第三章 黒椿の契約 第二節 祇園の密会
交わるのは殺意のみ。相容れない二人の美学が、世界のバグを叩き潰す!
その日の夜、古都・京都は、芯から冷え込むような氷雨に包まれていた。
祇園・花見小路。日本の伝統と美意識が極まるこの街も、冷たい夜の雨に打たれ、石畳は街灯や提灯の柔らかな光を濡れた鏡のように反射している。紅殻格子の茶屋が軒を連ねる風情ある景色の中、傘を差して行き交う人々の足取りは足早で、何処か得体の知れない不安に急かされているようであった。
その花見小路の一角に、ひときわ格式高く、一見さんお断りの暖簾を頑なに守り続ける老舗の御茶屋『一力亭』があった。
普段ならば、政財界の大物や文化人たちが贔屓にし、三味線の音と芸舞妓たちの華やかな笑い声が漏れ聞こえるはずのその名店は、今夜に限って、全ての一般客と常連客の予約を断り、完全な「貸し切り」状態とされていた。
その一力亭の最も奥深く、美しい枯山水の中庭を望むことができる、普段は選ばれた者しか通されることのない特別で広大な座敷。
そこに、二人の少女が、音もなく静かに座していた。
互いを隔てるのは、黒塗りの最高級の漆で仕上げられた重厚な座卓が一つだけである。
上座に座る北條孝子は、この日のためだけに特別にあつらえた、大正ロマンの退廃的な雰囲気を色濃く漂わせるアンティークの振り袖に身を包んでいた。漆黒の絹地に、まるで新鮮な血を吸って咲き誇るかのような、毒々しくも鮮やかな赤い椿が大胆に描かれている。彼女の艶やかな黒髪のおかっぱと、白磁のように滑らかで生気を感じさせない肌が、その暗い情熱を放つ着物と絶妙なコントラストを生み出し、彼女の内に秘められた「地獄の混沌」を美しく体現していた。
対する下座に座る高清水凉子もまた、この格調高い場にふさわしい、寸分の隙も狂いもない完璧な仕立ての加賀友禅の振り袖を纏っていた。純白の絹地に、計算し尽くされた幾何学模様のように正確に配置された、深い青色の桔梗の花々。彼女の緩やかに波打つ栗色の髪と、氷の彫刻のように感情を排した美しい顔立ちが、その清潔で冷ややかな着物と完全に調和し、彼女の信奉する「天の秩序」を圧倒的な存在感で放っていた。
広大な座敷の中には、最上級の伽羅の線香の香りが重く漂い、二人の間には、言葉という物理的な音声は一切存在しなかった。
孝子は、畳の上に置かれた自らの扇子を指先で弄りながら、獲物を値踏みするような残酷な笑みを口元に浮かべ、相手の完璧すぎる着こなしを品定めするように眺めている。
(……相変わらず、血の通っていないお人形のような顔ですこと。その純白の着物、わたくしの地獄の炎で真っ黒な炭に変え、赤い血で染め上げてさしあげたい衝動に駆られますわ)
凉子は、微動だにせず、氷のように冷たく無機質な青い瞳で、孝子の振り袖に描かれた椿の「非対称性」を、心の底から不愉快そうに眺め返している。
(……ごっつい、美しくないわ。計算も法則性もあらへん、ただの感情任せの柄。あの赤い色を見とうだけで、私の完璧な論理の内にバグが走るんや。一秒でも早く、この下品な空間ごと完全に浄化してしまいたいわ)
互いの内面に渦巻く強烈な殺意と嫌悪感は、もしこの場に一般人がいれば、その重圧だけで呼吸困難に陥るほどの凄まじい密度で空間を満たしていた。だが、二人がこの場で即座に殺し合いを始めないのには、明確な理由があった。
彼女たちの最強の盾であり、矛であるサポート役――地獄の番人ガーディと、天才発明家の詫間亨の二人が、この座敷の「外側」で、完全に隔離され、待機を余儀なくされていたからである。
一力亭の周囲には、『神託』が張り巡らせたと思われる、常軌を逸した多重の結界が敷かれていた。
ガーディの持つ、数キロ先の魂の動きすら見通すはずの地獄の『目』は、この座敷の空間に触れた瞬間、真っ白なノイズに弾き返され、中の様子を一切窺うことができなかった。
亨が神戸のラボから展開した、軍事レベルの超並列ハッキングや衛星からの光学スキャンも、この一力亭を覆う不可視のドームの前では、全て「対象が存在しない(エラー)」として処理されてしまっていた。
通信は完全に遮断されている。二人の少女は、自らの持つ異能の武器――孝子は帯の裏に隠した『千枚通し』を、凉子は袖の中に忍ばせた超小型の『ショック棒』を、いつでも抜けるように筋肉を極限まで緊張させながら、丸腰に近い状態で、謎の主催者を待ち受けていたのだ。
張りの詰めた氷の糸のような静寂が、永遠にも似た数十分間続いた。
やがて。
「――お待たせいたしました」
その息苦しい静寂を破り、重厚な金襖が、衣擦れの音一つ、建て付けの軋む音一つ立てずに、まるで自動ドアのように静かに、スゥッと開かれた。
部屋に入ってきたのは、一人の奇妙な女性であった。
年齢は、全く推測できなかった。三十代の脂の乗った妖艶な女のようにも見えれば、数百年を生き抜いた六十代の老女の持つ底知れぬ凄みもある。まるで、この世の全ての時間を超越したかのような、あるいは時間の概念そのものが彼女の周囲だけ歪んでいるかのような、不可思議で圧倒的な存在感。
彼女が身に纏っている着物は、一見するとただの漆黒の無地に見えた。だが、廊下からのわずかな光の加減で、その黒が、ある時は毒々しい虹色に、ある時は星々を飲み込む宇宙の深淵そのもののように、ゆらゆらと不気味に揺らめいて見えた。人間の織物技術では絶対に到達できない、未知の物質で構成された布地であった。
その女は、二人の少女の正面、黒塗りの座卓を挟んだ位置に、足音を全く立てずに滑るように歩み寄り、音もなく座した。
「初めまして、赤き混沌の使徒、北條孝子様。青き秩序の堕天使、高清水凉子様」
女の声は、上質な銀の鈴を転がすように美しく透き通っていた。しかし、その響きは、はるか地獄の底の氷の湖から響いてくるかのように、どこまでも無機質で、冷たかった。
「わたくしが、偉大なる『神託』の代行者。……そう、『観測者』とでも、お呼びくださいまし」
女は、自らを「観測者・黒椿」と名乗った。その顔には、一切の感情の揺らぎがない、完璧に作り物めいた微笑みが張り付いていた。
「あなた様の、その悪趣味で執拗な『観測』のせいで、わたくしの優雅な日常は、ひどく退屈で息苦しいものになりましたわ」
孝子が、手にしていた扇子をパチンと開き、その美しい柄で口元を隠しながら、氷の刃のような皮肉を放った。
「あのような監視の真似事、地獄の最下層の罪人すら嫌がる下等な行為ですわよ。……今すぐ、その汚らしい視線をわたくしからお外しになって。さもなくば、この場でその眼球をえぐり出してさしあげますわよ」
「……その下品な視線、わたくしの『美学』に完全に反しとんねん」
凉子もまた、姿勢を微塵も崩すことなく、絶対零度の冷徹な声で言い放った。
「他人のシステムに無許可でアクセスし、バックドアを仕掛けるなんて、論理的にも道義的にも最悪のバグやわ。……今すぐ、おやめなさい。さもなきゃ、あんたのそのバグだらけの存在ごと、わたくしがここで完全にデリートしたる」
「フフフ……」
黒椿は、当代最強と謳われる二人の少女殺し屋からの、空間をひび割れさせるほどの濃厚な殺意と敵意を全身に浴びながらも、まるで心地よい春のそよ風でも受けているかのように、心底楽しそうに笑い声を漏らした。
「素晴らしい。実に、お二人らしい。その一切交わることのない、互いを完全に否定し合う純粋な『殺意』と『美学』。……それこそが、我ら『神託』が求めている、新たなる世界の『礎』となる極上のエネルギーなのです」
「礎、ですって?」
孝子が、不愉快そうに柳眉をひそめる。
黒椿は、懐の宇宙の深淵のように揺らめく布地の中から、ゆっくりと、二つの漆黒の封筒を取り出し、座卓の上に置いた。
「先日の、富士の樹海での『実験』……誠に見事でした。お二方の魂が、極限の生存本能と強烈なエゴによって反発し合いながらも、結果的に交じり合い、奏でた、あの破壊的な『不協和音』。……あれこそが、我らが長年求め続けてきた、新たなる『神』の産声だったのです」
「「神……?」」
二人の少女の声が、全く同じタイミングで重なった。
「そう。神、です。古き、そしてひどく退屈な神々――天界を統べる天照や、地獄を管理する閻魔が作り上げた、あの停滞しきった偽りの『調和』の世界。それを根底から破壊し、この地上に、真の『混沌』と『秩序』が永遠にせめぎ合い、血を流し合いながら進化を続ける、刺激的で、果てしなく美しい、新たなる『遊戯盤』を創造する。それこそが、我ら『神託』の最終目的」
黒椿の無機質だった瞳の奥に、初めて、狂信的でドロドロとした黒い光が宿った。
「そして、お二人には、その新世界の『神』となっていただく」
「……お断りいたしますわ」
凉子が、一切の躊躇いもなく即座に拒絶した。
「わたくしは、美しくないノイズとバグをこの世から排除するだけ。神になるやなんて、そんな下品で非論理的な欲望には、一ミリも興味あらへんわ。あんたらの狂った計画に、わたくしを巻き込まんでちょうだい」
「わたくしも、お断りですわ」
孝子も、扇子を音を立てて閉じ、黒椿を冷酷に睨みつけた。
「わたくしは、ただ、わたくしが望む時に、わたくしのやり方で、罪人たちを『お稽古』して絶望させたいだけ。誰かの用意した盤上の駒になるなど、地獄の底の汚泥を舐めるよりも反吐が出ますわ。……さあ、無駄話は終わりですわ。今すぐここから退きなさいあそばせ」
「……ええ、分かっております。お二人が、自らの意志を曲げない気高き存在であることは」
黒椿は、二人の拒絶を最初から想定していたかのように、その狂気的な笑みをさらに深くした。
「ですから、あなた様方が、自らの意志で、結果的にその道を『選ぶ』ように……我々は、最高に刺激的で、最悪な新たなる『ゲーム』をご用意いたしましたの」
彼女は、黒漆の座卓の上に置かれた二つの黒い封筒を、白い指先でツーッと滑らせ、それぞれ孝子と凉子の目の前へと移動させた。
「さあ、開けてごらんなさいまし」
孝子が、警戒しながらもその封筒を手に取り、中身を引き出した。
中に入っていたのは、一枚の高画質な写真であった。
そこに写っていたのは、神戸の高清水家の豪邸、その防音設備が施された音楽室の窓越しから盗撮された、高清水凉子の姿だった。深い青色の制服を着て、優雅に、そして完璧なフォームでヴァイオリンを弾いている彼女の「無防備な日常」の瞬間。
「……これは? なんの嫌がらせですの?」
孝子が、怪訝そうに目を細める。
「『神託』からの、あなた様への次なる『契約』ですわ、北條孝子様」
黒椿が、歌うように告げた。
「その女……高清水凉子を、『狩り』なさい。……ただし、殺してはなりません。彼女の命を奪うことなく、生け捕りにして、我々の元へ引き渡すのです。見事成功すれば、あなた様を、あの忌まわしい地獄の番人の監視と、冥府からの追っ手の呪縛から完全に解放し、この地上での永遠の『絶対的な自由』を差し上げましょう」
一方、凉子もまた、もう一つの封筒を開け、中身を確認していた。
そこに入っていたのは、横浜の歴史ある女学館の校庭で、濃紺のセーラー服を着て、取り巻きの友人たちと楽しそうに談笑している、北條孝子の「偽りの日常」を完璧に捉えた盗撮写真であった。
「……ダボが。どういう意味なん、これ」
凉子の声の温度が、一気に絶対零度まで下がった。
「『契約』ですわ、高清水凉子様」
黒椿は、凉子に向かっても同じように微笑んだ。
「その女……北條孝子を、『浄化』なさい。……ただし、殺してはなりません。彼女の持つ地獄の力を完全に封じ込め、生きたまま我々の元へ引き渡すのです。見事成功すれば、あなた様を、あの忌まわしい天界の監視ネットワークの呪縛から完全に解放し、あなた様が望む、ノイズの存在しない完璧なる『秩序』の世界を、お与えしましょう」
二人の少女は、手元の写真と、目の前の黒椿の狂気に満ちた顔を、交互に見比べた。
互いの日常を、完全に把握され、踏みにじられている。その事実が、二人の自尊心を激しく逆撫でしていた。
「……もし、わたくしが、このふざけた契約を断ったら?」
孝子が、声のトーンを極限まで落とし、千枚通しを握る右手に力を込めながら尋ねた。
「その時は」
黒椿の笑みが、この世の全てを嘲るように深くなる。
「お二人が、あの横浜の本牧埠頭で繰り広げた、血生臭い秘密の『お遊戯』の高画質な映像。……そして、富士の地下要塞で、バケモノのように暴走した『実験』の映像。……それらの全てを、インターネットを通じて世界中に公開し、さらに、ご両親の職場や、学校の友人たちの手元に、直接郵送させていただくまでです」
「なっ……!」
「警察も、マスコミも、そして、何よりあなた様方が愛してやまない『平凡なご両親』や『ご友人』たちが、あなた様方の正体を知り……その完璧な『日常』を、一瞬にして破壊しに来るでしょうねえ。軽蔑と、恐怖の目を向けられながら生きる世界は、さぞかし居心地がよろしいでしょう」
最悪の、そして一切の逃げ道を塞ぐ完璧な脅迫であった。
そして、最悪の二者択一。
『神託』は、二人の少女が互いを最も憎み、己の美学にかけて最も排除したいと願っていることを完全に理解した上で、この「共食い」のゲームを仕掛けたのだ。互いを殺すのではなく、生け捕りにするという難題を課すことで、二人の能力の限界値を引き出し、さらなる「融合」のデータを抽出しようとしているのは明白だった。
「ああ、それから」
黒椿は、着物の裾を優雅に翻して立ち上がり、座敷を去る間際に、決定的な、そして最も残酷な一言を付け加えた。
「この『契約』には、厳格な期限がございます。……ちょうど、一週間。もし、一週間以内に、どちらも『獲物』を仕留められなかった場合……あるいは、どちらかが死んでしまった場合」
彼女は、振り返り、美しく、そして底知れぬほどに残酷に微笑んだ。
「お二人の、大切な大切な『サポート役』……。外で待機していらっしゃる、ガーディ様と、詫間亨様。そのお二人の魂を、『神託』が責任を持って、この宇宙から完全に『処分』させていただきますわ。……彼らの命を救いたければ、相手を狩るしかありませんのよ」
音もなく、重厚な金襖が静かに閉ざされた。
広大な座敷に後に残されたのは、圧倒的な殺意と絶望に凍てつく二人の少女と、卓上に残された二つの黒い契約書だけであった。
東の魔女と、西の堕天使。
互いを「狩り」、この忌まわしい因縁に決着をつけて自由を手にするか。
それとも、躊躇い、愛する唯一の「家族」であるサポート役の命を失うか。
選択肢など、最初から存在しなかった。
『神託』が周到に仕掛けた、逃げ場のない最終テスト。
互いの血と美学を代償にする、狂気の「共食いゲーム」の冷たい幕が、雨の祇園の夜に、残酷に上がりきったのであった。
X(Twitter)では脚本版などもつぶやいています。
https://x.com/TakumiFuji2025
決して交わらない「混沌」と「秩序」が奏でる、狂気と美学のダークファンタジー。神すら震える極上の不協和音を、とくと味わいなさいませ!




