるだけだ」

「俺が見えるか」

「……見えてるよ」

「ついて来い」

「わかってる」

 海岸線を越える。イライは操縦桿をそっと、しかしすばやく左に倒す。エルロンが敏感に反応し、地平線が垂直に立つ。ラダーを入れ、そのまま旋回。高度が落ちる。スロットルはそのままだ。

「会敵したら」

 タグサリの声。

「墜とすだけだ」

「了解だ」

 高度が下がる。速度は上がる。整備指示書や諸元表に記された限界速度まではまだまだ余裕がある。機体年齢以上にこの戦闘機はまだ若い。

(俺の身体以上に)

 のしかかってくる重力加速度にひるんだら負けだ。すべてにおいて負けだ。イライはそれを意識しないようにする。考えただけでも負けだ。

 海岸沿いの道路は、地図が正しければ、そして自分の記憶が確かならば国道のはずだ。走る車の姿は見えなかった。さらに高度を下げる。まっ平らに見えていた地表に起伏がよみがえる。民家の屋根瓦が見えるくらいに高度が下がる。速度は二五〇ノット。さすがに速い。タービンの音が背後から聞こえる。タグサリはさらに低空を飛ぶ。今はイライが上方監視、タグサリが下方監視だ。このあたりに対空機関砲が設置されているという情報はない。が、こちらの情報がすべてのはずがない。人間は、味方は神様ではない。どこに何があるのかわからない。もちろん敵も神様ではない。だからこそ、雑木林の影や丘の向こうが気になる。海から向かってくる戦闘機を撃墜するのに、どこへ対空機関砲を配置すればいいか。こちら側が嫌だと思う場所こそが怪しい。イライはそうした場所から逃げず、飛ぶ。タグサリもそれをわかっているから、ついてくる。

「タグサリ」

 呼びかけにタグサリは無線機のスイッチで応じる。新人パイロットならば、帰還してまず一発お見舞いするところだが、タグサリはそういう人間だ。イライはわかっているからいちいちそんなことに腹を立てはしなかった。

「何か見えるか」

「何を」

「何かだ」

「じいさんが柿の実を軒先でかじってるよ」

「電線に気をつけろよ」

「冗談だろう」

 イライは操縦桿を右に倒す。方位を変換、牧場のサイロが右の主翼の先を掠めるようにすっ飛んで行くが、高度はまだまだ余裕があった。静かだった。丘陵地帯は小春日和の陽射しに照らされ、干草ロールがごろごろと転がっている。敵がいるなら、こちらのエンジン音を聞きつけて、いい加減ぶっ放してくるころだ。情報は正しいのだ。このあたりに対空機関砲の陣地はない。

 先に見つけたのはイライではなくタグサリだった。

「イライ、方位〇四〇、上空、見えるか!」

 応えるより早く示された方角を視線の端で見る。

 蒼空にかすかな黒いシミが見えた。薄めた墨汁を、ほんの一滴だけ垂らしたようなあとが二つ。

「見える。見えてる」

「電探で言ってた奴か」

「知るか」

「どうする、編隊長」

「高度、方位とも維持。任務続行だ」

「墜とさなくていいのか」

「待て」

 イライもタグサリも水平飛行。地形を追随するように低空を行く。タグサリはイライ機の右後方同レベルに占位した。彼に対しては余分な命令はいらなかった。

 恐ろしいほどに静かだった。EJ20型エンジンは快調で、高高度でも低空でも俊敏な反応を見せてくれる。まだ最大速力まで達しない。しかしあの黒いシミが電探情報のとおりだとするなら、こちらの高度は低すぎる。位置エネルギーで負けている。

 バックミラーを一瞥する。タグサリと目があった。同じことを考えたらしい。

「上がるぞ」

「了解」

 スロットルを叩きこむ。プロペラピッチを最大に。はじかれたように、とは行かないが、イライ機は加速する。タグサリ機も加速する。息切れするなよ、ポンコツ。口の中でイライはつぶやく。

「イライ、あれは」

 黒いシミはシミ以上の大きさになった。あちらは進路も高度も見つけたときからかわらない。こちらに気づいていないのか、気づいていない振りをしているのか。

「噂を確かめるまでだ」

 黒いシミに見えるのは、排気煙だ。間違いない。あれは戦闘機だ。操縦桿を腹にひきつける。エネルギーを過度に失わない程度に引き起こし、機体はいい角度で上昇を開始する。昇降計が回りだす。噂の敵の新型は、上昇時に昇降計の針が振りきれると聞くが、そんな機体が存在するものか。確かめてやる。そして、叩き墜としてやる。いい天気じゃないか。ゆっくりこの草原で眠ってくれ。

 一気に上昇した二機は、ほぼあの黒いシミと同レベルに達した。向こうはこちらに気づいてるのか。

「イライ、どうだ」

「任務は続行だ」

「きつい任務になりそうだ」

「お前が弱音を吐くとはな。帰ったらホガリに話しておこう」

「ふざけるなよ、大尉」

「上官侮辱罪と抗命罪で上に報告してやるから楽しみにしていろ」

「帰れたらな」

「必ず帰るさ。いつもどおりだ」

 イライは猛然とダッシュする。あの黒いシミめがけて。黒いシミが米粒くらいまで見えてくる。間違いない、プロペラがない。新型だ。ここでお目にかかれるとは。イライはそっと人差し指を引き金にかける。そう、銃でいうならこれは引き金なのだ。頼むぞ、ホガリ。三日前のハーモニゼーションではまるで弾が集束せず、不安だった。直してくれたんだろうな。

 イライとタグサリは相手よりわずかながら高度に分があるようだ。上昇したのが功を奏したか。それにしても、この距離で気づかないか? 試すまでだ。合図もなく、イライは操縦桿を倒し、いきなり相手に襲い掛かった。増槽を捨てる。敵からみれば背後よりやや左後方上空。首を捻るまでもないだろう。殺してやる。引き金を絞る。機首の二〇ミリが火を吹いた。曳光弾が草原の緑に映えるじゃないか。そのまま死ね。イライの腹が冷たくなる。いつも感じる衝動だ。曳光弾は二筋、敵機の左主翼付け根に吸い込まれていく。いい加減見えているはずだ。さすがに少し遠かったか。しかし当たるはずだ。

 敵機の左フラップに何発かが命中したのをイライは確認した。遠い。が、当たった。年季の差だ。ほくそ笑む。そのまま燃料を吹いてくれれば、撃墜だ。速度はそのまま、さらに敵機が近くなる。初弾を発砲してから五秒とたっていない。被弾した敵機がようやく、そう、イライからしてみればようやく右にハーフロールを打った。フェイントかと身構えたが、奴は素直に右へ旋回した。煙は出ていなかった。そして、機体の形状がくっきりと見えた。プロペラがない。やや後退ぎみの主翼に、一枚の垂直尾翼。コクピットを包むキャノピーは一体成型なのか継ぎ目がない。排気口と思しきノズルが機体の尻に穿たれていて、水平尾翼が排気口の横に一組。これで機首にプロペラがあればオーソドックスなトラクタータイプの形状だが、プロペラがあるべき場所には機銃がついているようだ。片側に三つ、六門か。口径はわからない。これまでの通例なら敵の機銃は十二、七ミリか。主翼に機銃がついているかどうかは、イライも回避行動をとったため見えなかった。

「タグサリ、来るぞ」

 相手は組んでいた編隊をブレイク、被弾した機は一気に高度を下げた。速度を稼ぐ気か。しかしイライ側も加速していた。速度差はないに等しい。こちらと同じ速度なら、ハンディはない。イライは喰らいつく。止めをさしてやる。

「ウィングマンに気をつけておけ」

「俺がやる」

「離れるな。二対一ならこちらが有利だ」

 イライ側は編隊間をつめない。そのまま進む。ふと見あげた雲が綿アメのようだ。こちら側は風が弱いのか。基地の空に流れていた雲と表情が違う。

 被弾した敵機は加速中のようだが、動きは鈍い。真後ろに占位したイライ機のキャノピーに雫が散る。燃料が漏れている。やれる。あと数発で奴は火を吹く。ジェットエンジンがどれだけのものか知らないが、ここで葬ってやる。イライ機の機銃が火を吹く。短く撃つ。敵機までの距離、三〇〇メートルもない。当たる。確信する。そして、次の瞬間、草原の緑に紅蓮の炎が散る。相手機のエンジンが火災を起こしたらしい。今撃った機銃が当たったのか、それとも初弾がはなから致命傷を与えていたのかはわからない。だが、理由はどうでもいい。撃墜だ。火を吹いた敵機はロールを繰り返しながら劇的に高度を落としていく。パラシュートは出なかった。そのまま牧草地に散る。カナードが邪魔して最期を見届けられなかったが、そんな暇はなかった。当たれば、当たって火を吹けばそれで終わりだ。相手の最期を看取る必要などなかった。

「タグサリ」

「来てる。速いぞ、レベル」

「お前が行け。援護する」

 タグサリ機が前に出る。武装は機銃だけ、増槽を切り離したこちら側は身軽だ。タグサリ機は抵抗を最小限にするため、必要以上のロールもピッチも打たない。そして、相手は急上昇することもせず、急下降もせず、急旋回をすることもなく、増速している。それでもやや降下気味なのか、追うタグサリ機のカナードが上がっている。

「速い!」

 タグサリが叫んだ。

 イライはタグサリ機の右後方にいたが、タグサリが叫ぶより早く、息を呑んでいた。敵機が突如急上昇を始めたのだ。ありえない。エネルギーを一気に失うはずだ。が、奴はやった。

「なんだあれは」

 タグサリが短く叫んだ。急上昇した相手に追随せず、わずかに機首を上げた状態だ。

「イライ!」

 相手機の排気ノズルから激しく炎が吹き出していた。タグサリは一発も撃っていない。エンジン火災に似ていたが、違う。相手機のノズルからは青とオレンジを混ぜたような炎が、激しく吹きだしていた。

「まずい、ついていくな、速度を失う」

「わかってる。しかし、ありゃなんだ」

「考えるな。ダメだ、逃げるぞ」

「大尉」

 タグサリ機はハーフロール、そのまま背面に入れて反転、スプリットS機動に入る。

「速度を失うな」

「……俺を、……誰だと、……思ってる、大尉……。くそ、重い」

 速度が出ている状態でのこの機体の悪癖が出ている。タグサリの機体は暴れていた。ある速度を越えた段階で、動翼がひどく重くなるのだ。分けてもエレベーターが極度に重くなる。従順だった戦闘機が、いきなり駄々っ子になってしまう。増槽タンクを捨てたGC-8はロールには敏感になっている。が、それは急激過ぎる変化で、慣れないパイロットはモーメントの変化に戸惑い、その間隙を突かれて撃墜されることもある。タグサリはGC-8に乗ってから確か二年と言っていた。癖は知り尽くしているはずだが、一度高速域で旋回操作に入れた機体の反応は、ロールには敏感に、ピッチ方向に鈍感になる。タグサリはその状態に陥っていた。まずい、イライはゴーグルの下で目をしかめた。タグサリ機を追う。一瞬見上げた空に、敵機のシルエットが見えた。敵機はループの頂点から急降下に移行していた。逆落としだ、来る。

「タグサリ、ブレイク、ブレイク。右だ、逃げろ」

 無線スイッチを操作する余裕もないのか、耳にはタグサリの激しい息遣いが届く。敵機が狙っているのは間違いない、タグサリだ。イライは急旋回、速度を失うのも承知でタグサリ機の援護に入る。緩降下で高度を速度に変換する。

「イライ!」

 タグサリが叫んだ。同時に曳光弾の軌跡が空から降ってくる。冬の初めの霰か、さもなければ舞い落ちる打ち上げ花火だ。次に見えたのは、紅蓮の炎だった。イライは背筋を一適、汗が流れたのを感じた。やられた。

「タグサリ!」

 応答がない。イライは機体を傾ける。黒煙、そして炎。タグサリ機の左主翼の半分以上が失われていた。左垂直尾翼もない。敵機の砲弾はタグサリ機のちょうど左肩あたりから入り、右脇腹へ抜けた格好だった。派手に火を吹いているがプロペラは回っている。エンジンはまだ生きている。しかし、あれではエンジン本体への被弾は間違いなかった。

「大尉、イライ、ダメだ、機体がいうことを聞かない」

 雑音がひどい。無線装置かアンテナも損傷したようだ。が、タグサリもまだ生きている。

「あきらめろ、まだ来る。ベイルアウトだ、タグサリ」

「脱出する、ダメだ!」

 敵機がタグサリ機の黒煙を撒き散らすように通過する。速い。猛烈な速度だ。急旋回をしないまま、飛び去る。敵の戦闘機は塗装を省いているのか、シルバーの地肌に青空を映していた。それがイライの目に映えた。イライは奴の航跡を追うようにして機銃を撃つ。短く、一度、二度。曳光弾が敵機を追うが、当たらない。もちろん、イライも当たると思って撃ったわけではなかった。イライはメーデーを打電した。

「タグサリ」

 見ると、タグサリは緊急脱出ハンドルを引いたようだった。キャノピーレールから白煙が上がった。が、プロペラが飛ばない。機体後部にプロペラが配置されているGC-8は、機体を捨てて脱出しても、回転するプロペラで乗員が殺される。緊急脱出ハンドルを引くとまずキャノピーロックが爆破解除され、次に、プロペラが爆散される。そして火薬の仕込まれた座席が機体を離れる。火薬の量は多くないが、手作業でキャノピーを開けて脱出するよりは、乗員の生存率は高くなる。ほんの数メートルでも座席ごと機体から離れられればだ。イライはタグサリ機のキャノピーが飛ぶのまでは見えた。が、座席が飛んだかどうかはわからなかった。敵機が旋回を始め、イライ機に向かってきたからだ。

(クソ)

 胸の中で毒づく。口に出すほどの余裕はなかった。敵機は速度を保ったままゆるやかに旋回を続けていたからだ。急旋回をしないというのも情報どおりだな、そんなことも思った。敵機の旋回が終わる前にイライはスロットルを全開、エンジンが焼け付けと言わんばかりに速力を上げた。過給圧計の針が最大値のあたりで震えている。オーバーシュートを考慮しても余裕を持たせた過給圧だが、エンジンの圧縮比はそのために低い。整備員の精緻なメンテナンスを信じ、最大出力を維持する。対気速度は理論上の最高速まで届かない。最新鋭の名が鳴く。十八気筒の大出力エンジンは最大過給圧で悲鳴を上げる。最高速を出すには空気が濃すぎる。高度が低いのだ。じりじりとする胸中は焦りか。墜とされるのが恐いわけではない。きっと墜とされても屈辱を感じるだけだ。それが耐えられない。地平線が水平線にワイプする。海岸線が見えてくる。海に出てしまえばいい。僚機被弾、敵機一機撃墜の情報はすでに打電した。メーデーを受信した基地から友軍機が上がってくるはずだ。海に出てしまえば、そう、海まで行けば奴らも追ってはこないだろう。全速力だ。がんばれ、ポンコツの最新鋭機。

 逃げる?

 そう、逃げるのさ。生き残ったほうの勝ちだ。相手を低空に引きずり下ろし、ドッグファイトに持ち込めば撃墜できるかもしれないが、最初の一機を墜とせたのは天佑か、あるいは相手が間抜けだったからだ。イライは謙虚だった。だから生き残ってこられたんだ。奇襲は一度しか通用しない。あの敵機の急上昇を見たあとで、イライの戦意は喪失していた。同じことをこの戦闘機でやれば上昇途中で失速する。自転車でモーターサイクルに勝負を挑むか? 挑まないだろう。

 捨てるだけの高度は持っていた。主翼が抵抗にならない程度に機首を下げ、加速する。全身が座席からすっと浮くような、主翼の負荷が最低レベルまで落ちた姿勢を意識する。瞬発力ではこちらが上だ。そう信じる。増槽を捨てた機体は抵抗を減らしており、操縦桿は重い。対気速度計を見なくても、機体がほぼ出せる限りの最高速に到達したことを知る。この高度ではこの速度が限界だ。高度を捨てたのは失敗だったかもしれないと悔やんでみたが、もう下手な機動は自殺行為だった。往路に見たサイロが猛烈な速度で過ぎていく。国道を越える。振り向くな。バックミラーに敵機は見えなかった。グラブの中が汗でいっぱいだ。全身が緊張している。恐怖はなかった。屈辱を感じるだけだ。

 海に出た。眼下に波頭と漁船。初めて振り向いた。敵の姿はなかった。ただ、タグサリが墜ちた黒煙が、ずっと遠くに見えていた。

 涙など出るはずもない。


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