第三章 黒椿の契約 第一節 魂の汚染
交わるのは殺意のみ。相容れない二人の美学が、世界のバグを叩き潰す!
富士の裾野に広がる青木ヶ原樹海で、あの悍ましい「融合」の暴走を生き延びた二つの魂は、夜明けの冷たい空気と共に、それぞれの偽りの日常へと帰還を果たした。
だが、東の魔女と西の堕天使が、あの巨大な地下要塞からそれぞれのホームグラウンドへと持ち帰ったものは、過酷な任務を完遂したという達成感でも、共通の敵を退けたという勝利の凱歌でもなかった。それは、自らの存在理由そのものを根底から激しく揺るがし、ひび割れさせる強烈な「違和感」と、魂の最も純粋な部分に深く刻み込まれてしまった「汚染」の記憶であった。
神奈川県横浜市中区、山手。
北條家の豪奢な浴室では、湯船に張られた熱い湯から、乳白色の湯気と高級な薔薇の香油の匂いが立ち上っていた。北條孝子は、富士の泥と返り血、そして『虚無』の番人に命を吸われかけた生気のない青白い肌を清めるため、一時間以上もバスタブに身を沈めていた。
だが、何度肌をこすり洗っても、何度熱い湯を浴びても、あの感覚だけが消えない。
孝子は、湯からすくい上げた自らの右手を、ひどく忌ま忌ましげに見つめた。白魚のようなその美しい指先には、今もまだ、青白い電撃のスパークの残滓が、パチパチと微かな幻影となって纏わりついているように見えた。
(……気持ちが、悪いですわ。吐き気がいたします)
地獄の混沌たる、対象に灼熱の「苦痛」をゆっくりと与える赤い炎。それこそが、わたくしが地獄の底で見出した絶対的な美学であり、わたくしという存在の全て。だが、あの瞬間、あの忌まわしくも鼻持ちならない堕天使の力と強引に共鳴させられた時、この右手に流れ込んできたのは、秩序の、あの冷たく、無機質で、苦痛を与えることすら放棄した「浄化」の雷だった。
(美しくない。どこまでも非効率で、無粋な力。地獄の住人たるこのわたくしの気高い魂が、あんな血の通わない人形のような天の力に汚されてしまった。わたくしの芸術の中に、一滴の不純な青いインクが垂らされてしまった……!)
その事実が、孝子の完璧であった精神の結界に、初めて「焦燥」という名の醜いヒビを入れていた。
湯浴みを終え、上質なシルクのガウンを身に纏った孝子は、自室のアンティークな鏡台の前に深く腰を下ろした。鏡に映る自分の姿は、いつも通りの、古風で非の打ち所のない美しき女学生である。だが、その漆黒の瞳の奥には、自らの魂が「犯された」ことへの強烈な怒りが、どす黒いマグマのように渦巻いていた。
「……ガーディ」
孝子が低く冷たい声で呼ぶと、鏡台の足元に落ちていた影がズルリと這い上がり、長身痩躯の執事の姿を成した。
「へっ。お呼びでございやすか、お嬢様。お加減はいかがで……」
「気分は最悪ですわ。わたくしの魂の中に、あの女の薄気味悪い青いノイズがこびりついて離れませんのよ」
孝子は、銀細工のヘアブラシで黒髪を強く梳かしながら、ギリッと歯噛みした。
「昨夜のあの『融合』……あれは、一体何ですの? わたくしとあの女の力が混ざり合い、あのようなデタラメな破壊の竜巻を生み出すなんて。理屈に合いませんわ」
ガーディの顔の半分を覆う影が、恐怖と畏れに激しく揺らめいた。彼の声は、いつになく深刻な響きを帯びていた。
「お嬢様。昨夜のあの現象……あれは、この宇宙において、決してあってはならぬ事象にございやすぜ。冥府の最奥深く、閻魔大王様すらも口にすることを忌み嫌う古文書にのみ記された、最大の禁忌でさァ」
「禁忌、ですって?」
「へっ。光と闇、秩序と混沌、生と死。相反する二つの絶対的な理を無理やり交わらせ、この次元に新たなる『神』を創り出す、禁断の神造術。……あの『神託』と名乗るバケモノは、最初から、これがお目当てだったのですぜ。我々は、奴らがその禁忌を証明するための、モルモットにされたんでさァ」
「……分かっておりますわ。わたくしたちが、あの得体の知れない輩の掌の上で踊らされていたことなど」
孝子は、ヘアブラシを鏡台の上に叩きつけるように置き、その冷徹な目で鏡越しのガーディを睨みつけた。
「ですが、そんなことは今のわたくしにとってはどうでもいいことですの。最大の問題は、わたくしの純粋な魂に、あの堕天使の『色』が混じってしまったこと。……あの、全てを冷たく見下すような、氷のような瞳」
孝子は、千枚通しが入ったアタッシェケースに視線を向け、右手を強く握りしめた。
「早くあの女を『懲らしめ』、その綺麗な顔が絶望と苦痛に醜く歪むのを特等席で眺めなければ、わたくしの魂の純粋性は、永遠に取り戻せませんわ。ええ、必ず……あの女を、わたくしの針で串刺しにしてさしあげます」
時を同じくして、兵庫県神戸市垂水区。
高清水家の広大な敷地の奥、完全な防音設備が施された音楽室の空気は、張り詰めた氷のように冷え切っていた。
高清水凉子は、朝のシャワーを浴び終え、清潔な純白のローブを纏った姿で、部屋の中央に立ち、数億円の価値がある名器ストラディバリウスを構えていた。彼女は、自らの魂にこびりついた不浄な感覚を洗い流すかのように、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番『シャコンヌ』を奏でようとしていた。
彼女の演奏は、常に完璧な数学的調和と、寸分の狂いもない論理の結晶であるはずだった。
だが。
キィィィィィン……ッ!
美しいはずの旋律が、突如として耳障りな不協和音となって歪んだ。
「……ッ!」
凉子は、忌ま忌ましげに弓を止め、自らの左手を見下ろした。
弦を押さえる彼女の左腕には、火傷の痕など物理的には一切存在しない。だが、彼女の研ぎ澄まされた精神の目には、あの日、孝子の電光剣から迸った地獄の「赤い炎」の残滓が、まるで醜いケロイドのように肌にこびりつき、チロチロと不快な熱を放っているのがはっきりと知覚されていた。
(……ごっつい、美しくないわ)
凉子の美しい顔が、これまでにないほどの激しい嫌悪感に歪んだ。
論理と秩序の絶対的な体現者であるべき私の魂に、あの非論理的で、感情的で、ただ相手を嬲るためだけの獣のような「混沌」の熱が混じり込んでしもうた。あんな残忍で下品な女と、一瞬とはいえ、魂の最も深い部分で共鳴してしもうた。
その事実が、凉子が天界を捨ててまで守り抜こうとした完璧な美学を、根底からドロドロに汚染していたのである。
「――凉子様。お加減はいかがですか」
音楽室の扉が開き、詫間亨が静かに足を踏み入れた。彼の腕には、幾つもの分厚いデータファイルが表示されたタブレットが抱えられている。
「……最悪やわ、亨さん。私のシステムの中に、あの赤い炎のバグが常駐しとう。シャコンヌの完璧な和音すら、まともに弾けへんのやから」
凉子がストラディバリウスをケースに投げ入れるように収めると、亨は痛ましげに目を伏せ、タブレットの画面を彼女に提示した。
「地下ラボのメインフレームで、昨夜の戦闘データの三次解析が完了しました。結論から申し上げます。……あの『融合』は、制御不能な純粋なバグの極致です」
「どういう意味なん」
「文字通りです。あの赤と青の螺旋エネルギーは、凉子様の極限の論理演算能力も、相手の混沌衝動も、一切受け付けなかった。あれは、二つの相反する魂が、互いへの『絶対的な殺意』と『強烈な拒絶』を触媒にして、偶発的に発生した、宇宙の法則を破壊するエネルギーです。……もし、あの場にもう三十秒留まっていれば、お二人は自らの力の暴走によって、魂の構成物質ごと完全に消滅していました」
「……そんなデタラメな力が、この私の中から生まれた言うのんか」
「そして、最悪の報告がもう一つ。『神託』は、あの制御不能な暴走データを、要塞の崩壊の最中にもかかわらず全て収集しています。奴らの目的は、あの『神の力』とも呼ぶべきエネルギーを、意図的に、そして安定的にこの次元で再現することでしょう。そのために、凉子様と、あの『赤い閃光』が、生きた実験装置として必要不可欠なのです」
「……」
凉子は、窓の外の灰色の空を、絶対零度の氷のような瞳で見据えた。
「つまり、私たちは、あの下品で野蛮なネズミ女と『セット』で、ええように実験動物にされた、いうことやね」
凉子の青い瞳の奥で、恐ろしいほどの怒りの雷光が静かに、しかし確実に明滅を始めた。
「次に会う時は、必ず……わたくしの『雷』で、あの女の存在そのものを、この世のシステムから完全に消去する。そうでなければ、わたくしの『秩序』は、永遠に取り戻せへんわ……!」
富士の樹海での激闘から、およそ一ヶ月が経過した。
『神託』からの接触は、あの日以来ぱたりと途絶えた。関東鋭爪会も、関西侠友連合も、そして表社会の警察組織も、何事もなかったかのように平穏な日常を取り戻している。
孝子も、凉子も、それぞれの学校で、完璧な「お嬢様」としての日常のルーティンを演じ続けていた。
だが、二人は、自らの研ぎ澄まされた魂の奥底で、常に感じていた。
あの富士の地下要塞から戻って以来、何者かの「視線」が、四六時中、自分たちにねっとりと注がれていることを。
横浜、聖黒椿女学館。
色づいた銀杏並木が見える教室の窓際で、孝子は休み時間に一人、優雅に紅茶のマイボトルを傾けながら、ふと虚空を睨みつけた。
「……ガーディ。最近、どうも不愉快な視線を感じますの。あなた様の『目』とはまた違う、ひどく無機質で、ねっとりとした、気色の悪い視線。心当たりはありまして?」
孝子が囁くと、黒板の陰に潜んでいたガーディが、苦渋に満ちた声で応答した。
「……申し訳ございやせん、お嬢様。我が地獄の『目』をもってしても、その視線の主の物理座標を特定できませぬ。それは、霊的な呪詛でも、人間どもの監視カメラや盗聴器による物理的なものでもねえ。……まるで、この世界の外側、次元の狭間といった遥か高みから、我々という存在そのものを『観測』しているかのような、とてつもねえ気配でさァ」
神戸、聖マリアンヌ女学院。
高度な微積分の授業中、凉子は黒板の数式をノートに書き写す手を止め、背筋を這い上がるような不快なスキャンされている感覚に、小さく身震いをした。
「……亨さん。この鬱陶しい監視プログラム、あんたの技術で排除できへんの?」
凉子が、伊達眼鏡の通信機を通じて苛立ちをぶつける。
『……不可能です、凉子様』
地下ラボにいる亨の焦燥した声が、補聴器から響く。
『日本中のあらゆる監視カメラ、盗聴器、衛星回線、全てを常時チェックしていますが、物理的な異常は一切ありません。ですが、このラボの超並列メインサーバーにさえ、正体不明の、しかし極めて微弱なアクセスが常時行われています。それは、データを盗むハッキングではない。……まるで、我々の『思考』や『感情の揺らぎ』そのものを、外側から読み取ろうとしているかのような、次元の違うアクセスです』
二つのチームは、確信していた。
『神託』は、沈黙しているのではない。彼らは、彼女たちのこの「日常」そのものを、巨大な実験箱として、二十四時間態勢で「観測」しているのだ。
あの富士で起きた「融合」が、どのような精神状態、どのような条件の下で再び発動するのか。二人の少女の感情の起伏、美学の揺らぎ、その全てをデータとして収集している。この退屈な日常こそが、次なる「実験」のための前段階に過ぎないのだと。
焦燥と、見えざる敵への怒りが極限に達しようとしていた、まさにその日の夜。
事態は、唐突に、そして強制的に動き出した。
横浜の自室でベッドに横たわっていた孝子の、アンティーク調のスマートフォンの画面が、突如として真っ黒なノイズに覆われた。
神戸の自室で本を読んでいた凉子の、銀縁の伊達眼鏡のディスプレイが、突如として激しい砂嵐と共にブラックアウトした。
次の瞬間、二つのデバイスに、全く同じ、エレガントでありながら血も凍るほどに冷酷な筆記体の文字が、ゆっくりと浮かび上がった。
『――観測終了。データは十分に収集されました。
これより、フェーズ2へ移行します。
明晩二十時。京都・祇園。最も格式高き御茶屋、『一力亭』。
当方の代理人である『彼女』も、お二方をお待ちしております。
拒否は、認めません。
御二方の、そのご両親やご友人に囲まれた、輝かしくも脆い『日常』を守るために。
神託』
「「………………ッ!」」
『彼女』。
その一言が、二人の少女の魂に、再びあの忌まわしい富士での不協和音をフラッシュバックさせた。
『神託』は、再び、二つの「異常」を、同じ檻の中に閉じ込めようとしている。それも、日本の伝統と美が極まる、京都・祇園という舞台で。
「……上等ですわ。わたくしの日常を人質に取るそのふざけた真似、必ず後悔させてさしあげますわ」
孝子は、スマートフォンの画面を割れんばかりの力で握りしめ、地獄の業火のように赤い瞳を光らせた。
「……ダボが。どこまでも人の論理を舐めくさって。そのふざけたシステム、祇園の夜に完全にデリートしたるわ」
凉子は、伊達眼鏡を外し、絶対零度の青い瞳で、迫り来る決戦の夜を睨みつけた。
新たなる死のゲームへの招待状。
逃げ場のなくなった二人の少女は、互いへの殺意と、『神託』への底知れぬ怒りを胸に秘め、決戦の地である古都・京都へと向かう準備を静かに、そして冷酷に始めようとしていた。偽りの鎮魂歌は、いよいよその狂気の第二楽章へと突入していく。
X(Twitter)では脚本版などもつぶやいています。
https://x.com/TakumiFuji2025
決して交わらない「混沌」と「秩序」が奏でる、狂気と美学のダークファンタジー。神すら震える極上の不協和音を、とくと味わいなさいませ!




