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七、ウイスキーフェス

 スパイ映画でかかるような雰囲気を持つケニー・バレルのミッドナイト・ブルーの演奏が間奏に入った時であった。

「マスター、この店はジャパニーズ・ウイスキーが少ないですよね」

 ボトルを拭いている杉岡が碑に話しかけた。

「そうか、それなりには置いてあると思うけれど」

 その問いかけに碑はいつものようにカウンターの一番奥の席に座り、葉巻の煙を宙へと浮かべながら答えた。

「クラフト・ウイスキーがほとんどないじゃないですか」

 そう言われ、数回碑は納得するように頷いた。

「ああ、その辺は最近あちこちできて、何だかよくわからなくてな」

「だからこそ、色々置くんじゃないですか」

 ボトルをバックバーへと戻しながら、杉岡は碑に問いかけた。

「蒸留所が一気に増えたからよくわからないし、価格も結構な金額がするからな」

 納得のいかない表情のまま、杉岡は何も言えなくなった。勉強をしにきている身としては、クラフト・ウイスキーの品ぞろえを良くしたほうがいいとも言えなかったからだ。

「まあ、うちの日本のウイスキーは、今のままで良いのではないかな」

 店の品ぞろえは、オーナー・バーテンダーである碑がそう言ってしまえばそれまでなのである。少し腑に落ちない表情のまま、新しいボトルを杉岡が手にした。

 そんな時、白い扉が開き、寒気と共に一人の女の客が店内へと入ってきた。

「マスター、遊びに来たよ」

 外気とは異なり、熱い感じの言葉である。

「おお、雪乃。いらっしゃい」

 碑は知った顔にそう言うと、葉巻を灰皿に置き、カウンターの中へと入った。その間に杉岡はおしぼりを出すことを忘れなかった。

「マスター、人を雇うのだったら私が先じゃないの」

 杉岡を見て雪乃はわざとふてくされるような表情を作って言った。いきなり責められている気がして、杉岡は一歩だけ下がった。そして同業なのだろうと雪乃を見た。

「ああ、杉岡は勉強しにきているだけで、雇った覚えはないよ」

「はい」

 碑の言葉に続き、杉岡は弁明するように言った。

「なんだ。見習い君なのか」

 雪乃はじっと杉岡を見つめた。その視線に杉岡は少しだけ硬直してしまった。同じ歳くらいに見えるが、バーテンダー暦は長いのかもしれないと杉岡は身構えた。

「おい、あまりいじめるなよ」

「はい」 

 雪乃はいたずらをした子供のように、微笑みながら小さく頭を下げた。そしてバックバーのジャパニーズ・ウイスキーが置いてあるあたりを見渡して、注文をした。

「マスター、イチローズ・モルトのミズナラをください」

「はいよ」

 碑がボトルを手にしている間に、作業台に杉岡はショット・グラスを準備した。

 そのイチローズ・モルトが雪乃の目の前に置かれた時に、杉岡はチェイサーを作業台の上で作っていた。

「ねえ、マスターのところでチケットって手に入らないの」

「なんのチケットだよ」

 問いかけに対し、検討もつかない表情で碑は答えた。

「ウイスキー祭、秩父のやつ」

 碑はそう言われて思わず頷いて答えた。

「ああ、うちじゃあ手に入らないよ」

 碑は雪乃が何をしに来たのか分かった。

 毎年二月に秩父で行われているウイスキーのイベントはチケットが入手しづらい人気のフェスであった。長くバーテンダーをやっている碑であればツテがあり、入手できると思ったのだろう。しかしながら碑にその手の付き合いはなかった。

「悪いな、俺にはどうにもならないよ」

「そっか」

 雪乃は残念そうにしょんぼりとした表情を見せてウイスキーのストレートを口にした。

「なんですか、そのウイスキー祭というのは」

 杉岡が話題に遅れて話に入ってきた。明らかに興味があるという、好奇心が溢れる表情である。

「このイチローズ・モルトを作っているベンチャーウイスキーと有志のバーテンダーたちでやっているウイスキーフェスだよ。

 確か秩父のバーのチェアリーの人が中心になっているって聞いたことがあるけどな」

 碑は雪乃の前に置かれているボトルを指さして言った。

「イチローズ・モルトって、入手しにくいって聞いた事があります。

 でも……」

 杉岡は先ほど碑がボトルを取って、歯抜けになっているバックバーを見た。そこには大手のウイスキーに並び、その中に数本のイチローズ・モルトが置かれていた。

「そう、ちょこちょこイチローズ・モルトがあるから、マスターも付き合いがあるのかなって思ったんだ」

 雪乃は杉岡が見ていたバックバーを見て言った。

「俺はないよ。たまに出入りの酒屋に入ってくる物を買わせてもらっているだけだから」

 碑は素っ気なく答えた。

「そうなのですか。

それにしても大手ばかりだったウイスキー業界に、良くイチローズ・モルトは参入しましたよね。今と違ってウイスキーが売れていない時代だったはずなのに」

 雪乃は自らの知らない時代の事を知識として得て知っていた。

「売れていないという訳ではないのだけれどな。

ブームになっていないというか、一部のファンたちが支えている時代だったというほうが正しいかな」

 碑は何となく、一九九〇年代を思い出した。ウイスキーは全般的にバーで飲む時代で、居酒屋などでハイボールすらあまり見られない時代であった。置いても飲まれないというので、安い銘柄が一、荷種類あればいいという具合であった。

「マスターの店は、その頃からこんな品揃えだったのですか」

 改めてウイスキー冬の時代の秘密の井戸がどのような店だったのか雪乃は気になって問いかけた。

「そうだよ。今と変わらず、酒の好きな人が来て、色々な物を飲んでいったよ」

「そんな中にイチローズ・モルトもあったのですね」

「まあな。でも最初は社長が直接、バーを回って売っていた時代だし、また秩父の蒸留所もできていなかったからな」

 碑は思い出すように呟いた。

「その頃からマスターはイチローズ・モルトを知っていたのですか」

 雪乃が知らない碑の個人史に反応するように言った。

「そうだな。いつものように端の席でパソコンをいじっている時に、肥土さんがきたのだ」

 碑はポツリポツリを思い出すように話を始めた。

「羽生にあった東亜酒造が駄目になって、その時のウイスキーの原酒を、福島の酒蔵に預けて、それをボトリングした物を手売りで回っていたはずだなぁ。

 俺は確か八八年の六年だったかな、あれが好きだったから何本か買わせてもらったよ」

「それは今もまだあるのですか」

 杉岡も雪乃も見たことのないボトルが出てくることを期待していた。

「とっくの昔に飲み干しちまったよ。

 そこから出入りの酒屋で買える物を、チョロチョロ買わせてもらっていたな。

 今バックバーに並んでいる酒も、その頃と同じように、案内があると買わせてもらうけれどな」

「それでこの店はイチローズ・モルトが多いのか」

 雪乃が関心するようにバックバーを見直した。

「そう、肥土さんのウイスキーに対する情熱が、俺からしたら暑苦しくて……。

 いつか羽生の原酒だけじゃなくて、自分で蒸留所を作るのだって言っていたなぁ。

 今、いっぱいできている蒸留所の中で、本当に情熱を傾けて作っているところがいくつあるのか……。

キャンベルタウンの二の舞にならなければいいと思っているよ」

 碑は回顧しているのか、キャンドルライトを葉巻専用のセラーから取り出し、煙を吐き出した。

「スプリングバンクとかがあるキャンベルタウンですか」

 雪乃が尋ねた。杉岡はキャンベルタウンが何であるのか、後で調べようと脳裏に言葉を焼き付けた。

「そう、そのキャンベルタウンだ」

「何かあったのですか」

「まあ、調べればすぐにわかるさ。

 でもそうならないように、作り手も飲み手も安易さだけにならなければいいのだけれどな」

 二人の質問に、碑ははぐらかすように答えて再び煙を吐き出した。

「今でも肥土さんと親交はあるのですか」

 雪乃は有名人を知っている碑に、羨ましそうに声をかけた。

「今はもうないかな。

 秩父蒸留所ができた時に、知人のバーテンダーと一度見学をさせてもらって以来かな」

「じゃあ結構昔なのですね」

「そうだな」

 昔を思い出してか、碑は再び煙を宙に飛ばし、カウンターの外へと出た。そして一番端の定位置へと座り、杉岡に酒を要求した。

 雪乃が飲んでいるイチローズモルトのミズナラを、ショット・グラスへと注ぎ、杉岡は碑へと差し出した。

 それで口の中を湿らせてから、碑は話をはじめた。

「寒い時期だったかな。

秩父の駅で待ち合わせて、タクシーに乗って蒸留所まで行ったのだ。

 どれくらい離れていたかの記憶はあまりないけれどな」

 二人は回想する碑の話を、黙って聞いていた。碑はウイスキーを再び口にした。

「蒸留所に着いて、まだ蒸留もはじまったばかりの状態の中、肥土さんが案内をしてくれたのだ。

 まだ麦が置かれているだけのキルン塔や、真新しい醸造タンクとポットスティル……」

 二人の頭の中に、行ったことのない蒸留所の風景が描かれていく。

「小さい蒸留所だけれど、外気と比べたら、圧倒的に熱かったよ。

 ポットスティルも、そこに込められた思いも……」

 碑は渇きを感じたわけではないが、再びミズナラで舌を湿らせた。そのタイミングを逃さず、雪乃も熱い液体を摂取した。

「熟成庫を見せてもらった時が驚きだったなぁ。

 今まで見たこともない光景だったよ。

 試し置きしている空っぽの樽が、木組みの上に一つ……。

 それ以外、まだ何も置かれていない熟成庫を見たいは……」

 聴衆の二人は、これでもかとばかりに樽が置かれている熟成庫しか見たことないので、そんな想像がつかなかった。

「そこから日本のクラフト・ウイスキーの歴史がはじまったのだろうな。

 まだクラフトなんていう言葉はなかった時代だけれどな」

「何だか鳥肌が立ってきました」

 杉岡は、背中に悪寒のような物を感じた。そのような歴史の先に、今という現在がある事を、実感した気がした。

「雪乃、スコットランドで三年未満のウイスキーは何て言うのだ」

「スコットランドだとまだウイスキーではないので、ニュー・スピリッツですよね」

 碑は葉巻を吸い、煙を吐き出してから、返答した。

「そうだ。ただ日本は法律上、ウイスキーセーブを通り抜けた段階でウイスキーと認定されるのだ。だから三年未満でもウイスキーになってしまうのだ」

「今改定しようと色々業界が動いているという話を耳にしますけれど」

 杉岡が間に入った。

「らしいな。どこまで進んでいるのかはわからないが……。

 確か俺の記憶が正しければ、肥土さんは三年未満の物を、ウイスキーとして商品化したくなかったはずだったな。それでもウイスキーという商品名を変えることは日本の法律上できなかった。

 そんな中で、ニュー・スピリッツと同等とウイスキー愛好家がわかるように名前を考えたのだ」

「もしかして、ニュー・ボーンの事ですか」

 雪乃が乗り出すような口調で合いの手を入れた。

「そう、海外だとまだウイスキーではない。だから三年にこだわった。

 スコットランドで蒸留の勉強をしてきた竹鶴正孝が鳥居信治郎の元を離れたのも、三年という年月にこだわったからだと言われているからな」

 ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴正孝と、サントリーの鳥居信治郎、二人がいなければ日本のウイスキー製造は、現在どのようになっていたのかわからない。もしかしたらウイスキーは作られていなかったのかも……それくらいの影響を与えた二人の名前に、杉岡も雪乃も関心ことするが、頷くことしかできなかった。

「まあ、そのベンチャーウイスキーと、その周りにいるウイスキー愛好家の人たちが起こした秩父ウイスキー祭だからな、熱があるからチケットが手に入りにくいというのは仕方がないのだろうな」

 碑は再びショット・グラスを持ち、口元へと近づけようとした時であった。店の電話がなりはじめた。

「はい、バー秘密の井戸です」

 杉岡は相手の言葉を聞いてから、手にした受話器をすぐさま碑へと渡した。

「山上さんという方からです」

「山上か、どうした」

 碑は手にした受話器へと声をかけた。

「ああ、そうか。それならばこれから取りに行かせるからよろしく」

 それだけを言うと碑は受話器を置いた。そしてショット・グラスを手に取り、一気に飲み干した。

「杉岡、すぐに着替えて今日は上がれ」

「えっ。何でですか」

 唐突に言われた言葉に、杉岡は驚きの声を上げた。

「いいからすぐに着替えろ」

 即されるように、杉岡は事務所へと入っていった。

雪乃もなぜ杉岡が仕事を上がらされたのかわからずに、茫然としていた。

「雪乃悪いが、カレッジの山上を知っているよな」

「はい、山上さんは知っていますが……」

 雪乃は電話をかけてきた山上の名前が、なぜ出てきたのかわからなかった。先ほど「取りにいかせる」と言っていた言葉だけが気になっていた。

 碑は葉巻を吸い、宙へと煙を飛ばしてから口を開いた。

「ウイスキー祭のチケットを買った客が、当日出張でいけなくなったらしく。

二枚チケットが返ってきたのだって……。

 久しぶりに俺に来ないかという誘いだったが、嫌じゃなければお前たち二人で行ってこい」 

 その言葉を聞いて、雪乃は思ってもいなかった幸運に、壊れるくらいの笑顔を見せた。

「いいのですか」

「だからそう言っているだろう」

 碑はそれだけを言うと、レジから金を出し、雪乃にそれを手渡した。

「チケットと今日の飲み代だ。

 領収書を忘れないでもらってこいよ。杉岡に渡してくれればいいか」

 唖然とした表情で、雪乃は碑を見た。

「でも」

「いいからこれで行ってこい。

チケットだけもらって飲まないで帰るなんて無粋な事をするなよ。

俺の顔が潰れるからな」

 碑は、葉巻の煙を自らの顔の前にぶちまけた。雪乃は目の前に出された札を受け取った。

「わかりました」

 雪乃が頭を下げた時に、着替えを終えた杉岡が出てきた。急に帰れと言われたことが原因なのか、少し不満の表情を浮かべていた。

「杉岡、これから雪乃と一緒にバー・カレッジに行ってこい。

 ウイスキー祭のチケットと、勉強でカクテルでも飲んでこい」

 思いもよらない展開が何だかわからずに杉岡は、思わず口を開けて茫然とした表情を見せた。

雪乃は自らの目の前に置かれたミズナラを飲み干し

「杉岡、行くぞ」

 と立ち上がった。何もわからずに、杉岡は雪乃の後を追って、白い扉を出ていった。


 ミッドナイト・ブルーのレコードを掛けなおし、カウンターの上に出たままのイチローズ・モルトのMWRミズナラ・ウッド・リザーブをショット・グラスへと注ぎ、碑はカウンターへと座り直した。


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