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六、できる物とできない物

 相変わらず客のいない店内で、碑はカウンターの隅に座って帳簿をいじっていた。

「こんな小さな店程度の帳簿なんて、お小遣い帳と大して変わらない」

 と以前杉岡が聞いた時に碑は言っていた。けれども経験のない杉岡にしてみれば、複式帳簿なんて言うものですら、今まで知ることもないし、それがどのような物なのか理解できず、ただ難しい物としか思えなかった。

「現金出納帳、売上、仕入、経費の四帳簿をつければいいだけだからな。

 あとは数字がきっちり合えばいいだけだ。

複式帳簿は整合性が取れればそれで平気な物だから」

 碑は簡単に言うが、やはり扱ったことのないものは理解が及ばなかった。ただ将来自らが店を持つのであれば、そのような事も覚えなければならない。杉岡は単にバーを営業するということは、酒を出せばいいというだけではないと、認識を新たにした。

「毎日、帳簿をつけて、現金などを合わせる。それさえしていれば問題なんてそんなにおこらないさ」

 杉岡は日々のやるべきことを、しっかりとやる事が、どれほど大切なのかを改めて考えた。

 レコードが終わったので、碑は皿を変えるために立ち上がろうとした。

「マスター、前回これを聞いて良かったので、かけてもいいですか」

 杉岡は一枚のレコードを棚から取り出した。

「ああ」

 碑はレコードのジャケットを確認して、椅子へと座りなおした。

 レコードを差し替える手は、未だに慣れていないのか、杉岡は恐る恐る、レコードに傷をつけないように針を落とした。

JBLのスピーカーからハーモニカの音が聞こえてきた。ツゥーツ・シュールマンのトゥーツ・ミーツ・タウベである。神聖にも感じる透き通った音が、店内へと響いた。

「忘年会の時期の来客は多いのですか」

 時期ということもあり杉岡は碑へ問いかけた。碑は電卓を叩く手を止めずに答えた。

「そんなには変わらないかな。まあ抜け出してくる客がどれほどいるか」

「抜け出してですか」

「まあ、くればわかるさ」

 忘年会の流れであれば数名で来店してくる。そんな風に思っていた杉岡の気持ちはすぐに裏切られた。

 白い扉が開き、一人の男が入ってきた。

「マスター、久しぶりです」

 髪の薄くなった、いかにも中年太りの男であった。

「おお、桂木さん、久しぶりだね」

 碑はカウンターの椅子を指さし、帳簿を片づけてからカウンターへと入った。その間に杉岡はおしぼりを出した。

「こんな時にしか来られなくて申し訳ない」

 桂木は碑に軽く頭を下げた。

「そんな事はない。来てもらえるだけありがたい」

 碑は笑顔で返した。

「子供の進学なんかもあるから、公明正大に飲みに行くことができなくてさぁ」

「そうか、もう大学なの」

「いや、下が高校受験なので」

「そうか、それにしてもこの間産まれたばかりという感じだけどな」

「そうだよ。あっという間だよ。子供の頃はお父さんってきていたけれど、今は奥さんと一緒であまり近づいてこないよ」

 桂木は冗談のように笑いながら答えた。親しげに話している二人を見て、杉岡は長い付き合いなのだろうと想像した。

「だからさ、こういう忘年会とかの時に、何とか飲みに来られるくらいだよ」

「奥さんに言い訳がたつからだろう」

「まあね」

 桂木は挨拶替りの会話を終えると、一呼吸置いて注文をした。

「とりあえず一杯目は軽いロングをお願い」

「かしこまりました」

 碑はリキュール・ド・サパンを手に取った。サパンはもみの木の新芽を使ったリキュールである。それをソーダ割にして、桂木の前へと差し出した。

 桂木はサパンを口の中へと流した。針葉樹の香りが口の中へと広がってくる。

「このくらいの物だと楽でいいね」

「いつも忘年会を抜け出してくるとこんな感じだったからね」

「そうだった」

 桂木は好みを覚えておいてくれる碑に、軽く応えた。

「会社の忘年会は、親睦のために出るけれど、二次会は好きな人同士で行ってもらえればいいかな」

 桂木はグラスを眺めながら呟いた。

「そうやって昔からこの時期には一人で飲みに来てくれていたものね」

 碑は思い出すように答えた。

「そう、一度会の途中でトイレに行くって抜け出してきた時もあったよね」

「そういえばあったかも、良くこの距離を歩いてきたなって思ったよ」

「しかもトイレに行くっていって出てきたから、店の中履きで来ちゃったしね」

 思わず碑と桂木は顔を見合わせて笑って見せた。

 そんな時に、中年の男女が店内へと入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 杉岡は声をかけ、カウンターに座った客におしぼりを出した。

「忘年会を抜け出してきちゃったけれど、こんな方に店があるなんて思ってなかったよ」

 新規は飛び込みの客であった。男ははじめて来店する店内を見渡した。

「確かに、繁華街を抜けたあたりだからね。

 それにしても平気かなぁ」

 女は少しだけ不安な表情を見せた。

「何が」

「二次会に行かないで、逃げるようにきちゃって」

「平気だよ、別に」

 桂木は自分も抜け出してきたという意識があるのか、その会話を耳にして、少し笑いながらサパンを飲んだ。

「いかがいたしましょう」

 碑が男女へ声をかけた。

「俺はハイボール」

「ウイスキーは何か指定はありますか」

 男はこのような返答が来るとは思っていなかったのか、少し戸惑った表情を見せた。

「いや、特にないけれど」

「ではデュワーズの一二年はいかがでしょう」

「じゃあそれで」

 それを聞いていた杉岡は作業台の前にデュワーズの一二年を置き、一〇オンスのタンブラーを出し、氷を入れステアをしてグラスを冷やし始めた。

「お客様はいかがいたしましょう」

 一瞬躊躇するように、女はタメを作ってから碑に答えた。

「私の雰囲気で」

「えっ……」

 碑は普段言われることのない注文をされて思わず驚きの言葉を出した。

「だから私の雰囲気で何か作って」

 碑は少しだけ首を上げ、天を仰いでから答えた。

「申し訳ないのですが、うちではそのような事はやっていませんので、どのような物が飲みたいかお教えいただけますか」

「なんでもいいの、だから雰囲気で」

 何を言っても響かなそうな女の返答に、碑は少しだけ身構える思いであった。

「申し訳ないです。私は占い師でも、預言者でもないので、初めて会った方の雰囲気をわかるようなことはないのですが」

「何で、できないの」

「はい」

 碑のきっぱりと言い切った言葉に、女は少しだけ声を荒げた。

「やってくれる店はいっぱいあるのに、ここではできないっていうの」

「はい」

 淡々と答える碑に、更に苛々するように、女は再び言った。

「何となく、見た感じでやってくれればいいじゃない」

 女の眼は明らかに吊り上がっているようであるが、碑はお構いなしに、静かな口調で話をした。

「すみません。そのような不確定な物をお出しして、もしも気に入らない物を出してしまってもいけないでしょうから、どのような物が良い、もしくはこのような物を使わないでほしいなどのご要望をお聞かせ願いませんか」

「酷い店ね。ちょっと出ましょうよ」

 女は男に声をかけ、勢いよく椅子から立ち上がった。男はまだハイボールが作られていないのを確認すると、椅子から立った。女はそれを見ると、ズカズカと店内から去って行った。男は碑をちらっと見て、軽く右手を立てて謝るようなそぶりを見せてから、女を追いかけていった。静まり返った店内で

「マスター、良かったの」

 と桂木は笑いながら碑に言った。

「桂木さんも知っているでしょう。できない物はできない。

 適当な物を出して、それが嫌いと言われたら、海の向こうからわざわざ来てくれているこのコたちに失礼でしょう」

 碑はバックバーを見て答えた。海の向こうからきているコという物が、輸入品の酒であることを、杉岡は何となく理解した。

「適当にやって金をとることができないなんて、マスターは変わらないね」

 茶化すような桂木の表情を見て、碑は大きく息をついた。

「もちろん、それによって売上を立てる店もあると思うけれど、うちはそういう事ができない店だからな」

「だから客がこないのだよ」

「ただアルコールを飲みたい人が来ても仕方がないからね。

 ちゃんと嗜好品としての酒を飲みたい。それであればどんな要望でも聞くけれどね」

 碑は笑顔で答えた。

 杉岡も桂木と同じような意見で、適当に作ればいいのではないかと思っていたが、碑らしい返答であると思えた。

「じゃあもう一杯かな。

 マスター、何かモルトを」

 桂木はサパンの入っていたグラスをカウンターの奥へ押し出して注文をした。

「久しぶりにこんなものはどうですか」

 碑はバックバーへと向き直り、スコッチ・モルト・ウイスキーを漁りだした。その中から一本のボトラーズのウイスキーを手にして、桂木の前に置いた。

「マスター、まだこんなのを持っていたの」

 ボトルを見て桂木は懐かしむように驚いた。

「確かこれで最後だったかな。やっぱり桂木さんの最後と言えばこれでしょう」

 そういうとショット・グラスを取り出した。

「クライズデールのローズバンク。懐かしいなぁ。じゃあこれで」

「かしこまりました」

 碑はボトルの上部についている密閉用のパラフィルムを取り、ショット・グラスへと黄金色に近いローズバンクを注いだ。

 桂木は言葉もなく、ローズバンクを口の中へと流し込み、しばらくの間を置いてから口を開いた。

「懐かしい味だ」

 度数の強いローズバンクが、喉に刺激を与える。その割には柔らかい酒質を感じるところもある。麦の香りも堪らないと言った表情の桂木に碑は

「桂木さんは好きでしたものね」

 杉岡にはいつまで遡っているのかわからないが、過去に飛んでいる碑の気持ちを想像した。

「ああ、マスターのところに来て初めて飲んだ酒が、確かローズバンクじゃなかったかな」

「そうでしたっけ」

「そうだよ」

 桂木は笑いながら答えると、再びショット・グラスへと口をつけた。

 久しぶりに酒を楽しんだのか、桂木は満足したようにグラスを空にすると、帰って行った。


「マスター、あの女性客には、どういう酒が飲みたいと言ってもらわないと出せないと言いながら、桂木さんの注文にはあんなにあっさり応えることができるのですか」

 看板の消えた店内で、帰ろうとしている杉岡は碑に聞いた。

「あの人は一見で、桂木さんは昔から知っている客。

 好みを把握している客に、酒の提案はできるけれども、そうでない人にいきなり何でもいいから出すのは、なしだと思っているからだよ」

 杉岡は、何となく言っていることを理解したのか、納得するように頷いた。

「面倒だから、適当にお勧めとか言う店もあるかもしれないけれど、要望を聞き取ることをしないでやるなんていう乱暴な事は俺にはできないからなぁ」

 そのボヤきには、碑の性格が表れているようであった。杉岡も少しずつ碑の性格がわかってきているのか、理解ができるようであった。


 杉岡が帰った店内で、碑はトゥーツ・シュールマンのレコードをかけた。

 そして桂木が飲んでいたローズバンクをグラスに入れ、口をつけた。

 懐かしい。

独身の頃によく来ていた桂木と、今日のように久しぶりに来るようになった桂木を比べるという訳ではないが、時間経過という物がそこには存在している。それを理解するように、再び碑は、ローズバンクを口腔へと流し込んだ。


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