車窓の子供
車窓の景色が流れ出し、先原は購入していた弁当をいそいそと袋から取り出した。
明日が早いのでノンアルコールビールで雰囲気だけ味わうことにして、プルタブを引く。
カシュッという気持ちの良い音が響き、何処か背徳感のようなものが湧いたが、それをビールで流し込む。
──美味い。
先原は、出張の為に新幹線に乗っていた。四時間程の旅となる。
昼の間は出社して細かい仕事を片付け、早めに会社を出て駅へと向かった。
一応勤務中ではあるが、今日片付けるべき仕事は終えたから、殆ど休憩時間のようで妙な解放感があった。
その気分を抑えつつ、弁当の煮物を口に運び、ふと車窓に目を向ける。
ビル群を物凄い速さで走り抜け、住宅が立ち並ぶ中を進むと、ちらほらと自然が多くなっていく。
この景色を見ながら、駅で購入した弁当を食べるのが、出張時の密かな楽しみだった。
この日もぼんやりと車窓の景色を楽しみながら弁当を食べ進めていた先原は、窓ガラス越しに車内の様子を窺った。
平日の変な時間だからか、乗車率はそう高くない。
先原と同じように出張に行くのだと判るスーツ姿の男や、職業不明な女、学生くらいに見える旅行客等が点在している。
子供がパッと通路を駆けていく。
このような時間には、目的も様々な客が乗り合わせるものだ。
取り留めもないことをぼんやりと考え、何の意味もないことに内心で笑いながら、先原はそれを楽しんだ。
弁当を食べ終え暫くして、催した先原は立ち上がりかけて再び腰かけた。
車窓に子供が駆けていくのが見えたからだ。
黄色いTシャツに、ベージュの半パン。
小さな姿がトイレのある通路へと駆けていく。
──さっきもトイレ行ってなかったか? ったく、子供ってのは仕方ねぇな。
窓枠に肘を突き、景色を楽しみながら待つことにする。
そうして暫く待っていた先原は、流石に限界を感じて立ち上がった。
──どんだけ頑張ってるんだか知らねぇけど、こっちも限か──
扉横にあるトイレの空き状況を示すランプは消えたままだった。
無駄に我慢を強いられたことに若干の苛立ちを感じながら、先原はトイレへと向かった。
用を足し席に戻る途中、自身の後ろ側の席に目を向けた先原は、子供の姿を探した。
しかし、どちらかというと真ん中より前方に座っている先原より後ろには十人程座っているものの、子供の姿を見つけることは出来なかった。
何人かの大人の姿に「あれが親か?」と当たりをつけ、何気ない風を装って席に戻る。
そもそも文句を言うつもりはない。
子供は何も悪いことをしていないのだから。
騒ぐでもなく、トイレに立てこもるでもなく。ただ駆けて行っただけだ。すぐに出て来たのに、それに気が付かず勝手に苛だった先原の方に問題がある。
そう納得した先原は、ふと車窓に目を向け、眉を寄せた。
黄色のTシャツに、ベージュの半パンの小さな姿が通路を駆けて行く。
思わず振り返り、しかし当然そこに子供の姿は既にない。
通路を覗き込んだが、その先にも子供の姿はなかった。
──あれ、扉って開いたか……?
何処か釈然としない気分で窓側の座席に戻り、再び車窓に目をやった先原は、驚きに息を呑んだ。
黄色のTシャツにベージュの半パンの小さな姿が駆けて行く。
全く同じ方向に……。
扉を見やれば、センサーが作動した様子はなく閉じたままだ。
先原は通路に目を留めたまま、素早く窓を振り返った。
駆けて行く……。
黄色のTシャツにベージュの半パンの小さな姿が……。
胸に嫌な感覚が湧き起こる。
──そんな訳ないだろ……。
ふと思い浮かんでしまった可能性を頭から振り払う。
恐怖など感じていない。有り得ないことだからだ。
それよりも現実的な理由がある筈だ。
ハッと顔を上げた先原は、おもむろに立ち上がり、席の後ろへ歩き始めた。
他の乗客は皆、スマートフォンに目を落としたり、目を閉じていたりして、先原を気にしている者など居ない。
──双子だ。それか、三つ子だ。
先原はさりげなさを装いながら席を見て回った。
──居ない……。
子供なんて、居なかった。
親かと当たりを付けていた者達も、よく見ればそのようには見えなかった。
──そんな訳……。
扉が開き、小さな乗車口に出る。
左右に扉があり、目の前には次の車両が見える。
子供は、居ない。
黄色のTシャツなど、目立って仕方ない。
それなのに、何処にも居なかった。
知らず止めていた息を吐き出し、先原は踵を返した。
今度は、トイレのあるデッキへと向かう。
ちらと席を確認していくが、黄色いTシャツどころか、子供が居ない。
嫌な汗が流れていくのを感じる。
──そんな訳ないだろ。何を必死になっているんだか。
そう考えながら、デッキへと繋がる扉を潜る。
トイレの空き状況を示すランプは消えている。
念の為、トイレの扉を開けたが、当然何も居ない。デッキの他の隠れられそうな場所を確認したが、何も居ない。
隣の車両を覗いたが、まばらに乗客がいるだけで、ここにも子供の姿はなかった。
──あの子供は……何処に?
そこで先原は気が付いた。
何も、同じ車両に親が居るとは限らない。
有り余る元気を発散する為に、子供は離れた車両からただ駆けて来ているのだ。
自分の発想に違和感を覚える。
──じゃあ、何で扉が開かなかったんだ。
抜け出せなくなりそうな自身の思考を振り払うようにして頭を振る。
正体不明の子供が通路を駆けていたからって何が問題なんだ。その内何処かの車両で叱られるだろう。
無理やりそう納得し、ひとつ息を吐いた先原は、再び扉を潜った。
ふと目を向けた車窓に、黄色いTシャツ姿が映る。
しかし、自分の目の前──通路には、誰一人として歩いていない。
車窓にだけ、黄色いTシャツの小さな姿が映り、駆けてくる。
そうして、先原の腹の辺りをその小さな姿は駆けて行った。
勿論、ぶつかった衝撃などない。
通路は大人が一人立てばそれでいっぱいだ。すれ違うなど出来る筈がない。
それなのに、子供は駆けて行った。
足元から寒気が駆け上った。
ちらと訝しげな視線を向けるスーツ姿の乗客に押されるように席へと駆け戻った先原は、頸を絞められたように苦しくなった息を、無理やり抑えた。
心臓が不安に打っている。
──違う違う違う違う……。
不安を押し込む為、窓枠に置いていたノンアルコールビールの残りを呑み、手を止めた。
通路に、黄色いTシャツが、見える。
その小さな姿は駆けていない。止まっている。
トイレのあるデッキに続く扉を見つめたまま、先原の席の隣で佇んでいる。
クイ、と首がこちらに向いた。
先原は咄嗟に、窓の外の景色を見ている振りをした。
なんてことはないただの山の景色を、スマートフォンで撮る振りをする。
反射した車内の様子が写る筈のそこには、子供の姿は写り込んでいない。
あるのは、車窓だけ。
子供は、顔を先原に向けたまま、おもむろに口を動かした。
口端をニィと横に引き、開き、すぼめ、と五回口を動かす。
口を閉じて少し間を開けてから、その動きを繰り返す。
気付かない振りをして、弁当のごみを仕舞った袋を弄ったり、スマートフォンを操作していた先原の脳裏に、子供の口の動きがねっとりと蘇る。
「み」
「え」
「て」
「る」
「の」
先原はスマートフォンを取り落とした。
妙に大きな音が立つ。
慌ててスマートフォンを取り上げ頭を上げると、車窓に映る黄色い姿が、僅かに近付いている気がした。
確認など、出来る筈もない。
ここにきて、先原は強く恐怖を意識した。
──怖い。……怖い、怖い怖い怖い怖い。
嫌な汗がじっとりと背中を流れる。喉が渇く。息が苦しい。
ふぅ、と震える息を吐きながら、先原は目を閉じた。
見たくない。
居る筈がないのに──現実には、居ないのに。
車窓に居る、黄色い姿を、見たくない。
出来るだけ自然に見えるように。黄色いその姿になど気が付いていないというように、恐怖に開きそうになる目に力を込める。
「みえてるの」
ボソリと耳元で声が言った。
子供の、声が──。
「ひ……ぅっ」
思わず声を漏らしそうになった先原は、唇を噛んで顔を背けた。
これは、寝がえりだ。座ったままの姿勢だと寝心地が悪くて、今それを探っているんだ、と頭の中で考える。
目を閉じているせいで、体の左側がずんと重くなる。毛穴が開く感覚がある。
〝何か〟の存在を感じる。
押し潰されそうな存在感を放って。
「みえてるの」
「みえてるの」
「みえてるの」
「みえてるの」
声は繰り返す。
「みえてるよね」
声色が変わった。責めるような響きを含んだ声が、言う。
「ねぇ」
「ねぇ」
「ねぇ」
「ねぇ」
「ねぇ」
突然、降りかかる重圧がふっと軽くなった。
声は聞こえない。
押し潰されそうな存在感もない。
しかし、先原は目を開けることが出来なかった。
開けられる訳がない。
もし、その先に〝何か〟が居たら……。
耳の奥に「みえてるの」という声が蘇る。
開けられ──
ブィーブィーブィー。
スマートフォンが振動し、先原は再びスマートフォンを取り落とした。
騒々しい音を立てたスマートフォンを拾い上げ、そのままの勢いでデッキへと早足で向かう。
居なかった。
黄色い姿は見えなかった。
先原は、乱れていた息を整え、呼び出し続けるスマートフォンの通話を押した。
聞き馴染みのある同僚の声にホッと息を吐く。
幾つかの問いに答え、通話を切った先原は、急に催しトイレへと入った。
何処か軽くなった気分で席へと戻ろうとした先原は、足を止めた。
うっすらとぼやけながら透けている硝子越しに、客室の様子が見える。
通路の向こうから、黄色の小さな姿が駆けてくる。
〝それ〟は、扉の前で立ち止まると、じっと先原を見つめた。
いや、見えている筈はない。
見つめているように見えるだけで、実際にはぼんやりとした黄色いシルエットなのだから。
知らず後退った先原の前で、突然扉が開いた。
壁に背を付けて立っている先原に、不審そうな目をした学生と思しき乗客が、トイレへと消えていく。
先原が、じっと見つめる通路には、当然黄色の姿はなかった。
動けないでいる先原の前で、扉はゆっくりと閉まる。
硝子越しにも、黄色の姿はなかった。
はぁ、と息を吐く。
不思議な〝何か〟は、確かに居るのだろう。
でも、恐れる必要はない。
ただ、車窓に駆ける姿が映るだけ。
ただ、声を掛けてくるだけ。
それだけだ。
別に怖くなん──
「やっぱり、みえてるんだ」
先原は息を呑み、その場から動けなくなった。




