五六、エピローグ
繁華街を抜けきった、寂しそうな暗い路地に、その白い建物は存在していた。
外界と店内を繋ぐ白い扉には【BAR秘密の井戸】という店名が刻印されたプレートのような物が存在していた。
扉を開けると、ウナギの寝床のような店内に一〇席ほどのカウンターがあるのみであった。
カウンターの中には短髪に白髪の混ざった、蝶ネクタイをして、黒いベストを着ている男がいた。
来客のない店内で、男はダビドフのショート・パーフェクトを咥え、清水一行の著書である【小説兜町】を呼んでいた。
ずっと同じ体制で本を読んでいることに疲れたのか、葉巻をシガー専用の灰皿に置き、本を閉じた。
席を立ち、軽く首を左右に捻ると、大きく背伸びをした。
客が来る気配を感じないのか、再び席へ座ると、葉巻を吸い、本を広げようとした。
その時に、白い扉が開いた。
「何だ、マスター、誰もいないのか」
常連の神代が、コートを脱ぎながら店内へと入ってきた。
「いらっしゃいませ、見ての通りです」
碑はカウンターの中へと入り、おしぼりを準備した。
奥から三席目に座った神代は
「温かいおしぼりは助かるな」
と手を拭きながら言った。
「さて、どうしますか」
「ウイスキーサワーを」
神代の注文を聞くと、碑はサワー・グラスを準備して、ネビス・デューとレモン・ジュース、砂糖を準備して、シェイカーへと氷を入れた。
一度水でシェイカーの中の氷を洗い、ハンドメジャーで次々と材料を入れていく。
ゆっくりと振られたシェイカーから、サワー・グラスへと液体が注がれた。
「ありがとう」
神代は出されたカクテルへと口をつけた。
「杉岡は元気でやっているかね」
しばらく前までいた押しかけ弟子の名を、懐かしむように神代は出した。
「さあ、まだいなくなってそれほど経っていないですから、そんなに心配することはないと思いますが……」
碑の口調はあっさりとしているものであった。
「まあそうかもな。でもマスターはあいつがいなくなって寂しいんじゃないのかい」
神代は上目使いで碑を見た。
「元々一人でやっていた店ですから、そんなことはないですよ」
「そうか、案外さっぱりしているのだな」
神代は苦笑いをした。碑はその表情に笑みを返した。
神代が数杯のカクテルを飲み干した後思わず口を開いた。
「マスター、こんなに客がこない店で、大丈夫なのか」
と少しだけからかいの表情を見せて言った。
「さあ、わかりません。でも、この店を誰かに譲る時までは、頑張ろうと思いますよ」
碑はそう言うと、葉巻を咥えて、煙を宙へと舞わせた。
「そうか、譲るまでか……。
じゃあそれまで、少しは売上に貢献するか」
神代は飲み終えたカクテル・グラスをカウンターの奥へと押し出した。
「よろしくお願いします」
碑は微笑みながら言葉を返した。
「じゃあキリーロッホを二杯」
「かしこまりました」
碑は背の低いボトルを取り出し、ショット・グラスを二脚出すと、琥珀色の液体を注いだ。
それを神代の前と、その横の席へと置いた。
その足で、レコードを入れ替えてから、神代の横へと座った。
「じゃあ、この店を、いつか弟子に譲れるように」
「そうなることを願って」
二人は杯を掲げて、口をつけた。
碑がダビドフの紫煙を、店内へと舞わせた。
その店内には、カーメン・マクレエのアズ・タイム・ゴーズ・バイが、いつもよりも少しだけ大きな音量で流れはじめた。