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九、年を越す

 大晦日だからなのか、それともたまたまなのか、BAR秘密の井戸のカウンターは珍しく半分くらいの席が埋まっていた。それでも碑のペースはいつもと変わることはなかった。

 カクテルを作り、ウイスキーを注ぎ、洗い物をこなす。勉強と言う名の元に手伝いにきている杉岡が邪魔になると思うくらい、碑の動きは無駄がなく、スムーズであった。多分、普段は混んでいないだけで、碑は満席になったとしても、いつもと変わらないペースで仕事をこなすのだろうと、杉岡は思っていた。

「マスター、いつも通り帰省したからきましたよ」

 客が三人になった頃、白い扉を潜り抜け、店内に入ってきた客は、そう言ってカウンター席へと座り、言葉と共に土産を碑に差し出した。

「何だ、別に良かったのに」

 碑はカウンターに置かれた荷物を手にして、頭の高さまで持ち上げて感謝を示した。

「いえ、たまにしか帰ってこられないので」

「ありがとう」

 碑はそれを杉岡に渡し、事務所に置いてきてくれと指示した。

「どうする」

 おしぼりを受け取り、落ち着いた客に声をかける。

「そうですね、ウイスキーの炭酸割りを」

「炭酸か、何がいい」

「マスターのお勧めでいいです」

「指定がなければデュワーズの一二年を普段使うけれど」

「はい、それでお願いします」

 盆暮れ正月というが、そのような時期に帰省する客は多く、懐かしさなどもありカウンターへと集まってきた。

「やっぱり年末にこの店に来られるのはいいですね」

「そう言ってもらえるのはありがたいね」

「僕がはじめて来たのは一〇年くらい前ですかね。

 確か大学の三年だったような」

 男は思い出すように碑に懐かしい表情を見せた。

「そうだったな。うまい酒を飲んでみたいって入ってきた、のじゃなかったっけ……」

「はい、美味しい酒に出会ったことがなかったので、やっぱり世の中には良い物があるのだって思いましたよ」 

 男は饒舌であった。ただ周りの状況を見ながら、誰も発言をしない事を確認をしてから言葉を発していた。

「俺もそうだ。わかるなぁ、その気持ち」

 カウンターの入口に近い客が、何となく心の中の気持ちを口にした。その言葉にデュワーズを口にした男が反応した。

「わかってもらえますか」

 同じような感覚の人がいる。そう思うと男は目を輝かせながら問いかけた。

「わかる。俺も上司に連れられてまずい酒ばかり飲んでいる時期だったから、思わず迷い込んできたこの店の、マスターのカクテルは最高に感じられたよ」

 何となく客同士が意気投合していく。二人の間にいた客も、思わず声を出した。

「そうだよな。上司の愚痴を聞いて、割り勘なんて、本当に酒を嫌いになりそうだったよ。この店に紛れ込まなければ、今は酒を飲んでいなかったかも」

 三人の話はこの店の酒に救われたというようなものであった。杉岡はそんな話を耳にしながら、ちょっとしたきっかけで好きにも嫌いにもなる酒を、ある種怖いと感じていた。自分がその引き金を引かないよう、しっかりとここで修行をしなければならないと、決意を新たにした。

「みなさんもそんな時があったのですね」

 誰もが納得するように、杉岡の言葉に頷いた。

「そうだよ。ただ酔うだけの酒と違って、嗜好品としての酒を楽しんでもらう。

 マスターの若い頃はそんな感じだったなぁ」

 いつもの席が空いていないので、一番奥の席に座っていた神代が声を上げた。

「いや、その考えは今も、ですよ」

 神代の言葉を訂正して、碑はダビドフのショート・パーフェクトへと火をつけた。

「でも客を追い返すことはしなくなったな」

 神代の言葉に、碑は苦笑いを返した。先ほどまで酒が嫌いになりそうだったという三人は思わず神代の次の言葉を待った。

「客を追い返したりしていたのですか」

 杉岡の場を読めないような発言を耳にした神代が、次の言葉を出した。

「あったさ、結構前に丸くなったけれども、このマスター、昔はずいぶんと尖っていたのだよ」

 神代の言葉を聞こえていないかのように、碑は煙を宙へと浮かべた。

「マスター、この店で一番安くて酔える酒をくれ。

 そんな事を言う客がいた時に、マスターはただ酔いたいだけだったら他の店に行ってくれって言ったのだ。

 そしたらその客は、注文しているのに酒を出せないのかって、食ってかかってな……」

 碑は知らぬ、存ぜぬ、を通しているのか、カウンターの端に移り、音を発しなくなったレコードを新しい物へと変えようとした。

「うちでは客だと思えない人に酒は提供できませんって……。

 酔っ払いを作りたいわけじゃない。嗜好品としての酒を楽しみたい人に酒を提供する店だと……きちがい酒を飲みたいのならば他に行ってくれって……。

 結局何も出してもらえない客は、怒って帰っていったけれどな」

 神代はそういうとカクテル・グラスの中に入った液体を飲み干した。

 スピーカーからルイ・アームストロングの、この素晴らしき世界が聞こえてきた。

「マスターにもそんな時代があったのか……」

 三人の客は自分たちが知り合った頃のマスターにそんな印象を持っていないせいか、少し意外な一面を見た気がしていた。

「今は、お客様とか言って、持ち上げてとりあえず金を取ればいいという店も多くなったけれど、本来、店と客は対等……。

 招かざる客を受け入れる必要なんてないのだろうけれどな」

 神代はそう言うと、グラスをカウンターの奥へと下げ、時計を見た。そのしぐさを見た他の客たちも各々、時計や携帯電話で時間を確認した。 

 来年まであと一時間を切っていた。珍しく忙しかったせいもあってか、杉岡はそんな時間になっているとは思ってもみなかった。

「マスター、せっかくだから飲もうよ」

 神代が声をかけた。碑は今までの話を袖にして神代の前へと歩んだ。

「どうしますか」

 神代は碑の顔を下からのぞき込んだ。そこにはいたずらっぽい笑顔が見えていた。だが碑は動揺などしなかった。いつものように言葉を待つだけであった。

「せっかくだから、みんなで飲もうか」

 その言葉に碑は頷いた。そして杉岡に店の中で一番足の長いグラスを出すように指示した。杉岡はそのグラスを五脚カウンターの上へと並べた。

「杉岡、あと一つだろう」

「えっ」

 杉岡は神代に言われて驚いた。客が四名とマスターの分としか考えていなかった杉岡は一瞬どうしたら良いのか迷ってしまった。

「お前も飲むだろう」

 神代は再び声をかけた。

「ありがとうございます」

 笑顔を見せた杉岡がもう一脚のグラスを出し、六脚のフルート・シャンパン・グラスがカウンターの上に並んだ。

「マスター、これでシャンパンがないとか言わないよな」

 神代はいたずらに碑を見た。

「そんな事は言いませんよ」

と返答して、碑は冷蔵庫からボトルを二本手に取り、カウンターへと並べた。

 二つのシャンパンの銘柄を神代はまざまざと見た。

「そういえば昔、誰かが書いた本で、これが紹介されていたな。

 その人は結構このシャンパンを飲むことが多いとか言っていたような」

 碑はそう言われて、一本のシャンパンのボトルを冷蔵庫へと下げた。

「アヤラですね。確か福西さんがこれを飲むと以前言われていたはずです」

「そっか、じゃあこれをみんなで飲もうか」

 碑はその言葉に後押しされて、アヤラにトーションを掛けた。そしてコルク栓の上にある金具を外した。

「マスター、今日は静かに抜くなんてことはしないよな」

「もちろんです。今年最後のシャンパンですからね」

 二人は笑顔を交わした。他の客たちの視線もアヤラへと注がれた。

「それでは今年もお疲れ様でした」

 碑は労を労うように、シャンパンを景気の良い音と共に開けた。

 グラスへと注がれていくシャンパンは、底から立ち上る綺麗な泡を立てた。

 杉岡はそのグラスを取り、客へと差し出した。

「ありがとうございます」

 客たちはそれを受け取ると同時に、感謝の念を神代へと述べた。応えるように神代は、小さく手を挙げた。

 最後のグラスにアヤラを注ぎ終えると、碑は杉岡へグラスを渡した。

恐縮するように頭を下げてから、杉岡は

「ごちそうになります」

 と神代へ頭を下げた。

「さあ、神代さん、一言お願いします」

 碑に背を押されて神代はグラスを手にした。

「まあ大晦日に一緒になったんだ。

 来年もまたここで楽しい酒を飲めるように……」

 みんなのグラスが目線あたりに持ち上げられた時に全員が

「乾杯」

 と唱和した。

 見る見るうちに、アヤラは個々の体内へと吸収されていった。だが一気飲みのような事はせず、グラスの中で泡は変わらずに立ち込めていた。

 そして様々な話が飛び交う中で、アヤラはボトルの中から姿を消していった。

「マスター、来年の抱負はどうなのだよ」

 神代が呟いた時であった。思わず時計を見た杉岡が言葉を発した。

「ちょっと待ってください。

 もう今年になりましたよ」

 思わずみんなが〇時一三分であることを確認した。

「そっか、まあ今年もいつもと変わらず店を営業して、みんなが楽しく酒を飲めるようにしたいですね」

 碑の言葉に誰もが頷いた。

 杉岡は音の聞こえなくなったスピーカーへ、ルイ・アームストロングの【この素晴らしき世界】を再び流した。


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