ショートショート「最後の客」
その日、私は午後三時に死ぬことになっていた。
朝から降り続く雨が、商店街のアーケードを叩いている。私が経営する古書店「時雨堂」には、朝開店からまだ一人も客が来ていない。いつものことだ。この店は、もう何年も前から、誰も必要としていない。
カウンターの奥に置いた古い柱時計が、静かに時を刻んでいる。あと五時間。
死ぬ、というのは正確ではない。正しくは「消える」のだ。私の痕跡が、意味が、この世界から静かに抜け落ちる。誰も気づかない。誰も悲しまない。ただ、世界の片隅で、一つの存在が音もなく消える。
三十八年間、私はこの店で働いてきた。十年前に亡くなった父から受け継いだこの店で、無数の本を並べ、整理し、埃を払ってきた。だが、時代は変わった。人々は本を読まなくなり、読む人も新刊をネットで買う。古書店など、もはや時代の残骸でしかない。
午前十時。雨脚が強くなる。
そのとき、ドアベルが鳴った。
振り返ると、一人の若い女性が店に入ってきた。びしょ濡れの髪から雨粒が滴り、彼女は困ったように笑った。
「すみません、雨宿りさせてもらえますか」
「どうぞ」
私は頷いた。彼女は礼を言い、店の奥へと進んでいった。書棚の間を縫うように歩き、時折、背表紙に指を這わせる。その仕草が、妙に懐かしかった。
十五分ほど経って、彼女が一冊の本を持ってきた。
「これ、買えますか」
差し出されたのは、村上春樹の『ノルウェイの森』だった。ただ、初版本で、カバーは少し色褪せている。
ああ、懐かしい、最後にこれが出で行くとはね。
「もちろん」
私は値段を告げた。彼女は財布から千円札を取り出した。
「実は」と彼女は言った。「母の形見なんです」
「え?」
「この本。母が若い頃、この店で買ったって日記に書いてあって。何度も読んだから、もうボロボロになっちゃって。処分するとき、同じ初版を探そうと思ったんです」
彼女は本を胸に抱いた。
「母は三年前に亡くなったんです。若くして。でも、日記には楽しそうなことばかり書いてあって。この本を買った日のことも、嬉しそうに書いてました」
私は記憶を辿った。十五年前。確かに、年が今の私ぐらいの女性が頻繁に来ていた。いつも物静かで、文庫本を丁寧に選んで買って行ってくれた。
そして、この本も、その女性のお願いで私が初めて自ら仕入れた本だった。覚えてる、彼女が初版本を見つけて、目を輝かせていた姿を覚えている。
「お名前は? お母様の」
「田村直子です」
ああ、と声が漏れた。直子さん。直子さんだ。
「覚えて、いらっしゃるんですか」
「ええ。よく来てくれました。いつも静かに本を選んでいました」
彼女は微笑んだ。その笑顔が、直子さんに似ていた。
「母の日記に、この店のことが何度も出てくるんです。『本だけじゃなくて、あの静けさが好き』って。『自分の居場所みたい』って」
私は柱時計を見た。午前十一時。あと四時間。
「ありがとうございました」
彼女は本を紙袋に入れ、店を出ようとした。
「あの」私は思わず声をかけた。「また、来てください」
彼女は振り返り、にっこりと笑った。
「はい。母が好きだった場所、私も好きになれそうです」
ドアベルが鳴り、彼女は雨の中へ消えていった。
私は一人、カウンターに座った。
外の寂れた、時が30年も前から止まっているような商店街を窓から眺めた。
不思議なことが起きた。時計の針が、止まっていた。いや、止まったのではない。時計は動いている。しかし、針が指す時刻は、午前十一時のままだった。
そして気づいた。
消える予定だったのは、私ではなかった。この店だったのだ。誰からも必要とされなくなった店。誰の記憶にも残らない店。
だが、一人の女性が、母の記憶とともに、この店を訪れた。
そして、また来ると言った。
私は立ち上がり、店内を見回した。埃をかぶった書棚。色褪せた本の背表紙。古い木の床。父が愛したこの場所。直子さんが居場所だと言ってくれたこの場所。
すべてが、まだここにある。
まだ、私はここにいる。
雨が上がり、薄日が差し込んできた。アーケードの向こうに、小さな虹が見えた。
私は雑巾を手に取り、書棚の埃を払い始めた。次に彼女が来たとき、もっと綺麗な店で迎えよう。直子さんが好きだったコーナーを、もっと充実させよう。
柱時計が、再び時を刻み始めた。
私はまだ、ここにいる。
誰かが必要としてくれる限り、私はここに居たくなった。
そして気づいた。消えるはずだった午後三時は、もう来ないのだと。
時間は、また動き始めたのだ。
商店街に、人々の声が戻ってきた。
私は、ここにいる。




