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五五、最後の日に……

 近年の一〇月にしては寒い日であった。碑は開店準備を終え、カウンターへ座りながら、清水一行の著書である動脈列島を呼んでいた。

 開店まで一時間、いつものようにのんびりとしている時であった。

「おはようございます」

 ちょっとした冷気と共に、杉岡が【秘密の井戸】の白い扉を開けた。

「なんだ、随分と早いな」

「今日は最終日ですから、気合を入れてきました。

 店の準備は何かありますか」

「いや、もう終わっているよ」

 碑は本をたたんで答えた。

「着替えてきます」

 杉岡は事務所の中へと入り、着替えを済ませて出てきた。そしてカウンターの中に入ると、今までと同じように、シェイカーを振る練習をしようとしていた。

 そんな時に碑の携帯電話がなった。碑は電話の最後に

「じゃあこれから伺います」

 と言うと、電波を遮断した。

「杉岡、悪いけれど用事ができたから、ちょっとお前に店を任せるよ」

 軽い口調を言うと、碑は事務所へ行き、上着を羽織って出てきた。

「マスター、任せるって」

 碑が何を言っているのかわからず、杉岡は不思議そうな表情で言った。

「だから、用事があって出てくるから、営業に決まっているだろう。

一年やってきてだいたいわかるだろう」

「一応はわかりますが、でも……」

 杉岡は困惑する表情を見せた。

「任せるって言っているのだから、その通りだよ。頼むぞ」

 碑は杉岡の言葉を無視するように言うと、白い扉を潜って行ってしまった。

杉岡は碑がいない店内で緊張をしているが、できる限り平常心を保とうと、シェイクの勉強に勤しんだ。

 開店の時間が近づくと、杉岡の緊張はピークに達していた。今まで働いていたカフェバーの感覚と同じ、平常心で臨めばいい。そう頭で考えるが、手が震える感覚が無くなりはしなかった。

 恐る恐る看板の電気を灯した杉岡は、本当に点いているのかを確認しに、一度扉の外を確認した。

 すぐに客はこない。今まで働いてきて客数が多い店とは決して言えない。そう考え、杉岡は深呼吸をして、カウンターの中で自分を落ち着かせようとした。

 碑がいない店内は初めてである。その景色が今までと違うように見え、何とも言えず、杉岡の背中に重りを乗せる思いであった。

 開店してから随分と時間が経っているが、未だに客がこない。緊張も続かなくなってはいるが、平常心という訳にはいかなかった。

 そんな事を考えているうちに、白い扉が開いた。杉岡は碑が帰ってきたのではないかと、思わず期待をした。しかし顔を出したのは神代であった。

「何だ、マスターは事務所にでもこもっているのか」

 軽く言うと、神代はいつもの定位置である奥から三番目の席に座った。

「いえ、マスターはちょっと出てくると言って出かけていきました」

 杉岡はおしぼりを出しながら答えた。

「そっか、そう言えば杉岡は今日で最後だったっけ」

 思い出したように神代が声をかけた。

「はい、最終日なのに、私一人で申し訳ないです」

 杉岡は最初の客が神代であった事で、胸を撫でおろした。やはり見慣れた客は気持ちを落ち着かせてくれる。

「とりあえずクロンダイクでももらおうか」

「かしこまりました」

 杉岡はコリンズ・グラスにカクテルを作ると、神代の前に差し出した。

「ありがとう」

 そう言うと神代はクロンダイク・ハイボールを飲み始めた。杉岡はどのような感想がくるのか身構えるが、神代がカクテルの感想を言うことはなかった。

「今度は都内のバーか……まあ和也のところなら俺もそのうち行くかもしれないからな。

 もっとうまいカクテルが作れるようにしておけよ」

 神代は笑顔で言うが、杉岡は迫られているような気持ちであった。

「はい、わかりました」

 神代の言葉に返事をした杉岡は、自分のカクテルはまだまだなんだと、身を引き締める思いであった。

 神代のカクテルが半分と減らないうちに、再び白い扉が開いた。今度は男女二名であった。

「杉岡君、今日で最後なんだってね」

 夏木と大路であった。

「はい、そうなんです。来月からは都内のバーで働くことになりました」

「そうなのですね。そのうちお邪魔できることを楽しみにしています」

 席につきながら大路がおしぼりを手に言った。

「はい、私も楽しみにしています」

 杉岡は頭を下げた。

「私はジントニックをお願いします」

「私はホワイト・レディを」

 二人の注文を聞き、杉岡はコリンズ・グラスとカクテル・グラスに液体を注ぐと、二人の前に差し出した。二人はいつものように軽く杯を上げてから、グラスへと口をつけた。

「今日は休みなのか」

 神代が夏木に声をかけた。

「はい、そうです。杉岡君が最後という事を聞いていたので、飲みに来ました」

「ありがとうございます」

 神代に返した夏木の言葉に、杉岡は頭を下げた。

 神代は大路と会うのははじめてのようで、ちょこちょこと夏木に突っ込みを入れながら話をはじめた。

 神代のグラスが空き、今度はサイドカーを頼まれた。そのカクテルを作っても、碑が帰ってくる気配はなかった。

 それどころか次には、夕凪と佐藤も現れ、いつになく忙しい店内で、杉岡はカクテルを作った。

 秘密の井戸へ来てから、ここまでカクテルを作った経験はない。一人で洗い物をしながらオーダーをさばき、レコードを変え、伝票を書くだけで、結構な忙しさを感じていた。 

 再び店内に冷気が入ってきた。

「杉岡、ちゃんと働いているか」

 雪乃であった。そして一番奥の席へと座った。

「ちゃんとやっていますよ」

 おしぼりを出しながら、杉岡は答えた。雪乃はおしぼりを取らずに、鞄からはがきサイズよりも少し大きい袋を取り出し、それを杉岡に渡した。

「これ、最後だから餞別」

「ありがとうございます」

 杉岡はそれを受け取った。すぐに中身を確認しないほうがいいと思い、それをしまおうとすると

「中、見なよ」

 と、雪乃は声をかけた。

「はい」

 気圧されるように、杉岡は中身を出して、それを見た。

「ミントの種ですか」

 思いもよらない物に、杉岡はあっけにとられたような表情を見せた。

「杉岡と同じで、これから育つんだよ」

 雪乃は自分なりの思いを込めたプレゼントであることを笑顔で告げた。

「ありがとうございます」

 杉岡はそんな思いが詰まっていることを嬉しく思い、改めてお礼を言い、胸に刻んだ。

「さて、私はマティーニをもらおうかな」

「かしこまりました」

 ここにきて雪乃にマティーニとは、試験をされているのではないかと杉岡は感じなくもなかった。

 ミキシング・グラスを使い、オリーブが入ったカクテル・グラスに透明度の高い液体が注がれた。

「お待たせいたしました」

 出されたマティーニを飲んで、雪乃は

「まあまあだね」

 と軽口を叩いた。それでも杉岡にしたら、認められたと思える言葉であった。

 大路がジャックローズを頼み、それが差し出された時であった。

 白い扉が開き、いつもはカウンターの中にいるはずの碑が入ってきた。

「マスター、お帰りなさい」

 思わず、今まで出したこともない言葉が杉岡の口から出された。だが碑はカウンターの中には入らず、神代と雪乃の間の席へと腰を下ろした。

「ダイキリを」

 碑の言葉に、杉岡は驚きを隠せない表情を一瞬見せた。しかしながらこの場面はカクテルを作るしかないと判断し、カクテル・グラスに氷を入れてから、おしぼりを碑へと出した。

 材料を入れ、シェイカーを振る杉岡の緊張が、店内にいる誰もが理解できるようであった。

「お待たせいたしました」

 ダイキリが碑の前に出される。碑は無言のまま、液体に口をつけた。

 そして誰もが碑の言葉を待った。

「まだまだだけれど、合格とするか」

 碑はそう言うと、笑顔を杉岡に向けた。

その言葉をもらい、杉岡は少しだけ涙が出そうになりながら

「ありがとうございます」

と答え、頭を深々と下げた。

カウンターに座るみんなの視線が、微笑ましいものに変わった時であった。神代が隣の碑に声をかけた。

「マスター、用意してあるよな」

「もちろんです」

 碑は小さく頷いた。

「杉岡、シャンパン、クリュッグだ」

 神代が少し大きな声で頼んだ言葉は、店内に響くようであった。

「えっ、クリュッグなんて無いと思いますが……」

 杉岡が今まで見たことのないボトルの名前を述べた。

「ちゃんと確認してみろ」

 碑の言葉に杉岡は冷蔵庫の中を確認した。

そして一番奥に、クリュグを発見した。

 碑は一気にダイキリを飲み干し、カウンターの中へと入った。

 杉岡は冷蔵庫からクリュグを出し、作業台の前へと置いた。

「ちょうど八人いるからな」

 碑はそういうと、フルート・シャンパン・グラスを八脚用意した。

「杉岡、今日はいつものバーみたいに音を立てないなんてことをするなよ。

 大きな音を立てて開けろよ」

 神代が杉岡にリクエストをした。杉岡は確認するように碑を見ると、もちろんというように碑は大きく頷いた。

「ポン」 

 大きな音を立てて、クリュグは開栓された。そして八脚のグラスに次々を泡の立つ液体が注がれた。

「それじゃあ、マスター、音頭を取ってくれ」

「えっ、神代さんが言う、のじゃないのですか」

「そんな訳ないだろう。それはマスターの役目だ」

 神代はそう言いながら、すべてのグラスがみんなに行きわたるようにした。碑は渋々承諾したように、シャンパン・グラスを手に口を開いた。

「みなさん、今日は杉岡の最後に立ち会ってくれてありがとうございます。

 和也のバーに行っても、杉岡が頑張れるように乾杯をしたいと思います。

 乾杯」

 碑の言葉に続くように

「乾杯」

 の合唱が起こり、掲げられた杯へと口をつけた。


 店は先ほどまでの賑やかさとは打って変わり、静かになっていた。

 カウンターには碑と雪乃だけが座っている。

 ターンテーブルに乗せられたエロール・ガーナーのミスティが、更に静けさを助長した。

「杉岡、まだまだお前のバーテンダー人生は、この曲のように霧がかかった状態だ。

 でも、その霧を晴らせるのは、お前の力だけだぞ」

 碑はそう言うと、目の前にあるショット・グラスへと手を伸ばした。

「はい」

「和也のところで、しっかりと勉強して、あいつの力になってやれよ」

「はい」

 杉岡の表情は今にも崩れそうになっていた。

「杉岡、しっかりやれよ」

 続くように雪乃は発破をかけた。杉岡は無言で頷いた。

 碑はモンテクリストのNo4を加え、煙を宙へと舞わせ、モダンマスターズのクライヌリッシュ一九七四へと口をつけた。


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