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旋 律

作者: 蒼樹 章久

スポットライトに映し出されて、ひとつのシルエットがくっきりとその姿を現した

小さな緊張と、それを超える期待感が、ステージから観客全体を包み込んでいった

静まり返った会場のなかで彼女は、期待と興奮で観客すべての注目を集めていた

私は、小さなライブハウスの一番後ろで、彼女の止まった時間を凝視していた

彼女の遠くを見つめる瞳のなかには、今なにが映っているのだろう

あの小さな脳裡(あたま)のなかで、今なにを考えているのだろう

少なくても、あの瞳のさきに私はもう映っていないだろう

脳裡の片隅にさえ、私の居場所は存在していないに違いない

ヒロコ・・・

そういう名で、彼女はスターへの道を上りつつある

彼女が軽く頭を下げた

やがて、静かにピアノがバラードを奏で始める

ヒロコは、細い目で遠くを見つめながら、左手のマイクを口元に運んでいった

いい顔をしている・・・こんな表情は初めてだ・・・

私は眩しそうに目を細めて、ヒロコの姿から視線を外した

もう手が届かない、いや、最初から手が届いていたわけではなかったのだ

彼女が、彼女の持ち前の優しさで、私に手を差し延べていただけなのだ


永遠(とわ)に手の届かない夢見ることがある・・・》


透きとおるような声が、ゆっくりと透明なメロディを奏で始めた

心の奥まで浸透してゆくような旋律だった

からだじゅうを駆け巡るような衝撃が、自然に無理なく染み込んできては溶けていく

救われたような安堵感と、あふれだす希望への期待感が、あの小さなからだから発せられていた

母親の胎内にいるような心地よさと、癒されているような安らぎが訪れる

幸せすぎて涙が出てくるような感覚になった

それだけ彼女の声量と音質に魅力があったのだ

売れる・・・絶対に売れるだろう

ヒロコは確実に、着実にスターへの階段を昇りはじめた

それは、まぎれもなく私との距離を広げてゆくことを意味していた

本名 桜井紘子・・・現在24歳・・・私から離れて、夢を追い続けてちょうど1年が経過していた

そう、1年前の今日・・・彼女は私の前から静かに去っていった



「あたし歌手になるわ」

唐突に切り出して、ちょっとはにかんだ表情と、申し訳なさそうに詫びるような表情がないまぜになった複雑な顔を私に向けていた

予想していなかったわけではなかった

歌が好きで、感動することが日課のような女の子だった

他人(ひと)の痛みも切なさもわかるような女の子だった

夢を追い続けることに、少しも苦痛を感じない女の子だった

なんでもかんでもポジティヴに考えてしまうような、そんな女の子だった

ピュアで、簡単に人を信じてしまうような子だった

だからこそ私が守ってやりたいと思ったのかもしれなかった

「決心したのか?」

ぶっきらぼうな訊きかただったかもしれない

彼女は俯いて、「ゴメン・・・」と一言だけつぶやいた

私は乾いた笑顔を作って、「謝ることないさ、最初からの約束なんだから」と消えそうな声で言った

約束・・・? 

暗黙のうちに交わされていた約束・・・今から思えば、それは約束だったのかもしれない

「ゴメン・・なさい」

今度ははっきりと聞こえる声だった

「もういいって。それよりも後悔するなよ」

「・・・ううん、きっと後悔すると思う」

「・・・」

「だって、晃司(こうじ)以上の男性なんて・・・いそうにないもん」

だったら何故・・・喉もとまで出掛かった叫びを思いっきり飲み込んで、かわりに引き()った笑顔で、紘子を正面から見つめた

「そうか、紘子に後悔させられるだけの男に、俺も成長したってわけだ」

精一杯の強がり、精一杯の励まし、そして精一杯の反抗だった

言えば言うほど紘子は小さなからだをますます小さくしていった

ほんとうは、ほんとうは私に紘子を責める資格などなかったのだ

21歳の紘子と、33歳の私・・・一回りも離れているのに、私は27歳と偽って紘子とつきあい始めた

妻に死なれた淋しさを、紘子に重ね合わせていたに違いない

ほんとうは紘子でなくてもよかったのかもしれなかった

たまたま紘子の歌声が、たまたま私の心をゆさぶったのだ



2年前のあの日、紘子は私の傍で歌っていた

私はそのメロディを聴いて、体中に電流が走った想いがして、彼女に思わず声をかけていた、年甲斐もなく

紘子は群馬の片田舎から、歌手になりたくて東京に出てきたばかりだったらしい

無謀といえば無謀な行動だったし、勇気と度胸があると言えば聞こえはよかった

だが、東京はそう甘くはなかった

性質(たち)の悪い男につけ入られて、もう少しで純粋な心とからだを汚されるところだった

隙を見て逃げ出した彼女は、あっという間に無一文の宿無しに変身していた

渋谷の交差点、空ろな目で信号を待つ私の耳に、一度だけ聴いたことがある妻の歌声を聴いた気がして振り返った

そして、そこに立っていたのが紘子だったのだ

彼女が渋谷の交差点で、なぜ小声で歌っていたのかはわからない

もしかしたら、世間に、東京に、自分を汚そうとした男たちに、哀れみと蔑みを重ね合わせて歌っていたのかもしれない

夢中で声をかけた

27歳と言って食事に誘った

屈託のない笑顔でついてきたことの不思議さも考えず、その前に彼女が味わった屈辱など知らずに、私は彼女に話しまくった

彼女は、心からおかしそうにコロコロ笑った

そして私も、忘れかけていた笑顔を、普通に出せたような気がした

泊まるところも、お金もないことを知った私は、彼女を自分のマンションに誘った

誘い込んだ、と言った方が正しいかもしれない

彼女は純粋に喜んでいた

無邪気についてきた

汚れた男の欲望が見え隠れしているのも知らずに・・・

マンションに招き入れたあと、いきなり私はリビングのソファに彼女を押し倒した

抵抗しなかった

怯える風でもなく、だからと言って決してそれを望んでいるわけではないことは明白だったが、もはや止まらなかった

だが・・・

「奥さん、亡くなっちゃったのね」

消えそうな声で、同情や哀れみでもなく、紘子はポツリとそう言って、私の頭を抱えて自分の胸の中へ導いた

リビングの端っこにある小さな仏壇の、紘子にそっくりな、23歳のときの妻の写真を彼女は見ていた

私は動きを止めて紘子を見つめた

紘子は、包み込むような目で頷いて見せた

そして妻の臨終以来流していない3年分の涙を、私は年甲斐も泣く彼女の胸の中に溢れさせていた

紘子は黙ったまま、ずっと私の背中をそっと撫で続けていた

私は、その日以来今日までずっと彼女に触れることはしなかった

意識的にではない

紘子のピュアな心は、私には眩しすぎたのだ



その日から紘子の居候生活が始まった

昼間は音楽学校に通い、夜は24時間営業のファミリーレストランで午前零時までアルバイトをしていた

「紘子の学校の授業料くらい、オレが出せるぞ」

「ううん、いいの」

紘子ははっきりと首を振って笑った

「そんなに甘えるわけにはいかないわ。これはあたしの夢なんだから」

「わかってる。でも、遅くまで働いてるとレッスンに響くじゃないか」

「それも夢を実現するための試練だから・・・それに、案外楽しいのよ、ファミレスのバイト」

私は曖昧に頷いて微笑んだ

紘子が心配だった

東京の真ん中で、ファミレスのような社交場で、しかも深夜までバイトすることが、危険極まりないことは言うまでもなかった

新しい出会いのなかで、いつか自分は見捨てられる・・・そんな恐怖が自分を悩ませ続けた

だが、私の不安をよそに、紘子はオーデションというオーデションを受けて、どんどん音楽にのめりこんでいった

アルバイト先では、何人かに声を掛けられたりもしたようだが、決して迷うことなく、夢に向かって突き進んでいった

そして1年があっという間に過ぎた



「あたし歌手になるわ」

オーデションの合格通知が右手に握られていた

「音楽事務所の寮に入らなければいけないみたいなの。あたし、来週ここを出て行く・・・」

「そうか・・・」

押し出すように声を発してから、思い直したように声を張り上げて、

「よかったじゃないか! 夢への第一歩だよ、やったじゃないか」

「う、うん・・・」

「もっと喜べよ。そのつもりで頑張ってきたんだろう。これからが大変だけど、でも、1年間の、いや、今までの努力が実ったんじゃないか」

「そうだけど・・・」

ほらほら、と言って私は紘子の背中を叩いて微笑んだ

うっすらと涙を浮かべた紘子が、にっこりと笑った

「ありがとう、晃司。あたしは、晃司を・・・」



大きな拍手と喝采が耳に響いて、私は我に返ってステージを見た

ステージ上のヒロコが深々と頭を下げていた

顔を上げたヒロコはとても輝いていた

眩しくて見つめることができないくらい輝いていた

世界が、生きる世界が違っていた

これでいい、これが正常だったのだ

私は、ヒロコの白いロングドレスを見ながら、小さく頷いていた

もう手の届かないところへいってしまった寂しさよりも、夢を実現させたヒロコのひたむきな勇気と意志の強さに、教えられたような想いがしていた


「続いての曲は、私の大切な人を想いながら作った曲です。その人は、私の夢にずっと協力してくれた人でした

でも・・・私はその人を愛していました。いえ、愛し始めたと言った方が正確かもしれません。最初、その人の好意に甘えて、うまく利用しようと考えていました。でも、その人の誠実さや私を守ってくれている気持ちに、段々心が動かされて、気づいたら愛していたんです。歌手になるなんて、どうでもよくなったときもあります。その人のお嫁さんになることをひたすら夢見た日もありました。でも、彼は私の愛を受け入れなかったんです。

私を愛していないとか、そういうんじゃなくて、私の夢を実現するために必死だったんだと思います。だからこそ、こうしてここに立っていられるのだと思っています。

きっと、もうその人は私を忘れてどこかで幸せを掴んでいるでしょうけど、私はずっと彼を愛し続けると思います。

どこかで私の曲を聴いてくれていたら嬉しいです

ありがとう・・・聴いてください。『輝いていた日々の旋律』です」


《黄昏のなかであなたをみつけた

  あなたは微笑んで手招きをし、わたしを強く抱き寄せた

 愛するしあわせの意味を教えてくれたあなた

  別れの切なさを思い出させたあなた

 わたしのこころには・・・》


視界がぼやけて、白いドレスが見えなくなっていくなか、私は、紘子が私のもとを離れて行くときの彼女の最後の言葉を思い出していた

「ありがとう晃司。あたしは晃司を・・・・

都合よく扱ってきたと思っています。歌手になるためには仕方がないと自分に言い聞かせて・・・

晃司に支えられているなかで、晃司に抱かれてもいいとさえ思った。でも、晃司はわたしを抱かなかった。

わたし歌手になるわ

それが晃司のわたしにしてくれたことへの恩返しだと思うから

今まで支えてくれてありがとう。これからは自分の幸せを考えて

じゃ、わたしは行くわ」



次の拍手が響き渡る前に、私は静かにライブハウスから出て行った

紘子は死んだ妻のかわりなんかじゃない

渋谷の交差点で、絶望の淵を彷徨っていた私の心に、生きる勇気と人の心のぬくもりを

さりげなく伝えてくれた歌声

私は、あのときの紘子を愛していたのだろう

そして、それからずっと片時も忘れることなく愛し続けていたのだ

しかし、歌手の夢を捨てさせ、私のためだけに歌わせるだけの勇気、あれだけの才能を持った彼女の可能性を奪うだけの度胸がなかったのかもしれない

私は、彼女の精一杯の強がりを、そのまま受け入れて彼女を突き放した

あの日の寂しげな紘子の目を、私は一生涯忘れることはないだろう

そして、今日という日も




                                  終


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