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ショートショート「最後の客」

作者: 仙の豆
掲載日:2025/12/03

その日、私は午後三時に死ぬことになっていた。


朝から降り続く雨が、商店街のアーケードを叩いている。私が経営する古書店「時雨堂」には、朝開店からまだ一人も客が来ていない。いつものことだ。この店は、もう何年も前から、誰も必要としていない。


カウンターの奥に置いた古い柱時計が、静かに時を刻んでいる。あと五時間。


死ぬ、というのは正確ではない。正しくは「消える」のだ。私の痕跡が、意味が、この世界から静かに抜け落ちる。誰も気づかない。誰も悲しまない。ただ、世界の片隅で、一つの存在が音もなく消える。


三十八年間、私はこの店で働いてきた。十年前に亡くなった父から受け継いだこの店で、無数の本を並べ、整理し、埃を払ってきた。だが、時代は変わった。人々は本を読まなくなり、読む人も新刊をネットで買う。古書店など、もはや時代の残骸でしかない。


午前十時。雨脚が強くなる。


そのとき、ドアベルが鳴った。


振り返ると、一人の若い女性が店に入ってきた。びしょ濡れの髪から雨粒が滴り、彼女は困ったように笑った。


「すみません、雨宿りさせてもらえますか」


「どうぞ」


私は頷いた。彼女は礼を言い、店の奥へと進んでいった。書棚の間を縫うように歩き、時折、背表紙に指を這わせる。その仕草が、妙に懐かしかった。


十五分ほど経って、彼女が一冊の本を持ってきた。


「これ、買えますか」


差し出されたのは、村上春樹の『ノルウェイの森』だった。ただ、初版本で、カバーは少し色褪せている。


ああ、懐かしい、最後にこれが出で行くとはね。


「もちろん」


私は値段を告げた。彼女は財布から千円札を取り出した。


「実は」と彼女は言った。「母の形見なんです」


「え?」


「この本。母が若い頃、この店で買ったって日記に書いてあって。何度も読んだから、もうボロボロになっちゃって。処分するとき、同じ初版を探そうと思ったんです」


彼女は本を胸に抱いた。


「母は三年前に亡くなったんです。若くして。でも、日記には楽しそうなことばかり書いてあって。この本を買った日のことも、嬉しそうに書いてました」


私は記憶を辿った。十五年前。確かに、年が今の私ぐらいの女性が頻繁に来ていた。いつも物静かで、文庫本を丁寧に選んで買って行ってくれた。


そして、この本も、その女性のお願いで私が初めて自ら仕入れた本だった。覚えてる、彼女が初版本を見つけて、目を輝かせていた姿を覚えている。


「お名前は? お母様の」


「田村直子です」


ああ、と声が漏れた。直子さん。直子さんだ。


「覚えて、いらっしゃるんですか」


「ええ。よく来てくれました。いつも静かに本を選んでいました」


彼女は微笑んだ。その笑顔が、直子さんに似ていた。


「母の日記に、この店のことが何度も出てくるんです。『本だけじゃなくて、あの静けさが好き』って。『自分の居場所みたい』って」


私は柱時計を見た。午前十一時。あと四時間。


「ありがとうございました」


彼女は本を紙袋に入れ、店を出ようとした。


「あの」私は思わず声をかけた。「また、来てください」


彼女は振り返り、にっこりと笑った。


「はい。母が好きだった場所、私も好きになれそうです」


ドアベルが鳴り、彼女は雨の中へ消えていった。


私は一人、カウンターに座った。


外の寂れた、時が30年も前から止まっているような商店街を窓から眺めた。


不思議なことが起きた。時計の針が、止まっていた。いや、止まったのではない。時計は動いている。しかし、針が指す時刻は、午前十一時のままだった。


そして気づいた。


消える予定だったのは、私ではなかった。この店だったのだ。誰からも必要とされなくなった店。誰の記憶にも残らない店。


だが、一人の女性が、母の記憶とともに、この店を訪れた。


そして、また来ると言った。


私は立ち上がり、店内を見回した。埃をかぶった書棚。色褪せた本の背表紙。古い木の床。父が愛したこの場所。直子さんが居場所だと言ってくれたこの場所。


すべてが、まだここにある。


まだ、私はここにいる。


雨が上がり、薄日が差し込んできた。アーケードの向こうに、小さな虹が見えた。


私は雑巾を手に取り、書棚の埃を払い始めた。次に彼女が来たとき、もっと綺麗な店で迎えよう。直子さんが好きだったコーナーを、もっと充実させよう。


柱時計が、再び時を刻み始めた。


私はまだ、ここにいる。


誰かが必要としてくれる限り、私はここに居たくなった。


そして気づいた。消えるはずだった午後三時は、もう来ないのだと。


時間は、また動き始めたのだ。


商店街に、人々の声が戻ってきた。


私は、ここにいる。

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