八、帰れる場所
落ち着くというのか、それとも物悲しいというのか……。
聴く人の状態によって分かれるのであろう。キース・ジャネットのケルン・コンサートのソロ・ピアノが、客のいない店内に流れていた。
杉岡はリキュールのボトルを拭いていた。碑が揃えるリキュールは、メジャーではないリキュール会社の物や、終売になってしまった物もチラホラと存在していた。だから本棚に置いてあるリキュールブックなどをたまに杉岡は漁って、それがどのような物なのかを調べていた。だから拭いているボトルは、ただ拭くだけではなく勉強材料なのだ。
珍しく碑は紅茶を飲みながら葉巻を吸っていた。そこにケルン・コンサートという組み合わせは、余りにも落ち着きすぎている。今日の営業を諦めているのではないか、とさえ杉岡は感じていたが、まあ状況はいつもと変わらないと思うと、偶然そんな組み合わせになっただけだと思えた。
「このリキュールの会社はドイツでしたっけ」
思わず手にしたリキュールのボトルを碑に見せて杉岡は聞いた。
「オルデスローエか、そうドイツだ
昔は色々と出ていたけれど、今はずいぶんと銘柄も少なくなったけれどな」
碑は思い出しながら答えた。
「そうなのですね」
「ちなみに今杉岡が持っているのはグレナデンか、それももう終売だ」
そう言われて杉岡は、赤い液体の入ったボトルを見直した。
「ドイツ語だとグラナートゥアプフェルだったかな」
「ドイツ語ですか……なんだか聞きなれないですね」
杉岡はチンプンカンプンな表情を見せた。
碑は紅茶で口の中の乾きを癒すと、葉巻を吸い込み、煙を宙に吐いた。
「まあリキュールの名前はフランス語で覚えているバーテンダーが多いからな。ドイツ語は馴染みがないだろうな」
「フランス語ですか」
「そうフランス語だ」
碑はそう言うと、カウンターの中へと入りこんだ。そしてバックバーから一本のボトルを手にした。そしてドメーヌ・サトネイ社のラベルを杉岡へと見せた。
「これはわかるよな」
「はい、カシスですよね」
杉岡は即答した。碑は頷きながらその瓶をバックバーへと戻した。
「じゃあ、日本語名は」
「えっ、カシスはカシスじゃないのですか」
杉岡は単純に言葉を覚えているだけで、その物が何かを覚えていない。そんな風に碑には感じられた。
「違うよ、本棚にあるリキュールブックを見てごらん」
杉岡は手に持っていたボトルをバックバーへと戻し、本棚から福西英三著の本を手にした。そしてカシスの書かれているページを開いた。
「黒スグリですか」
「そう日本名だと黒スグリの事を指す」
「知りませんでした」
この調子だとスグリも思いつかないようである。
「まああまり見ることがないだろうからな。
たまにケーキに乗っているカシスやクロゼイユを見ることはあるけれど、それが何だか知って食べている人は少ないのだろうな」
「クロゼイユって」
杉岡は聞きなれない名前をオウム返しした。
「赤スグリの事だよ」
そう言うと碑は再びカウンターの端に座り、葉巻をふかした。
「知りませんでした。黒スグリと赤スグリがあるのでね」
「そう、英語だとスグリはカラントと呼ぶので、ブラックカラント、レッドカラントと呼ぶけれどな」
「うわー、フランス語とか英語とか考えたこともなかったですよ」
自らを責める杉岡を見て、碑は思わず微笑んでしまった。そして次の質問を投げかけた。
「じゃあフランボワーズは」
「フランボワーズですか……」
杉岡は言葉を詰まらせて考えてしまった。だが知らない言葉は出てくることはなかった。
「木苺だよ」
「木苺、確かにそうだ」
言われて頭の中の引き出しから言葉が出たわけではなかった。何となく結びつくという感じであった。
「知っているのならば答えればいいのに」
「いや、何となく片隅にあった言葉が、言われてくっつきました」
杉岡は、痛恨と言った表情を見せた。
「色々考えて見ると、当たり前の物は実は当たり前じゃなくて、考えて調べて初めて身につく物もあるのだよ」
碑は自らも若い頃はそんな事を考えていなかったと、過去を思い出した。今でも全てを知っているわけではないが、更に無知であったことを覚えていた。
「もっと勉強しなければ駄目ですね」
杉岡が反省した時に、白い扉が開いた。
「あの頃と変わってない」
入店してきた女は店内を見渡しながら思わず言葉を出した。
碑はその女の顔を見て、思わず立ち上がった拍子に口を開いた。
「若葉か」
「マスター、覚えていてくれたのだ」
若葉と呼ばれた女は、立ち止まり笑顔を見せた。
「久しぶり、まあ座りなよ」
碑は席を指さし、カウンターの中へと入った。杉岡はその間に、座った若葉と呼ばれた女におしぼりを出した。
「何年振りだ」
碑は珍しく興奮しているようであった。
「そうだな、ここに着ていた当時二〇歳だったから、もう一五、六年かな」
「そんになるか」
二人とも懐かしい表情を、笑顔と共に見せた。
「久しぶりに帰ってきたのはいいけれど、日本ってこんなだったっけ、って驚きばかりだよ」
若菜は笑顔を見せた。
「そうだよな。こっちに住んでいても結構変わったと思うから、ずっと海外にいたらそう思うだろうな」
碑の言葉に若葉は頷いた。そして思い出したかのように口を開いた。
「そういえばマスター、あの頃、私って何を飲んでいたっけ」
碑は、そうだなぁと呟き、宙を見て考えはじめた。若葉の事は覚えているが、一体なのを飲んでいたのか……そこまでの自信はなかった。
「そう言えば、ロック・グラスだったっけ」
グラスだけを思い出した若葉の言葉がきっかけであった。閉じていた頭の中の引き出しが、ゆっくりと開いた。
「そうか思い出した」
碑はバックバーから酒瓶を出した。ゴードンのスロージン、マリーフランソワーズのアプリコットが作業台の前に置かれた。オールド・ファッション・グラスとシェイカーを作業台に置き、氷が入れられた。そして冷蔵庫からレモン・ジュースも顔を出した。
若葉も何となくカクテルを思い出しているのか、何も言わずに碑の作業を見ていた。
シェイカーの氷が洗われ、材料が均等に入れられていく。
そしてゆっくりとした碑のシェイクがはじまった。若菜はそれを嬉しそうに見つめた。
「マスターのシェイク久しぶりに見た」
「そりゃあ一五年振りだったらそうだろう」
碑はオールド・ファッション・グラスへと出来上がったカクテルを注ぎ、コースターの上に乗せて、若葉の前へと差し出した。
「チャーリー・チャップリンです」
「そうだチャーリー・チャップリンだ」
言葉を聞いて完全に記憶が蘇ったのか、若葉はグラスを手に取ると、口の中へ紫色に近い液体を流し込んだ。碑はその光景を見て微笑んだ。
「懐かしい」
置いたグラスに目線を合わせて若葉は思わず笑みを浮かべた。
「若葉さんはずっと海外にいらっしゃったのですか」
杉岡が問いかけた。若葉は姿勢を正した。ただ杉岡を見ることなく、グラスを見続けて答えた。
「そう、マスターの助言もあってね」
「マスターの助言ですか」
杉岡は碑を見た。碑は何も言わずに、カウンターの端へと移動し、キャンドルライトを咥えた。
若葉はチャーリー・チャップリンで口を湿らせてから、言葉を出した。
「専門学校を卒業して、就職が決まったのはいいのだけれども、何となくそれがいいのかどうかわからなくなって」
若葉は横並びで座る碑をチラリ見た。碑は目線を合わさずに、煙を飛ばした宙を見ている。
「それでマスターに何となく聞いたんだ」
自分を見ることのない碑から視線を離し、若葉は再びカクテルで舌を湿らせた。
「このまま就職をするべきか、海外へ行くべきかって……」
「そうしたら……」
杉岡は次の言葉を待った。もしかしたら碑からそのことが告げられるかもという思いもあったが、それは裏切られた。
「自分が進むべき道に、正解や不正解はない。ただ自らがやりたい方を選べばいいって」
知らん顔をする碑にあきれるような表情を見せて、若葉は続けた。
「だから私は、人の役に立ちたいって思ったの。
就職を辞めて、青年海外協力隊に入った」
「それで海外だったのですか」
理由を聞いて杉岡は日本を離れていた若葉の事が、何となくであるがわかった気がした。
「そう、でも無力だったなぁ。
人の役に立つって、自分に余裕がないと無理なのだよね。
何となくの手伝い程度はできても、本当の力にはなかなかなれない。でも必死で何かができるのではないかって行動したけれど」
「それで」
杉岡は乗り出すように反応した。早く結果を聞きたかった。
「ちょっとだけれどね。その村での事業は成功して、それからも何か所か回って、こうして日本に帰ってきたの」
若葉は少しだけ誇らしげな表情を見せて、グラスを口にした。本当は碑にそれを認めてもらいたいような表情であったが、碑はそれに対しては何も発しなかった。
「それで日本に帰ってきて、今後はどうするんだ」
煙を吐き出した碑がやっと若葉を見て言った。若葉は恥ずかしそうに頬を弛緩させた。
「協力隊で一緒だった人と結婚するのだ。そして金沢で暮らすことになった」
「そうか、結婚するのか」
碑は頷いた。その表情を見て、若葉は再びグラスに口をつけた。
「せっかく日本に帰ってきたし、結婚のこともあったから、マスターに会って報告したかたんだ。
ずっと店をやっていてくれて良かったよ」
碑は何も言わずに首を数回縦に振った。
「ここで学生の頃に飲ませてもらって良かった。
二十歳の誕生日を迎えて、背伸びをしてみようってバーに入って良かった。
マスターがこの店をやっていてくれて良かった」
若葉は思いを一気に話すと、照れくさそうにカクテルを飲み干した。
碑はそれに反応するようにカウンターの中へ入ると、カクテル・グラスを取り出した。
材料のバカルディ・ホワイト・ラム、サンジェルマンのエルダーフラワー、グレープフルーツ・ジュースを次々とシェイカーの中へと入れ、振った。
シェイカーから液体が注がれるカクテル・グラスは、若葉の前へと出された。
「マスター、これは」
「何となく作ってみた。
うちがいつまでも続いて、若葉に何かあった時に、リラックスして帰ってこられる場所として続くように、そんなところになれればと思って……」
若葉は出されたカクテルを飲んだ。エルダーフラワーの香りと、グレープフルーツ・ジュースの酸味が相まっている。それをラムがしっかりと結びつけていた。
「おいしい」
若葉は落ち着いた笑顔を見せた。そしてボトルを片づける碑を見た。その視線は碑と合うことはなかったが、若葉は嬉しかった。何かあった時に帰ってこられる場所……。婚約者には秘密の、自分だけの場所があることが……。
「マスター、若葉さんがいつでも帰ってこられるように、っていいですね。
何だか実家みたいですね」
若葉が帰った店の中で、片づけをしながら杉岡は言った。
碑は何も答えずにカウンターの端へと座り、ダビドフのショート・パーフェクトへと火をつけた。
そして宙へと煙が舞っていく。
碑はそこに何を思っているのであろうか……杉岡は何となく言葉を待っていた。
「実家か……まあ落ち着く場所は幾つあってもいいだろう。
その一つにうちを入れてもらえるのであれば、ありがたいかな」
碑は彷徨っていく煙の行方を追った。そして飛散していく煙を見届けてから言葉を出した。
「杉岡、閉めたらたまには飲みに行くか」
思いもよらない言葉に、グラスを拭いていた杉岡の手が止まった。
「どうする」
碑は再度声をかけた。杉岡はすぐさまカクテル・グラスを棚へとしまって碑へと向き直った。
「はい、ぜひ」
そんな杉岡の返答を受け、碑はショート・パーフェクトをシガー用の灰皿へと置いた。そして立ち上がり、事務所の中へと入っていった。
店内にはケルン・コンサートの演奏が未だに鳴り響いていた。