終章 夜明けの残響 第二節 新たな美学
交わるのは殺意のみ。相容れない二人の美学が、世界のバグを叩き潰す!
神々すらもその存在を恐れた次元の特異点、『虚無の庭園』が崩壊し、宇宙の法則が本来の軌道を取り戻してから、およそ半年の時間が緩やかに流れ去っていた。
凍てつくような氷雨と灰色の雲に覆われていた日本列島は、長く厳しい冬を越え、柔らかな陽光と生命の息吹に満ちた春の気配に包まれ始めていた。
兵庫県神戸市。
六甲の山並みから吹き降ろす風は、もはや肌を刺すような冷たさではなく、花の蕾を優しく撫でるような温もりを帯びている。
西洋建築の洋館が点在する閑静な山手から、海へと続く長い坂道。その道沿いに植えられた桜の並木は、まだ満開とはいかないまでも、薄桃色の可憐な花びらをちらほらとほころばせ、道行く人々の目を楽しませていた。
その春の陽だまりの中を、一人の少女が、指定の革鞄を手に軽やかな足取りで歩いていた。
高清水凉子。
神戸でも有数の名門、聖マリアンヌ女学院の深い青色の制服に身を包んだ彼女は、緩やかに波打つ栗色の髪を春風に揺らし、透き通るような白い肌を陽光に晒していた。その姿は、絵画から抜け出してきたかのように美しく、すれ違う誰もが思わず振り返るほどの可憐な輝きを放っている。
だが、その青い瞳の奥に、かつての彼女を支配していた「絶対零度の冷徹さ」や、全てを数値とデータで処理しようとする「無機質な機械のような眼差し」は、もはや微塵も存在しなかった。
今の彼女は、裏社会で血を流し、宇宙のバグと死闘を繰り広げた『西の堕天使』ではない。異能も記憶も全てを次元の彼方に置き去りにしてきた、ごく普通の、少しだけ大人びた雰囲気を持つ十六歳の女子高生に過ぎなかった。
「あ、凉子ちゃん! おはよう!」
坂の下から、同じ制服を着た数人の同級生たちが、大きく手を振って駆け寄ってくる。
「……おはよう。今日も、ごっついええ天気やね」
凉子は足を止め、息を切らせて集まってきた友人たちに向かって、ふわりと、そして極めて自然で柔らかい笑みを返した。
「凉子ちゃん、今日の放学後、元町の新しいカフェ行かへん? すっごい可愛いパンケーキの店ができたらしいんよ!」
「ええなぁ。でも私、今日は放課後に図書室で調べものがあるから……ごめんな、また今度誘ってや」
「そっかー、残念! 凉子ちゃん、相変わらず真面目やねぇ」
友人たちは少し名残惜しそうに笑い合いながら、他愛のないおしゃべりを再開し、凉子と共に坂道を下っていく。
かつての彼女であれば、このような目的のない雑談や、「可愛い」という抽象的で非論理的な概念に群がる同調行動は、最も忌み嫌う『非効率的なバグ』として、冷たく切り捨てていたはずだった。
だが、今の凉子には、その「無駄」が全く不快ではなかった。
むしろ、彼女たちが楽しそうに笑い合う姿や、感情の起伏によってコロコロと変わるその表情を眺めていると、胸の奥がじんわりと温かくなるような、不思議な安心感を覚えていた。
(……なんやろ。計算も予測もできへん、行き当たりばったりの会話やのに……。ごっつい、心地ええんよな)
凉子は、友人たちの横顔を眺めながら、心の中でそっと呟いた。
その時であった。
ふと、通学路の脇に整然と刈り込まれた美しい緑の生け垣の中に、一輪だけ、季節外れの真紅の椿が咲いているのが、凉子の目に留まった。
周囲の完璧な緑の調和の中で、その赤い花だけが、まるで法則を無視して突如として出現したエラーのように、不規則で、自己主張の強い、毒々しいほどに強烈な色彩を放っていた。
かつての「完璧な秩序」を愛し、ノイズを極端に嫌悪した凉子の論理回路であれば、そのような規則性を乱す季節外れの赤い花は、「美しくない」と即座に判断し、視界の端から完全にデリートしていたはずだった。
「……」
凉子は、無意識のうちに足を止め、その真紅の椿をじっと見つめた。
(……なんやろ。ごっつい、非論理的な咲き方やね。周りの景色とも全く調和してへんし、季節の計算違いも甚だしいわ)
彼女の脳裏に、失われたはずの冷徹な思考回路が、微かな残響として一瞬だけよぎる。
だが。
(……せやけど。不思議と、嫌な気はせえへんのよな。むしろ、この不器用で、周りから浮いてでも咲き誇ろうとする熱苦しいくらいの赤い色が……なんや、ごっつい綺麗で、懐かしい気さえするんやわ)
凉子は、そっと右手を伸ばし、その真紅の花びらに触れた。
記憶も異能も失った彼女の魂。しかし、その真っ白に初期化されたシステムの、さらに奥底の基盤部分に。あの『虚無の庭園』で背中合わせに戦い、互いの存在と命を極限までぶつけ合った「赤い業火の魔女」の残した、強烈な『混沌』の熱の記憶が、決して消えることのない微細なエラーコードとして、確かに刻み込まれていたのだ。
完璧すぎる秩序は、時に冷酷で人を傷つける。ほんの少しの不規則なノイズ――「感情」や「熱」という非論理的なバグを許容することによってのみ、システムはより豊かで、血の通った、真に美しいものへと進化することができる。
「……綺麗な赤やね」
凉子は、自らの内に生じたその小さな、しかし確かな「熱」を愛おしむように微笑み、再び友人たちの待つ坂道へと歩き出した。
その彼女の後ろ姿を、少し離れた場所に停められた黒い高級車の運転席から、詫間亨が静かに、そして狂気的なほどの献身の眼差しで見守っていた。
彼の両腕の火傷の痕はスーツに隠れて見えない。彼は、ただの女子高生となった凉子の、この脆くも美しい「完璧な日常」を、自らの命に代えても守り抜くという新たなる論理を胸に刻み、エンジンを静かに発進させたのである。
同じ頃、神奈川県横浜市。
深夜、午前二時。冷たい春雨が、港町のネオンを滲ませながら、アスファルトを冷たく叩いている。
本牧埠頭の、打ち捨てられた第七D倉庫。
そこはかつて、東の魔女と西の堕天使が初めて激突し、互いの美学を容赦なくぶつけ合い、凄まじい不協和音を奏でた因果の場所であった。
そのシャッターの閉ざされた薄暗い倉庫の内部に、数人の屈強な男たちの、恐怖に引き攣ったくぐもった悲鳴と、濃密な血とオゾンの匂いが充満していた。
彼らは、関東一円で違法な薬物売買や、若者たちを標的にした非合法な臓器売買を裏で操っていた、凶悪な半グレ集団の幹部たちであった。かつての『アルカディア財団』の崩壊によって生じた裏社会の空白地帯をハイエナのように狙い、新たなシノギを広げようと蠢いていた、欲望のままに生きる薄汚い罪人たち。
だが今、彼らは手足を太い鋼鉄の鎖で天井のH鋼から吊され、自らの流す血だまりの上で、まるで屠殺場に引き出された豚のようにガタガタと恐怖に震え上がっていた。
「……本当に、あなた様方は学習能力というものがありませんのね」
コツ、コツ、と。
冷たいコンクリートの床に、ヒールの音を静かに響かせながら、漆黒のゴシック調のドレスコートを翻し、一人の少女が闇の中から姿を現した。
北條孝子であった。
白磁のように滑らかな肌。深い闇に溶け込むような黒髪のおかっぱ。そして、漆黒の瞳の奥に宿る、底知れぬ狂気と、獲物を前にした極北の肉食獣のようなサディズムの赤い光。
「何度わたくしがこの街で『お稽古』をつけて差し上げても、次から次へと、自分の醜い欲望を制御できない哀れなゴミどもが湧いてくる。……地獄の釜の底で煮込まれている亡者たちの方が、まだしも規則正しくて、聞き分けがよろしくてよ」
孝子の右手には、氷のように冷たく妖しい光を放つ、呪われた『千枚通し』が鈍く光っている。
「ひ、ひぃぃッ! た、助けてくれ! 許してくれ! 二度と、横浜のシマには手を出さねえ! 金ならいくらでも払うから、その針を……ッ!」
リーダー格の男が、顔を涙と鼻水、そして自らの血でぐしゃぐしゃにしながら、絶望的な命乞いを叫ぶ。
「あらあら。命乞いとは、相変わらず見苦しいですわね。その無様な姿を見るのは決して嫌いではありませんけれど、あなた様方のような下等な輩の悲鳴は、どうにも単調で、わたくしの耳にはひどく退屈に響きますのよ」
孝子は、妖艶で、そして血も凍るほどに残酷な笑みを浮かべ、男の眼前に優雅に歩み寄った。
かつての孝子であれば、ここで自らの魂の底から湧き上がる地獄の業火を、感情の赴くままに無秩序に撒き散らしていたはずだった。男たちの身体を無駄に広く焼き焦がし、その雑多で耳障りな悲鳴の合唱を、ただ圧倒的な暴力の優位性として楽しんでいたはずであった。
感情に任せた、ただ暴力的で泥臭く、非効率的な「混沌」の力による制裁。
だが。
今の孝子は違った。
彼女は、千枚通しを持つ右手に力を込めながらも、地獄の炎を一切外へと漏らさなかったのだ。
彼女は、自らの内に渦巻く莫大な熱量とサディズムの全てを、極限まで圧縮し、コントロールし、千枚通しの極小の切っ先一点にのみ完全に収束させたのである。
「……それでは、お稽古の総仕上げといきましょうか」
孝子は、一切の無駄な動作を省いた、まるで精密に計算された機械仕掛けの歯車のような、完璧で無音のステップを踏んで男の懐に滑り込んだ。
そして、相手の肉体の構造、神経が最も鋭敏に集中して反応し、かつ出血多量による致命傷には至らない「完璧な座標」――右肩甲骨の数ミリの隙間を、自らの脳内で寸分の狂いもなく瞬時に演算し、穿ったのである。
ズチュゥゥッ……!
炎は上がらない。ただ、圧縮された地獄の苦痛という概念だけが、針先から男の中枢神経へと直接、そして極めて効率的に流し込まれた。
「ギィィィィィヤアアアアアアアアアアアアァァァァァッ!!!」
男は、かつての犠牲者たちよりも遥かに純度が高く、そして一点に集中された極限の痛覚の暴走に白目を剥き、全身の筋肉を硬直させた。
それは、ただ喚き散らすだけの雑音ではない。極限の苦痛によって研ぎ澄まされた、まるでオペラ歌手が発する高音のような、恐ろしく美しく、そして一本の線のように透き通った「極上の悲鳴」であった。男はそのまま、魂の底まで焼き尽くされたかのように意識を失い、だらりと首を垂れた。
周囲で吊されていた他の男たちも、そのあまりにも洗練された、無駄のない残酷な一撃と、リーダーの放った異常な悲鳴に、恐怖で完全に声を失い、次々と白目を剥いて泡を吹き、失神していった。
「……素晴らしい。我ながら、完璧な角度と、計算し尽くされた出力でしたわ」
孝子は、一滴の血も付着していない千枚通しを優雅な動作で引き抜き、極上のワインを味わった後のように、満足げで熱を帯びた溜め息をついた。
「……お見事でございやす、お嬢様」
背後の、倉庫の暗い影の中から、ノイズのように微かに明滅するガーディの姿が浮かび上がり、畏怖の念を込めて深く頭を下げた。
「以前のような派手で暴力的な業火も恐ろしいものでやしたが……今の、その一切の無駄を完全に削ぎ落とした、氷のように冷徹な一撃。……背筋が凍るほどの、至高の芸術的拷問でさァ。地獄の閻魔大王様でさえ、あそこまで精密な苦痛を与えることはできやせん」
「ふふふ。当たり前ですわ。わたくしを誰だと思っておいでですの?」
孝子は、千枚通しをスカートのガーターベルトに静かに収め、倉庫の天窓から差し込む冷たい春雨の夜空を見上げた。
彼女の魂の最も深く、決して誰も触れることのできない奥底には。
あの『虚無の庭園』で、自らを犠牲にして道をこじ開けた高清水凉子が、最後に彼女の脳髄に直接インストールした「絶対的な論理」の演算式と、戦術予測アルゴリズムの残滓が、微かな『青い色』として、強固なシステムとして確実に刻み込まれていたのだ。
感情任せの無秩序な混沌は、究極の「論理」と「効率」という強靭な骨組みを得ることで、より洗練された、背筋の凍るような極上の芸術へと昇華される。
孝子は、自らの内に取り込まれた、あの憎らしくも鼻持ちならない堕天使の「秩序」の力を、今や自らの美学を完成させるための最高のスパイスとして、完全に飼い慣らし、自らのものとしていたのである。
「……わたくしの芸術は、まだまだ進化し続けますわ。あの血の通わないお人形がわたくしの中に遺した、この退屈で計算高い『論理』を利用して、どこまでも高く、残酷に、美しくね」
孝子は、雨の降る夜空に向かって、誰よりも美しく、そして高慢な笑みを浮かべた。
「……ですから、せいぜい待っていて差し上げますわ、堕天使様。あなた様が、その宇宙の底に溶け込んだ完璧なシステムを再起動させて、再びわたくしの前に、そのすました顔で現れるその日まで。……その時こそ、あなた様のその論理を完膚なきまでにへし折り、永遠の絶望の悲鳴を奏でさせてさしあげますわ」
赤い炎の魔女は、自らの内に宿る青い稲妻の残響を愛おしむように抱きしめながら、冷たい雨の降る横浜の闇の中へと、優雅な足取りで静かに消えていった。
東の魔女と、西の堕天使。
あの日、世界の終わりと始まりの狭間、『虚無の庭園』で、互いの命を削り合い、魂を極限まで共鳴させた二人の少女。
彼女たちの人生の軌道が、今後、再び交わることがあるのかどうかは、神々すらも知る由はない。
異能と記憶を失い、不確定なバグである「人の温もり」を自らの内に受け入れた、かつての「秩序」の少女は、穏やかな春の光の射す、表の世界の日常を。
異能を極め、完璧な「論理」という冷徹な骨組みを手に入れた「混沌」の少女は、果てしなく暗く冷たい、裏の世界の非日常を。
それぞれが、互いの魂に深く刻み込まれた、決して消えることのない「相手の色」を抱えながら。
交わることのない二つの凶刃は、今は別々の鞘に収まり、全く異なる「明日」という名の人生を、力強く、そしてどこまでも美しく歩き出していく。
偽りの鎮魂歌は、ここに静かに終わりを告げた。
だが、二つの相反する魂が奏でた、あの鮮烈で、狂気に満ちた『不協和音』の残響だけは。
いつまでも、いつまでも、この世界のどこかで、密かに鳴り響き続けているのである。
X(Twitter)では脚本版などもつぶやいています。
https://x.com/TakumiFuji2025
決して交わらない「混沌」と「秩序」が奏でる、狂気と美学のダークファンタジー。神すら震える極上の不協和音を、とくと味わいなさいませ!




