シュレイーシカ
――わたしは神の残滓、
あなたたちは神のこども。
どうしたって相容れないのだよ。
「まったく、瀝青はお固いな。こどもの頃のおまえなら、少しは私の気持ちを分かってくれただろうに」
泉のふちに腰掛け、爪先を水面にひたしたまま、シュレイーシカは背後に控える世話係の青年を仰ぎ見た。
「それに、おまえより『前』の世話係であるなら、きっとここまでのお小言は言うまいよ」
彼より以前に仕えてくれていた世話係の話をすると、幼いころの瀝青は、むっとしたように口を引き結んだものだ。だから反論につまった時、シュレイーシカが口にするのは、決まって昔を懐かしむ詮無い繰り言だった。
いま、成長した瀝青は困ったように微笑むばかりだ。こどもの時分の彼のように、真っすぐな言葉でシュレイーシカをなじることはない。
「わがままをおっしゃらないでください、シュレイーシカ様。御身は、国の平穏と繁栄の要なのですよ」
シュレイーシカを宥めるように、付き人として正しい対応ばかりをする。
もう彼は、シュレイーシカと一緒になって日がな一日離宮のあちこちで隠れ鬼をした挙句、「貴方のせいで大目玉を食らってしまった」などと口を尖らせたりはしない。
瀝青は大人になってしまった。
シュレイーシカを置いて。
「わがままとはなんだ。いかに寛大な私だって、せっかく目が覚めているというのにこの狭い宮へ閉じ込められれば、文句のひとつやふたつ言いたくもなるさ」
「それは……ひとえに貴方を守るためです」
「またそれか」
水浴びひとつするにも王の許可が必要な生活は窮屈だが、さりとてうんざりするほどでもない。永遠に似た寿命を持つシュレイーシカには、時間は膿むほどに有り余っていた。どちらかというと、この気に入りの世話係とのやり取りを楽しむために口にしたわがままだったが、近ごろは苛立つことも増えてきたように思う。
ひとえに、瀝青がシュレイーシカを樹精として過剰に敬い出したからだった。
瀝青はシュレイーシカに仕える神官である。
そしてシュレイーシカは、世界の礎である神樹よりはぐくまれた精霊、樹精だった。
神樹にはべる樹精が人の世に下りてくるのは百年に一度あるかどうかの慶事とされ、迎え入れた国は不老であり不死の彼らが国土にとどまる間、神樹の加護の下の繁栄を約束された。
シュレイーシカがこの国にあらわれて、すでに五百余年を数える。
だが不老の樹精であるシュレイーシカの見目は若々しかった。幼くすらあった。地面につくほどに長くうねる銀糸の髪、同色の瞳は宝石めいて爛と輝き、時に大きく目をみはり、また時に不平から細く眇めるさまは人よりもよほど人めいていた。スグリの実に似て艶めく赤いくちびるはなまめかしく、さても神さびた美貌の樹精よと畏怖と同時に色の在処を探る輩もいたが、くるくると表情豊かなシュレイーシカのあどけなさに不埒な思惑は削がれてしまうのだった。それもまた俗世の穢れを受けつけぬ神樹の精ゆえかもしれない。本能に刻まれた、神樹に対する畏れもあるだろう。神の樹とその眷属に仇為せば、ちっぽけな人間ごとき、この地上での在処を永遠に失ってしまう。
そんなシュレイーシカはというと、自身の美しさに頓着がない。存在同様、樹精の思考は人とは異なるのだった。
「私は──私たちは、神樹の残滓なのだよ。この国の端から端までを渡る空、そなたたち只人には不可視の神樹が覆うあの空の彼方から、枝を離れてひらり落ちた一葉の枯れ葉、神の御手を離れた不要物さ。神でなく、人でもない。精霊たちのように元素を操れもしない。ただここに在るだけのモノなのさ」
飄々と言ってのけるシュレイーシカの背に白絹銀糸の衣を着せかけながら、瀝青は吐息をついた。
「それでも御身はこの世に豊穣と平和をもたらすお方です。戦と無縁のまま、この小国の平穏が何百年も保たれてきたのは貴方様あってこそ」
「ああもう、だから私はそうしてかしずかれるのは嫌いなのだよ。確かに、私がいれば争いは起こらぬ。世界そのものたる神樹に害を為すものがおらぬように、私の居場所を奪うものもいないだろう。だが、私は残滓だ。神樹そのものではなく、繁栄や豊穣をもたらす力などは持たない。だから、おまえたちの国が大過なく豊かであることは、おまえたち自身の力だ。そう言っているのに瀝青、今のおまえときたら聞き入れやしない。まったく、頭の固い大人になってしまったものだな!」
堂々巡りのやり取りの末に、声を荒げて一方的に話を切り上げてしまうのはシュレイーシカの方で、そうした時、瀝青の瞳の奥にはシュレイーシカに理解できない熱の坩堝のようなものがうずまくのだった。
わずかに潤んだ黒い瞳に見つめられると、えもいわれぬ感情がシュレイーシカの中に湧き上がる。
今までシュレイーシカに対して、こうした眼差しを向けるものはいなかった。
「……瀝青」
おずおずと呼びかけると、瀝青は我に返ったように視線を揺らし、黒々と凛々しい眉をわずかに下げて、また困ったような顔で笑った。
その途端、シュレイーシカにひたと向けられていた熱の塊も掻き消える。
「なあ、瀝青」
「本日は、陛下から特別に許可を賜りました。『神樹の君にこれ以上の不自由を強いるのはしのびない。離宮中庭での水浴び程度ならば神樹の君の望まれるがままに』と仰せです」
「なんだ、やるではないか!」
シュレイーシカは無邪気に手を打った。
「介添えは女神官の真朱が行います」
「なぜだ?」
喜びが急に萎んでしまい、シュレイーシカは声を固くした。
「瀝青で構わぬのに」
「そういう訳には参りません。私は男です」
「私は樹精だ。男ではないが、女でもない」
「ですが、今の貴方の姿かたちは人の女性のものです。ならば、男の性を持つ私が貴方のお傍に付く訳には参りません」
「私は気にしないというのに」
「私が気にします。それに、周りの者たちも」
確かにシュレイーシカは人で喩えるなら齢十五、六ほどの少女の容貌である。
瀝青はシュレイーシカ付きであるから彼女の身辺を離れはしないが、衛士とともに泉から少し離れた天幕に控えるという。相手が人ならぬ樹精とはいっても、水浴びの際は女性の神官に後を任せなければならないとして譲る気がない。
しかし、シュレイーシカにも言い分がある。
「人の顔は覚えられぬ。むずかしい。接する者をあまり増やしたくはないというのに」
「……ならばこの機会に真朱を覚えてやってください」
「いいや、無理だ。おまえの顔だってまだ覚えられてはいないのだぞ」
そう吐き捨てると、瀝青の顔がはっきりと強張った。
だが、シュレイーシカには瀝青の動揺の意味が理解できない。わかっているだろう、と首をかしげる。
「我らは人のかたちを借りてはいるが、人とは全く異なるものだからな。限りある命の人とは違い、不老であり不死だ。だが、神樹から離れた存在であるため容易に変容してしまう。それを避けるために『眠り』につく。ひとたび眠れば、人の世はめまぐるしく移り変わる。だから再び目覚めた時には、世話役の顔ぶれが変わっているらしいのだが、私にはとんと分からない。それが人の国でもっとも偉いという王であっても、『ああ、髭が無くなったな。前の王とは別人なのだろうか。だが、同じ王が髭を剃り落としたのかもしれぬ』と、ひとしきり悩んでしまうのだ。名前を名乗られて、それがおぼろげに以前の世話役、王らと異なる名だな、では別人であるのか、そう思う程度だ。覚えられぬのだよ、だって根本が違っているのだから」
「私のことも、忘れてしまいますか」
「どうした、瀝青?」
「いや、最初から覚えていて下さらないのでしたね」
「……おまえだって、草原に放した羊の群れの顔を、いちいち覚えてはいられないだろう」
「自分が飼っている羊くらいなら覚えられますよ」
「私にはどうにも、むずかしい」
淡々とした瀝青の問いかけは、どこかシュレイーシカを責めているようにも響き、自然、答える声が弱々しくなる。
絞り出すように呟けば、諦めたような顔で瀝青は微笑んで、女神官を呼んでくると言い置いて踵を返した。その笑顔は、人の判別がつかないシュレイーシカをもってして、虚ろを感じさせた。
──シュレイーシカ様は残酷だ。
──貴方にとっては、人も、家畜も、虫けらも、みんな同じなんだな。取るに足らないもの、関心のないもの。俺たちがどんなに貴方に尽くしたって、なんにも伝わりやしないんだ。
かつて、まだ瀝青が見習いの神官だった頃にぶつけられた言葉が甦る。
その時と、今のシュレイーシカは変わらない。
けれど瀝青は変わった。
剥き出しの気持ちを、いつから瀝青はシュレイーシカに対して隠すようになってしまったのだろう。
「……だって私は人ではないのだもの……人の気持ちなんてわからない」
今、シュレイーシカには、大人になって樹精というものの在り様を理解するようになった瀝青の方が、あの頃の彼より掴みどころのない存在のように思える。
先程、瀝青の眼差しに宿った熱を思い出す。
あれはこどもの瀝青にはない熱さだった。だが不快ではなかった。これまでにシュレイーシカが向けられたことのない感情に思えた。少なくとも、彼女がその熱情を意識したのは今が初めてだった。
ふいに、遠ざかる後ろ姿を追いかけたい衝動に駆られ、シュレイーシカは立ち上がる。
――その途端、激しい眩暈が彼女を襲った。
樹精の『眠り』の周期が迫っているのだと今更ながらに気がついた。思えば樹精としての五百年の中で、これほど長く起きていたことはなかった。
瀝青の背中が遠ざかる。
「瀝青」
──シュレイーシカ様。
こどもの瀝青が微笑みかけてくる。
「瀝青──」
──シュレイーシカ様は、残酷ですね。
大人の瀝青が責めるような口調でそう告げる。違う、とシュレイーシカはかぶりを振る。それはこどもの瀝青だった。大人の瀝青はシュレイーシカを責めたりはしない。ただ、物言いたげに微笑むだけ。
揺れる視界がやがて暗く沈むまで、シュレイーシカは譫言のごとく瀝青に呼びかけていた。
瀝青、
瀝青、
瀝青。
返る言葉はひとつとしてなかった。
※※※
重たい瞼をようよう開いた時、視界に飛び込んできたのは、『眠り』につく前と変わらぬ瀝青の姿だった。
目覚めたシュレイーシカを覗きこむようにして見つめる瀝青は、常のようにやわらかな微笑みをたたえてシュレイーシカを見下ろしている。
「瀝青」
「はい、シュレイーシカ様」
目じりにしわが生じていた。
少し年を取ったように見える。
けれど夜闇を写し取ったような黒髪も瞳も何ら変わることなく、また左肩から胸元にかけて神樹の枝の縫い取りが入った神官服は、シュレイーシカの筆頭世話係のみが纏うことを許されるものだった。
天蓋の寝台からゆっくりと身を起こし、シュレイーシカは首を振った。
「私はどれくらい寝ていたのだ?」
「――少し。ほんの少しの間ですよ、シュレイーシカ様」
「けれどおまえはどこか変わったように見える。……年を取ったのか」
「……そうでしょうか」
小さく呟いた男は、
「御身のように無限の寿命がある訳ではありませんからね。人は、年を取り、そして死んでいく生き物ですよ」
年を経た生き物らしく、茶目っ気の中に老獪さをにじませた物言いののち、笑みを深めた。
※※※
そうしてまた、シュレイーシカの上には変わり映えのしない時間が降り積もっていく。
瀝青は常にシュレイーシカの傍にいた。陰に陽に樹精を支え、やがて国は王の代替わりを迎えた。
都が移り、新たな離宮に住居があつらえられたころ、シュレイーシカは次の『眠り』についた。
※※※
午睡に似た時間を経て、また目覚めた時、都はふたたび元の地に戻っていた。
懐かしい離宮は、どこか古ぼけ、くすんで見えた。
そしてシュレイーシカを見守る瀝青は、あの頃の彼と同じように若々しかった。
シュレイーシカを、まるで人であるかのように見つめる彼と同じでありながら、向ける眼差しにはひたすら穏やかさしか宿っていない。
「……瀝青……」
呼びかけると、
「はい、シュレイーシカ様」
いつぞやと同じようにシュレイーシカを呼ぶ。
だが、違う。
寝台の上、シュレイーシカは目をしばたたかせた。
シュレイーシカには人の顔相の区別などつかない。
人間の顔のいちいちを覚えることなど、人の身に置き換えてみれば、群れの羊――いや、羽虫の一匹を見分けるようなもの。
樹精と人間とは、それほどに違う。
だというのにシュレイーシカは、呼びかけに答えた男がシュレイーシカの呼ぶ『瀝青』でないことに気づいた。
気づいてしまった。
なにより目が違う。
瞳に宿る熱量が違う。
『瀝青』はそんな平坦な目でシュレイーシカを見なかった。眼差しだけでなく、シュレイーシカの名を口にのせる際の声音のかすかな上擦りや、何気ない一瞬にこぼれ出す喜色やらが、かつて『瀝青』からは溢れていた。
だからこの瀝青は、シュレイーシカの『瀝青』ではない。
今、はっきりと理解した。
「なあ、『瀝青』はどうした」
「私ならここにいるではありませんか」
「違う、探しているのは私の『瀝青』のことだ」
声を荒げそうになるのをこらえ、辛抱強く繰り返す。
すると男は困ったように首をかしげた。
「私たちは皆、シュレイーシカ様の瀝青です。瀝青は、貴方のために存在するようになったのです」
「なにを……」
「だって貴方がおっしゃったのでしょう。『人の顔の区別がつかぬ』と。御身は『人によく似ていながら、人とはまったく異なる存在である』と。ですから瀝青は、貴方のお世話係となる人間の称号となったのです」
「は――」
くずおれるように寝台からおりたシュレイーシカは、差し伸べられた男の手を払う。
拒絶された男は、けれど顔色ひとつ変えない。
「貴方様の呼ばれるところの『瀝青』は、こう言ったそうです」
――シュレイーシカ様のそばにいて差し上げてくれ。
――『瀝青』として。
――絶えることなく、あの方の世話係として、そばに。必ず、おそばに。
――たとえあの方が私を覚えていなくとも、私はあの方を独りにしたくないのだ。私の……ただ身勝手で独りよがりな、わがままだけれども――
「だから『瀝青』は、自分の後継者に瀝青の名を与え、容姿も口ぶりもよく似たように育てあげました。そのこどもも、またそのこどもも、彼にならいました。すべては貴方様のためだけに」
もう男の言葉はシュレイーシカの耳に届かなかった。
もつれる足で柱にすがり、壁に体を押しつけるようにして一歩一歩よろめきながら、居室を後にする。
目覚めたばかりで危なげだった足取りは、しっかりとしたものに変わり、やがて少しずつ速度を増す。
時折まろびながら駆け出す樹精の君を、人の子は誰も制止できない。
「瀝青! いるのだろう、出てこい!」
離宮の回廊を抜け、闇雲にひた走る。
かつて、まだ幼い瀝青と離宮の中を遊んで回った。隠れた相手が見つかれば、次は自分が新たな隠れ場所にひそみ、相手が探して回る隠れ鬼。
「降参だ、私の負けでいいから! ――すまない、謝るから――ちゃんと覚えるから、覚えているから、おまえのことっ、だから、だから……!」
行きかう女神官が、中門を守る衛士たちが、いっせいに目をみはり、銀糸の髪をたなびかせて駆ける神樹の精の後ろ姿をその瞳に焼きつける。なのに誰も彼の君を追いかけようとはしない。樹精の意志をさまたげる者は、この地上には一人として存在しない。
「瀝青!」
駆ける。
「瀝青――……!」
駆ける。
いつかの泉を抜け、さらにその奥を目指す。
離宮でもひときわ目を引く大樹のたもとへ辿り着くと、樹精はその場へ膝をついた。
瞳を閉ざし、瞼の裏に目を凝らす。
必死に輪郭を結ぼうとしても、脳裏に浮かぶのはおぼろげな男の姿のみ。
樹精は涙を持たない。
しかしシュレイーシカは慟哭した。両手で顔を覆い、獣めいた声で泣き叫ぶ。指の隙間からは、涙の代わりに血に似た赤い雫が滴り落ちた。
それでもなお、シュレイーシカにはわからないのだ。
自分がなぜここまで取り乱すのか。
ひたすらに瀝青の名を叫んで回ったのか。
胸の奥からせりあがってくる、この感情の名をなんと呼ぶのか。
人でない樹精にはわかり得ない。
すると、大樹の上に差しかかる神樹の葉が、人には見えないその葉が、ざわりざわりとさざめいて、ついに一枚、樹精の上を舞った。
神樹の一葉はシュレイーシカに触れると、あわ雪のごとく溶けて消えた。
次いで二枚、三枚と葉が落ちたかと思うと、見る間に葉は連なっていき、やがて激しい吹雪へと様相を変えた。
神樹の葉吹雪は、うずくまるシュレイーシカを覆うように渦を巻く。攫うように巻き上がる。
天高く巻きあがった風が唐突に掻き消えた時、樹精はもうおらず、代わりにその場には一振りの枝が落ちていた。
その枝は樹精の豊かな髪と同じ色をしていたという。
枝には幾つも、スグリに似た実がなっていた。
その実は樹精のくちびると、そして流した涙とよく似た色をしていたという。
いなくなった樹精の代わりに、神樹の枝は宝物殿へと収められた。
枝が宝物殿にある間、国は永く栄えたと聞く。
しかしある時期から銀の枝は失われ、ほどなくして国も滅びてしまった――。




