第一章 偽りの鎮魂歌(レクイエム) 第二節 白昼のすれ違い
交わるのは殺意のみ。相容れない二人の美学が、世界のバグを叩き潰す!
「神託」と名乗る正体不明の存在から、横浜港・本牧埠頭への死の招待状が届いた翌日の昼下がり。
秋晴れの高く澄み切った空が広がる神奈川県横浜市、山手エリア。かつて外国人居留地として栄え、現在も当時の面影を色濃く残すこの街は、海風が心地よく吹き抜ける高台に美しい西洋館が点在し、色づき始めた銀杏の並木道がどこまでも続く、日本有数の洗練された観光地である。
その異国情緒あふれる絵画のような風景の中を、一人の少女が、まるで重力や空気抵抗さえも計算し尽くされたかのような、滑らかで無駄のない優雅な足取りで歩いていた。
高清水凉子である。
彼女は現在、自らの本来の居場所であり、絶対的な秩序が保たれた神戸の山手から遠く離れ、完全なる敵地である横浜の地へと単独で潜入していた。
彼女が身に纏っているのは、昨日まで着ていた神戸のミッション系女学院の制服ではない。横浜市内にキャンパスを構える歴史ある名門女学館の、深いワインレッドを基調としたシックなブレザーと、細かなチェック柄のプリーツスカートであった。
無論、彼女がこの学校の正規の生徒であるはずがない。これは、彼女のただ一人の理解者であり専属ブローカーである天才発明家・詫間亨が、たった一晩で教育委員会の厳重なデータベースから戸籍情報、さらには監視カメラの顔認証システムに至るまで、あらゆる電子ネットワークを完璧にハッキングし、論理の力で構築し上げた「姉妹校からの短期交換留学生」という偽装身分であった。
『――凉子様。横浜市内の偽装身分のネットワーク定着、並びに周辺インフラへのバックドア構築、完全に完了しております。現在、貴女は戸籍上も学籍上も、間違いなく横浜の女学生としてこの世界に存在しています。……ですが、やはりこれ以上、目立つ行動は推奨できません。敵のホームグラウンドに単独で乗り込むなど、論理的なリスクが大きすぎます』
凉子の耳元には、一見すると上品な真珠のイヤリングにしか見えない超小型の骨伝導通信機から、遥か神戸の地下ラボにいる亨の、ひどく心配そうな声が届いていた。
「案ずることはないよ、亨さん。私の論理に、リスクなんていう不確定要素は存在せえへんのやから」
凉子は、すれ違う観光客たち――その浮き世離れした美しさに思わず振り返り、ため息を漏らす男女の視線を完全に無機質なノイズとして無視しながら、冷ややかに、そしておっとりとした神戸の言葉で応答した。
「あの『神託』とかいうバグが指定した、今夜の取り引き現場。そこにあの『赤い炎』の下品な女が現れるんやったら、私が自ら出向いて、その正体と生態を事前に分析・把握しとくのが、一番効率的な『お掃除』の手順やんか。それに……あの女の背後におる、私たちの完璧なステルスを無効化した目障りな『目』。あのバグの発生源を物理的に特定して、完全に潰しとかなあかんわ」
凉子にとって、関ヶ原の暗闇の中で感じ取った、あの理不尽で野蛮な地獄の力の残滓は、この宇宙の絶対的な秩序を汚す、決して許しがたいエラーコードであった。「悪には即座の死を」。それも、無意味な苦痛を与えず、瞬時に命というシステムをシャットダウンすることこそが究極の美学であると信じる彼女にとって、時間をかけて他者を嬲り、苦痛そのものを目的とする地獄のやり方は、心の底から反吐が出るほどに「美しくない」行為だったのだ。
「あの『美しくないノイズ』の根源を絶つ。そのための下準備やね。亨さんは、私の視界のデータから、周囲の霊的エネルギーの異常波形をただスキャンし続けといてや」
『……御意に。現在、上空の不可視ドローン3機と、山手エリアに張り巡らせた全監視カメラのハッキング網を連動させ、異常な霊的熱源をリアルタイムでマッピングしています。何かあれば、ミリ秒単位で退避ルートを演算しますので』
「ええ、頼りにしてるわ。亨さんの論理だけが、私の翼なんやから」
凉子は、銀縁の伊達眼鏡――ヘットマウントディスプレイのスイッチを微かに調整し、網膜に投影される青いデータストリームを確認すると、山手本通りの先にある、瀟洒な洋館を改装した有名なカフェテラスへと歩みを進めた。
同じ頃、そのカフェテラスの最も見晴らしの良い、海風が心地よく吹き抜ける特等席に、北條孝子は一人で座っていた。
濃紺のセーラー服の襟元を正し、黒髪のおかっぱを微かな海風に揺らせながら、彼女はテーブルに広げた黒いベルベットの布地に、真っ赤な絹糸で緻密な椿の花を刺繍していた。
「まあ、皆様、ごきげんよう。今日のお紅茶は、ダージリンのファーストフラッシュですのね。香りがとても素晴らしいですわ」
先ほどまで、同じ女学館の取り巻きの友人たちがこのテーブルを囲み、成績優秀で容姿端麗な孝子をヒエラルキーの頂点として、黄色い歓声を上げていた。だが、彼女たちの流行りの洋服や恋愛に関するお喋りがあまりにも凡庸で退屈であったため、孝子は「わたくし、少し一人で刺繍に集中したい気分なのですの。ごめんあそばせ」と、誰もが魅了される優雅な微笑みで彼女たちを体のいい言葉で追い払ったのである。
チクッ、チクッ。
氷のように冷たい、しかし白魚のように美しい指先が、鋭い刺繍針を正確無比なリズムで布地に突き刺し、そして引き抜いていく。
真っ赤な絹糸が、まるで新鮮な動脈血が滲み出すように、漆黒の布の上で鮮やかで毒々しい椿の形を成していく。布に針を突き立てるその反復作業は、彼女が夜の闇の中で人間の急所に『千枚通し』を突き立てる感触と酷似しており、彼女の歪んだ精神を深く安らげていた。
「……ガーディ。今夜のパーティーの準備は、つつがなく進んでおりますわね?」
孝子が、針から目を離すことなく、そして周囲の客に聞こえぬよう、唇をほとんど動かさずに微かな声で囁いた。
「へっ。抜かりはございませんぜ、お嬢様」
彼女の座る椅子の下、真っ白なパラソルが落とす濃い影の中から、地獄の番人であるガーディの粘着質な声が、彼女の脳髄に直接響き渡る。
「本牧埠頭の第七D倉庫。東南アジアのネズミどもは、昨夜から既に商品のガキ共を薄暗いコンテナに詰め込んで、取り引きの準備を整えておりやす。数は、護衛の武装したクズ共がざっと五十匹といったところでしょうか。どれもこれも、金のためなら親兄弟でも平気で売り飛ばす、魂の底まで腐りきった最高のおもちゃでございます」
「まあ、素敵ですこと」
孝子は、赤い糸をスッと引き抜きながら、その漆黒の瞳の奥に、獲物をいたぶることを想像した肉食獣のような、強烈でサディスティックな歓喜の光を灯した。
「五十匹ものゴミどもを、一晩かけてゆっくりと、悲痛な声で泣き叫ぶまで『懲らしめ』てさしあげられるなんて。この平和で退屈な日常の鬱憤を晴らすには、ちょうどいいお稽古になりますわね。……それに」
彼女は、刺繍針の鋭い先端を、自らの指の腹でそっと撫でた。
「あの得体の知れない『神託』とやらが言うには、今夜はあの生意気で不愉快な『青い光』の主も現れるのでしょう? わたくしが長い時間をかけて創り上げる極上の苦痛の芸術を、一瞬の消去で台無しにしようとする無粋な輩。あの方の澄ました顔を、わたくしの『針』で二度と元に戻らぬように切り刻んでさしあげるのが、今から楽しみでなりませんわ」
「お嬢様がお望みとあらば、相手が天使であろうが神の使いであろうが、私がこの手で羽をもぎ取り、地獄の釜の底へと引きずり込んでご覧に入れますぜ」
「ふふふ。頼もしいですわね、ガーディ。でも、一番美味しいところは、わたくしに譲ってくださいましね」
孝子が、刺繍を施した布を満足げに広げた、まさにその時であった。
カラン、と控えめで上品なアンティークのベルの音を響かせて、カフェテラスの入り口から一人の少女が足を踏み入れた。
深いワインレッドのブレザーに、栗色のウェーブヘア。
その少女――高清水凉子は、一瞥するだけで周囲の空気を凍りつかせるような、圧倒的で無機質な美しさを放っていた。テラスで優雅なティータイムを楽しんでいた数組の客が、思わず会話を止めて、息を呑んで彼女に目を奪われる。
店員に案内され、凉子が座ったのは、奇しくも孝子のすぐ隣のテーブルであった。
二人の少女の距離は、わずか一メートルほど。
互いに、相手が裏社会を二分する凶悪な殺戮者であることなど、この時点では知る由もない。
だが、二人が同じ空間に存在した瞬間、二人の間には、理屈や視覚を超えた、魂の根源が発する強烈な「拒絶反応」が、目に見えない静電気のようにバチバチと激しい火花を散らしていた。
(……まあ。なんという、冷たくて、鼻持ちならない空気を持った方かしら。まるで、人間の温かい感情というものを持ち合わせていない、精巧に作られたガラスのお人形のようですわ)
孝子は、視線を刺繍に向けたまま、横目で凉子の完璧な横顔を観察し、内心で鋭く舌打ちをした。彼女のサディズムは、他者の感情を激しく揺さぶり、恐怖と苦痛で顔を醜く歪ませることに無上の喜びを感じる。だからこそ、凉子のような「感情の欠落した無機質な美」は、孝子にとって最も苛立ちを覚える、破壊衝動を掻き立てられる対象であった。
(……ごっつい、美しくないノイズやな。見た目は上品ぶっとうけど、魂の奥底から、ドロドロとした下劣で野蛮な欲望の匂いが漏れ出しとうやん。反吐が出るわ)
凉子もまた、運ばれてきたアールグレイのアイスティーに一切口をつけず、伊達眼鏡のディスプレイ越しに孝子の存在をスキャンしながら、強烈な嫌悪感を抱いていた。彼女の求める絶対的な秩序と調和からすれば、孝子の内面に渦巻く他者をいたぶる混沌の欲望は、即座に消去すべき致命的なバグに他ならなかった。
しかし、二人は共に、表社会においては「完璧なお嬢様」という仮面を被って生きる達人である。内心のどす黒い殺意を微塵も表に出すことなく、表面上はどこまでも優雅に、そして白々しい交流が始まった。
「……綺麗な刺繍してはるね。黒地に真紅の椿。その鮮やかな色彩の対比、見惚れてしもうたわ」
先に口を開いたのは、凉子であった。彼女は、完璧な発音とイントネーションで、神戸の上流階級特有の柔らかくも冷ややかな口調で話しかけた。
「ごきげんよう。お褒めにあずかり、光栄の至りに存じますわ」
孝子は、刺繍の手を止め、昭和初期の華族の令嬢のような、楚々とした、しかし絶対的な自信に満ちた微笑みを返した。
「わたくし、こういう手先の細かい作業が好きですの。針を布に深く突き刺し、自らの思い描いた通りに形を縫い合わせていく……その過程が、何とも言えず心が安らぎますのよ。あなた様は、見慣れない制服ですけれど、どちらの学校の方かしら?」
「私、神戸からこちらの女学館へ、短期の交換留学で来とうの。高清水と申します。横浜は、空気が少々……ええ、色々な意味で『重たい』んやけど、景色はごっつい美しいわね」
「まあ、神戸から。遠いところをようこそ。北條と申しますわ。横浜の空気、お気に召しませんでした? わたくしは、この港町の、表の華やかさと裏に潜む泥臭さの入り混じった混沌とした雰囲気が、とても好きですのよ」
にこやかに微笑み合いながら、言葉の裏で互いの価値観を鋭い刃のように刺し合う二人。
だが、その水面下、彼女たちの足元と遥か頭上では、主人たちの表面的な牽制を遥かに超えた、絶望的で熾烈な次元の情報戦が、音もなく繰り広げられていた。
『――凉子様! 極めて危険な状況です。直ちにその場から離れてください!』
突然、凉子の耳元の骨伝導通信機から、亨の切羽詰まった声が弾けた。
『今、貴女の隣に座っている少女。彼女の足元の影から、信じられないほど高密度の霊的エネルギーの渦を検知しました! 熱源反応ゼロ、物理法則を完全に無視した呪詛の塊……。間違いありません、あの夜、関ヶ原で観測した『地獄の業火』のサポート役が、そこに潜んでいます!』
(……っ!)
凉子の青い瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。
(灯台下暗しとはこのことやな。この、古臭い言葉遣いの下品な女が、あの『赤い閃光』の正体やと言うのんか……!)
凉子の伊達眼鏡のディスプレイには、孝子の足元の影が、真っ赤な警告色となって激しく明滅しているのが映し出されていた。
一方、孝子の脳内にも、ガーディの焦燥に満ちた声が直接響き渡っていた。
「お嬢様ッ! 気をつけなせえ! 今、我々のはるか上空に、物理的な姿を持たず、私の地獄の『目』すらも欺くほどの高度な光学迷彩を施された、未知の飛行物体が三機、我々をスキャンしておりますぜ!」
(なんですって……?)
「そして、隣に座っているその澄ました女。こいつの身につけている眼鏡と耳飾りから、膨大な量の電子データが外部と通信され続けています。……この匂い、この無機質で反吐が出るほどの『秩序』の気配。間違いありません、こいつが関ヶ原の『青い稲妻』ですぜ!」
(……まあ! なんて素敵な偶然かしら)
孝子の心臓が、極上の獲物を見つけた歓喜で大きく跳ねた。
(この、血の通っていない精巧なお人形のような女が、わたくしの芸術を邪魔した堕天使。今すぐこの場で、その綺麗な首筋に千枚通しを突き立てて、絶望に顔を歪ませてみたいものですわ……!)
カフェテラスの穏やかな陽光の下で、二人の少女は互いに一切の身動きをとらなかった。
だが、その空間の緊張感は限界に達していた。
亨は、神戸のラボから遠隔操作で、上空のステルスドローンの出力を最大まで引き上げ、孝子の影に潜むガーディの霊的波形を強制的に解析しようと試みた。
『――対象の霊的シールドに干渉を開始。論理的脆弱性を突き、正体を暴きます!』
ドローンから不可視の指向性電磁波が放射され、パラソルの下の影を直撃する。
「ぐっ……! 小癪なネズミめが! 地獄の番人の目を、人間の安っぽいからくりで覗き見ようなどと、百年早えんだよ!」
ガーディが激怒し、自らの影から、物理的な実体を持たない地獄の瘴気で作られた無数の「影の触手」を空へ向かって放った。
触手は空中でドローンの放つ電磁波と衝突し、激しい見えない火花を散らす。
『――警告! 第1、第2ドローンが未知の霊的干渉を受け、システムに致命的なエラーが発生! コントロール不能……墜落します!』
亨のラボにけたたましい警報が鳴り響く中、上空でショートを起こした二機のステルスドローンが、誰にも気づかれることなく火を噴きながら遠くの海へと落下していった。
『くそっ……! なんという非論理的なパワーだ。凉子様、相手のサポート役は我々の想像以上に危険です。これ以上の接触は、貴女の正体と能力を完全に露呈させるリスクがあります。今すぐ撤退を推奨します!』
「……ええ、分かっとうよ、亨さん」
凉子は、テーブルの上に千円札を優雅に置くと、ゆっくりと立ち上がった。
「……北條さん。ちょっと急用思い出したさかい、これで失礼させてもらうわ。あんまり長居すると、服に嫌な匂いが染み付いてしまいそうやしね」
凉子は、完璧なカーテシー(お辞儀)を見せながら、その冷たい青い瞳で、孝子の漆黒の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「次にまた、どこかでお会いできることを……ええ、心より楽しみにしてるわ」
(今夜の埠頭で、あんたの下品な息の根を、塵一つ残さず完全に止めたるわ)という、強烈な殺意のメッセージを込めて。
対する孝子もまた、立ち上がる凉子を見上げながら、楚々とした微笑みを一切崩さずに言い放った。
「あら、もう行かれてしまうの? 残念ですわ。わたくしも、高清水様のような『美しい』方と、もっともっと深く、お話がしたかったですのに」
孝子は、手元の黒い布地に刺さった刺繍針を、ジワリと深く押し込みながら、残酷に微笑んだ。
「ええ、どうぞごきげんよう。道中……お怪我などなさいませんように。わたくしたち、きっとすぐにまた、再会できるような気がいたしますわ」
(今夜の埠頭で、あんたのその澄ました顔が苦痛と絶望で泥水に塗れるのを、特等席で見下ろしてさしあげますわ)という、血に飢えた狂気の宣言を込めて。
二人の少女は、白昼の陽光の中、互いに優雅な一礼を交わし、それぞれ別々の方向へと歩き去っていった。
すれ違う一瞬、孝子の鼻腔を、オゾンのような無機質で清浄な匂いが掠めた。凉子の肌には、地獄の業火がもたらす、血と焦げた肉の甘ったるい匂いが張り付いた。
互いに、相手が今夜の標的であることを完全に確信していた。
東の魔女と西の堕天使。彼女たちの間に結ばれたのは、友情でも共感でもない。ただ、「相手をこの世から抹殺しなければならない」という、絶対的で冷徹な、殺意の約束だけであった。
陽だまりのような山手のカフェテラスに、二つの相容れぬ狂気が残した見えない氷の刃が、静かに、そして恐ろしいほどに研ぎ澄まされていた。
X(Twitter)では脚本版などもつぶやいています。
https://x.com/TakumiFuji2025
決して交わらない「混沌」と「秩序」が奏でる、狂気と美学のダークファンタジー。神すら震える極上の不協和音を、とくと味わいなさいませ!




