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濃淡の墨々

作者: 皐月裕

 ざりざりと紙の上を筆が撫でる。凹凸のある紙に筆ペンを走らせると、濃淡が模様に見える。(ゆかり)は無心で手を動かした。安くて枚数が多い、黒と黄色の表紙が有名なスケッチブックのほとんどがモノクロだ。

 それは縁の息抜きだった。何も考えずに、筆ペンを紙の上で動かす。気がついた時には、何かの模様や、絵に見えたりすることもあるが、何の意味もない落書きが出来上がることの方が多かった。

 本来は文字を書くのに使われる筆ペンを絵で使っている人は意外と居るらしい。ただ縁のそれは、絵とは言えなかったし、縁自身も絵を描いているとは思っていなかった。それから、筆ペンで素晴らしく繊細で大胆な絵を描く人も、美しく趣のある字を書く人も、縁の傍にはいなかった。

 縁が愛用しているのは軟筆だ。鉛筆とも、シャープペンシルとも違う書き心地に感動したのは、小学生の頃だった。

 縁は書道が苦手だった。なぜだかわからないけど、半紙いっぱいにデカデカと字を書く癖があって、とても綺麗とは言えなかった。それから、書道の準備と、片付けをする時間が苦手だった。手や服に墨がつくのが嫌だったし、面倒くさいと思っていた。だから、夏休みの宿題に書道があっても、ギリギリまでやらなかった。

 書道が宿題に出た小学三年生の夏休み、お祖母ちゃんの家へ遊びに行った時、初めて筆ペンを手にした。前に書道が苦手だと言ったのを、お祖母ちゃんが覚えていて、これなら簡単に書けるから、と買って置いてくれたのだ。

「楽しい気持ちが少しでもわかれば、苦手じゃなくなるかもしれないでしょ?」

 年に一、二回ぐらいしか会わないお祖母ちゃんは、いつも縁に優しかった。のんびりと縁側に腰掛けてお茶を飲みながら、お祖母ちゃんが言ったのを今でも覚えている。

 絶対に簡単じゃないし、楽しくなんかない。そう思いながら、スーパーのチラシの裏へ筆ペンを下ろした時、縁の世界は変わった。

 するすると紙の上を走らせることが出来る。墨を擦ったり、硯へ墨汁を注ぐ量を気にしたりしなくていい、黒いマットを敷かなくても床が汚れない、その便利さに驚いた。それから、柔らかい筆をしならせる感触の楽しさを知った。


 十和田(とわだ)君は、書道何段かを持っている。友達がそう言うのを、縁はぼんやりと聞いていた。友達の話はよく聞こえなかった。教室はいつもうるさくて、縁はぼーとして過ごすことが多かった。例え教室が静かで、彼女の声がはっきり聞こえたとしても、その書道の段位がどれだけすごいものなのか、縁にはわからないだろうと思えた。

 渦中の十和田君は、窓際の一番前の席で、静かにノートを見下ろしていた。彼は休み時間もよくそうしている。誰とも話さず、かといっていじめられているわけでも、はぶられているわけでもない様子だったのが、縁には不思議だった。

 彼はノートを見下ろしているだけの時もあれば、ペンで何かを書いている時もあった。ノートはいつも同じ緑色で、授業で提出する際も同じ緑色の、シンプルな表紙のノートだった。緑が使っている白ベースにピンクや青のラインが入った物を、周りの皆もよく使っている。たまにクラスの女子が可愛らしいイラストが表紙のノートを使っていて、先生に注意されることもあるけれど、基本的に皆似たようなノートを使っている。

 十和田君はシャープペンシルを使わないみたいだ。気がつくといつも緑色の鉛筆をノートに走らせていて、それは日に日に短くなって行って、気がつくと長い鉛筆に変わっている。

 彼の筆箱は黒で、細長い形だ。ポケットやイラストはなくて、端っこに小さく何かのマークが刺繍されているだけだ。鉛筆と、消しゴムと、定規と、はさみと、ステック糊が入っているのを見たことがある。鉛筆は手に持っているのと、筆箱に入っているので二本だけ。それ以上の物が入っているのを見たことがない。

 今彼が何かを書きこんでいるノートが、さっきの授業のノートと同じ物かはわからない。十和田君が教科書とノートをしまう時、友人に声を掛けられたから、見ていない。大抵緑の十和田君観察は、そんな風にして遮られて終わる。

「ねぇ、聞いてる?」

 はっとして振り返ると友人が睨んでいた。怒りと呆れが混じった表情で、緑を見ている。

「ごめん」

 緑は出来るだけ明るく謝った。まったくもう、とか言って、友人は今までの話を説明し始めた。隣で穏やかな表情で緑を見ていた幼馴染は少し呆れ気味に息をついて、彼女を見ていた。

「それで、十和田君のお父さんは書道家なんじゃないかって噂になってるの。ほら、授業参観の時、一人だけ着物できた男の人いたでしょ? その人が十和田君のお父さんかもって」

 へー、と気のない合図地を打つ。

「結構渋くてかっこいい人だったじゃん? 十和田君のお父さん」

 彼女の中ではもうその着物の男性が、十和田君のお父さんになっているらしい。

「噂って、どこから?」

「どこって、隣のクラスの彩未(あみ)。授業参観の日に見かけて、あんなかっこいいお父さんならいいのにってぼやいてた」

 十和田君をよく知らないはずの隣のクラスの彩未さんが、そう言ったからって、どうしてそれが十和田君のお父さんだって話になるのか、と緑は内心呆れた。この噂は根拠もなくて、不確かで、それが話題になっているのが少しばかばかしく思える。

 ちらりと隣を見ると、幼馴染が同じことを思っている、そんな顔をして彼女を見ていた。


 緑は机の引き出しから、スケッチブックを取り出した。勉強机のペン立てから黒いプラスチックのキャップをつまみ出す。ふでペン<細>の字が逆さまになっている。ペン先を下に向けて立てておいていい物なのかよくわからなくて、いつもペン先は上を向いている。

 毎日のように、学校から帰ってくると緑はスケッチブックを黒く塗りつぶしていた。少しずつ模様のような物が出来てくると、それに合わせてイラストや文字のような物を添えてみる。創作活動なのか、墨と紙の無駄遣いなのかわからない緑の日課。きっとお祖母ちゃんはあの時の筆ペンがこんな風に、緑の生活に入り込むことになるとは思ってもみなかっただろう。

 肝心の書道は結局苦手なままで、字はちっともうまくならなかった。でも、ひとつ緑は自信を持てることが出来た。それは、筆ペンで書く字。

 不思議なことに、書道の筆では大振りでがさつな感じのする字が、筆ペンだと綺麗にかっこよく書ける。気がしている。誰かに見せたこともないし、別に褒められもしないけれど、緑にとっては小さな自信になっている。

「今日は、変だな」

 ずっと筆を走らせているのに、なんの模様も見えてこない。たまにそういう日がある。そういう日は大抵、ページを埋め尽くす間際まで行っても何も出てこない。不作の日。ただの黒いページになる日だ。

 墨の匂いがツンと鼻に刺さる。緑は顔を上げた。ため息をついて、背もたれに身をあずける。一息ついてからもう一度スケッチブックを見る。

 やっぱり何も見えてこない。緑はスケッチブックを閉じた。このまま続けても同じだろうから、やめておこう。

 筆ペンのキャップを閉めて、ペン立てに戻す。スケッチブックは引き出しに。

 天井を見る。特に変わらない、いつもの部屋の天井だ。

 心の中がなんだかもやもやする。

 十和田君は、あのノートに何を書いているんだろう。何も書けない日はあるんだろうか、それでノートを閉じて、こんな風にもやもやとした気持ちになるんだろうか。

 緑は目蓋を下し、やがて静かな寝息をたてはじめた。


 お祖母ちゃんは透明なケースからペンを取り出して、緑に手渡してくれた。黒い筆ペンのキャップを取って、お祖母ちゃんが用意してくれたチラシの裏紙に下した。

「お母さん、そんな物緑に渡さないで」

 母の苛立ったような声が聞こえてきたのは、緑がすっかり筆ペンに魅了された後だった。

 優しい顔で緑の字を見ていたお祖母ちゃんが立ち上がって、和室へ入って行った。振り返るとお茶がちゃぶ台に乗っていて、その傍で母が不機嫌そうな顔で立っていた。

「お菓子がないねぇ、お饅頭だそうか」

 母の言葉に全くひるまず、お祖母ちゃんは台所へゆっくり歩いて行った。お母さんは溜息を吐いてそれについて行く。

「筆ペンなんかで書道がうまくなるわけないじゃない。そんな物使ってたら、余計めんどくさがってやらなくなるに決まってるわ」

 イライラとした母の声が遠くから聞こえてくる。緑はチラシの裏いっぱいに書かれた文字を見た。どことなくのびのびとした字は、いつも書道の時間で見る自分の字じゃなかった。

 その後、母がお祖母ちゃんにどんなことを言ったのか、私が決して手を離さなかった筆ペンのことで何を言われたか、何も覚えていない。

 ただそれ以来、私は何かあると筆ペンで何かを書きつづけた。もちろん、あの時貰った筆ペンはとっくに墨が無くなって使えなくなってしまっている。あのペンは今でも引き出しの奥の方に仕舞い込まれている。

 あの筆ペンと、緑の日課は、今となっては唯一お祖母ちゃんと緑を繋げていてくれる物だった。いつだったか、気がついたころには、母とお祖母ちゃんは疎遠になって、会うことも、話題になることもなくなっていた。

 緑は母に、今の日課を言えないまま、お祖母ちゃんがどうなったのか、聞けない臆病者のまま、中学生になった。


 じりじりとした鈍い痛みに緑は目を開けた。首が痛い。椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。

 体を起こし、伸びをすると、ビリビリと全身に痛みが走る。緑は時計を見た。寝ていた時間は三十分ほどみたいだった。緑はベッドを見つめた。夕食の時間まで、もう一眠りしてしまおうか。

 椅子から立ち上がってベッドへ飛び込む。ごろごろと寝返りを打つと体がぎっちりと凝り固まっているのがわかる。不意に机へ視線を向ける。机の引き出しが、微かに開いていた。

 確か眠る前、あそこは閉めたはず。スケッチブックを入れて。眠っている間に足でもぶつけて開いてしまったんだろうか。緑は少し面倒に思いながら、立ち上がって引き出しを閉めようと近寄った。

 隙間から覗くと中にスケッチブックがない。あれ、と思って緑は勢いよく引き出しを引いた。ない。予備のノートが入っているだけで、あのスケッチブックはどこにもない。

 緑は部屋を飛び出した。階段を駆け下りる。リビングに飛び込むと、テーブルにスケッチブックが置かれていた。なんでもないように、平然と。

「もっと静かに降りて来なさい。床が抜けちゃうでしょ」

 キッチンから母の声が聞こえてくる。振り返ると、母は洗い物をしている。穏やかな表情で、母が口を開いた。

「あの時は、絶対いい方になんて行くわけないと思ってたわ。お母さんのすることって、昔からちょっとズレてたから。楽な物を知っちゃったら、めんどうな方なんてやろうと思わないじゃない?」

 母は緑の方を見なかった、一度も。かちゃかちゃと食器のぶつかる音がする。

あの日、お祖母ちゃんに筆ペンを貰った時の話だ。母が唐突に話を始める時は、悩んで考え込んでその結果を報告するときか、怒りが止まらなくてどうしようもなくなった時だ。こちらの意見は求められていないし、感情は一方的だ。

「確かに書道の宿題は早くやるようになったけど、うまくなったわけでもないみたいだったし。あんた、賞とかとってきたことないもんね」

 お祖母ちゃんのくれた筆ペンを取り上げられないように、書道の宿題があると一番先に終わらせるようになったのは確かだ。でも、お祖母ちゃんが緑へくれたものよりも、母は緑が何かしらの賞や、優秀な証を持って帰ってくることの方が大事だったみたいだ。

「別にそれはいいんだけどね。あんたが書道やらなくなったりしたらどうしようかって、それが心配だっただけなのよ、私はね。だから……母さんのこと、お祖母ちゃんのこと話してもいいのよ」

 緑はスケッチブックに目を向けて、黙った。ページは今日の所が開いてある。何かに見えるようで見えない、墨の塊。母はあれを見て、何を思っただろう。

「お祖母ちゃんは、どうしたの? 元気?」

「知らないわ。わからない」

 話していいと言われたから聞いたのに、母は溜息を吐いてそう言っただけだった。

 結局母はそれ以上スケッチブックのことも、書道のことも、お祖母ちゃんのことも話さなかった。緑はどう聞いたらいいのかわからなくて、聞けなかった。


 押入れから書道道具を引っ張りだして、ぱさぱさに乾いた筆を硯へ横たわらせ、墨を適当に入れた。スケッチブックの上に、筆を下した。部屋に墨が飛ぶのも構わずに、勢いよく。

 今日の何にも見えないページの上に筆を振り下すと、べちゃっと何かがつぶれたような、破裂したような音を立てて、スケッチブックと、床と、壁に一直線の墨の道が出来た。飛沫が顔にも跳ねた。スケッチブックのページは、相変わらず何にも見えなかったけど、作品は完成した。

 いつか片付けなければいけない、記録に残らない作品。母からデジカメを借りて写真を撮ろうとも思わなかった。携帯は持っていないし、欲しいとも思わなかった。その墨のいびつで、少し途切れた道が、妙に気に入った。

 緑は満足してすべてをそのままにして、ベッドへもぐりこんだ。掛布カバーに顔の墨がべったりとついたけど、どうでもよかった。このまま眠りたかった。墨の匂いが、隅々までするこの空間で、何も考えずに寝てしまいたかった。

 じんわりと温かくなった体が眠りに沈んでいく。夢を見たような気がする。懐かしい、お祖母ちゃんの夢を、見た気がした。目覚めた時に待っていたのは、こびりついた墨を雑巾で落とすことと、冷めた夕食を食べてしまうことだった。


 十和田君がかいていたのは、文字でも絵でもなかった。鉛筆でざりざりと何かをかいていた。じっくり見たことは無い。でも、遠目に見えたそれは模様のようで、見覚えがあった。

 ぺらぺらと、教室で自分のスケッチブックをめくった。幼馴染と友人がぎょっとした表情をしているのが視界の端に入った。

 ああ、これだ。

 緑は顔を上げた。十和田君の手元は忙しげに動いている。そうして模様が浮き上がってくる。どうやっているのかは分からないけれど、緑のそれとは違って綺麗に、じんわりと模様が現れる。

 その模様が現れる前の状態や、模様の現れた時の手の動きが、緑と同じだ。違うのは模様の現れ方が鮮やかなのと、彼のノートのページには失敗作がないことだ。もう何度も見たからわかる。あのノートに真っ黒なページはない。どのページも規則的な模様が描かれている。

 十和田君は休み時間、もっぱらうつむいて模様を描いている。何かはわからないけど、綺麗な模様。

 緑は筆箱に忍ばせた筆ペンを手にとって、昨日のページを開いた。一筋の線が中央に大胆に走った、作品の残骸。

 次の真っ白なページを開いて、机に置く。筆ペンのキャップをとる。友人が何をしているのかと聞いてくる声がしたけど、どうでもいい。別に友達なんて必死になるほど欲しいわけじゃなかった。

 十和田君の描いた模様を真似するように手を動かす。それらしく見えるが、同じように綺麗に描くことはできない。同じ大きさで、規則的な模様を描いている十和田君と同じように、模様を描くことは緑にはできないようだった。

 緑は真似して描いた模様の上にぺたりと筆ペンを降ろす。台無しになった黒い塊。濃淡が辛うじて模様に見えるかもしれない、ただの落書き。

 十和田君を覗き見ようとして顔を上げると、彼はこっちを見ていた。緑の手元のスケッチブックと縁の顔をじっと見ていた。

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書道が苦手な縁が筆ペンと出会い、自分だけの表現方法を見つけていく過程がとてもよかったです。お祖母ちゃんとの温かい思い出や母親との関係性が細やかに描かれていて心に響きました。特スケッチブックを見つけられ…
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