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五四、懐かしい光景

 杉岡は自分が買ってきたバカルディ・ラムとレモン・ジュース、ガムシロップを使い、ダイキリを作っていた。

 作業台の上に置かれたカクテル・グラスに液体を注ぎ、それを味見した。それなりに美味しい味にはなっている。しかしながら、まだまだ目指す味が遠いことも理解していた。

「マスター、味を見てもらってもいいですか」

「いや、もうお前の判断で十分だろう。自分のカクテルが実際どの位置にいるか、それは理解できるだろう」

 カウンターに座る碑は、カクテル・グラスを持っていこうとする杉岡を制した。来週を最後に、杉岡は自分の元を離れる。それを考えた時に、もう自らの判断、そして今後勤めることになる和也の判断で行うことが最善だと考えたからだ。

「わかりました」

 そういうと杉岡は、もう一口ダイキリを口にした。色々なバーに行って飲んだダイキリの味を思い浮かべても、中の上という評価が浮かぶ。時間は有限であり、無駄遣いをしていたら上達はない。今、この一瞬を大切に、そして最良の状態にするために、自分が何をしたら良いか……杉岡はもう一度、頭の中を整理した。

「杉岡、できる限り作ったカクテルは無駄にするなよ」

 その碑の言葉を聞き、杉岡は一気にダイキリを飲み干した。

「バーテンダーが酒を飲むシーンはあるが、酒を飲んでちゃんとした酒を提供できないようならば飲むなよ」

「はい」

 杉岡は酒を飲んでいても、営業中に出す酒に手を抜かず、しっかりと商品として価値のある物を提供する碑を知っているからこそ、真剣な眼差しで答えた。しかも碑は、これ以上飲むと手元に自信がない時には、客に飲もうと言われても、決してアルコールを口にしなかった。それが職人なのだと杉岡は、見て学んでいた。

 シェイカーを洗うためにシンクに入れた時であった。白い扉が開いた。

「いらっしゃいませ」

 杉岡は入店してきた若い男女を見て声をかけた。

「いらっしゃいませ、どうぞ」

 席から立ち上がると、碑は二人に席を勧めた。座った二人に杉岡はおしぼりを出した。

 カウンターの中に碑が入ると、男は口を開いた。

「あの、ムーンの桜井さんからの紹介で」

 男の言葉に女は同調するように頷いた。

「そうでしたか、場所はすぐにわかりましたか」

「こんなに繁華街から離れたところにあるとは思わなかったので、ちょっと探してしまいました」

「そうでしたか」

 碑は笑顔で返した。たまに他のバーから紹介された客が来ることもあるが、まさか雪乃の紹介とは、碑は思いもよらなかった。

「ウイスキーが好きだと言ったら、こちらを紹介されました。新しい物から少し古い物まであると言われて……」

「そうでしたか、ウイスキーはスコッチが多いくらいで、他はそれほどではありませんが、どのような物が良いか言っていただければお出しいたします」

 碑は丁寧に答えた。

「ピートの強い物が好きです、アードベッグとか、ラフロイグとか」

「そうですか、ではそのあたりが良いですか」

「いや、別の何か知らないような物があれば……」

 男は遠慮がちに言った。

「そうですね」

 碑はバックバーを見て、三本ほどウイスキーのボトルをカウンターへ取り出した。

「見たことない物ばかりです」

 男は興味津々という表情でボトルを見まわした。

「こちらから、燻酒、ブラックアダーのカリラ、チーフタンズのボウモアです」

 碑の視線は、先ほどから何も語らない女へと向いた。

「どうなさいますか」

「私は甘いカクテルがいいです。グラスホッパーはありますか」

「はい、ございます」

「じゃあグラスホッパーで」

 注文を耳にして杉岡はすぐにグラスと材料を準備しはじめた。

「僕はこの燻酒というやつをロックでください」

 男は弾むような声で注文をした。

「あの、ロックは避けた方が良いかもしれません」

 碑はそう言うと男の反応を見た。

「えっ、ロックって駄目なのですか」

 素直に聞き入れた男の表情を見て、碑は言葉を続けた。

「いや駄目という訳ではないですが、このように香りに癖のあるウイスキーは、ロックよりもストレートをお勧めします」

「わかりました。じゃあストレートで」

 男は特に違和感を持たずに言われるまま注文をした。

 杉岡は、ショット・グラスに燻酒を入れると男の前に差し出し、チェイサーを準備した。

 その間に碑はカクテルを作り、女の前に置かれたカクテル・グラスへ液体を注いだ。

「お待たせいたしました」

 男女が目を合わせ、各々のグラスへと口をつけた。

「何だか凄くミントが強く感じます」

 頬を緩めて女が声を上げた。

「うちのミント・リキュールは生のミントのようにフレッシュな感じがありますからね」

 碑はそう言うと、ヴォルフベルジェールのミント・リキュールを女の前に出した。

「このボトルは見たことないです」

 女は感心するように言った。碑は笑顔を返すと、ショット・グラスを一つ取り、小さな氷を一つだけ入れた。そして燻酒を少量垂らし、バースプーンで数回、氷を回転させた。

「もし良ければ、ストレートの物と香りを嗅ぎ比べてください」

 男は差し出されたショット・グラスに鼻を近づけた。

「これって……」

 男は不思議そうな表情を見せた。

「今飲まれている燻酒です。それをロックの状態にしたものです」

 男は目の前で注がれていたので、それはわかっていた。しかしながら香りに驚いているのである。そのせいか、再びストレートとロックの物と交互に香りを比べている。

「液体は冷やすと香りが小さくなります。それなので香りに特徴がある物を冷やすと良くないので、ストレートを勧めるのですよ」

 そう言うと碑は笑顔を見せた。

「そうなのですね、何だぁ、これからストレートにしよう」

 その男の言葉に女は興味を持ったのか、二つのグラスの香りを比べた。

「確かに、全然違う。

 グラスホッパーといい、ここ当たりだよ」

 女は少し興奮するように男に言った。男は頷き、女の前に置かれているグラスホッパーに口をつけた。

「確かに、今度桜井さんにお礼に行ってこないと」

 二人は飛び切りの笑顔を見せた。

 碑は何となく嬉しくなったのか、たまにやるウイスキーの水割りの飲み比べをしようと思い、六オンスのグラスを二つ、棚から取り出した。

 杉岡はこの店にはじめて入った時のことを思い出したのか、バックバーからブレンデッド・スコッチのネビス・デューと取り出した。碑は笑顔でそのボトルを受け取ると、二つのグラスに二〇ミリリットルの液体を注いだ。

「今、同じウイスキーを二つのグラスに入れました。量が同じことを確認してください」

 男女は目の前に出されたグラスをまじまじと見つめた。

「量らないで入れて、同じ量になるんだ」

 女はハンドメジャーで同じ量が注がれたことに驚きながら言った。

「そうですね、長くやっていますから」

 碑が謙遜するように言った。そしてグラスを作業台へ移動させると、二つに氷を入れた。

 一つ目のグラスへ、水を注ぎ、ビルドをして二人の前に差し出した。

「まずこのウイスキーの水割りを飲んでください」

 二人は顔を見合わせる。女が先にグラスを手にし、次に男も口をつけた。

「飲みやすいね」

 女の言葉に男も同調するように頷いた。

 碑はもう一つのグラスにバースプーンを入れ、ウイスキーの温度を確かめながら、クルクルと回し始めた。適温を感じ取ると、碑はバースプーンを抜き、水を入れてから、今一度クルクルとバースプーンを回した。

「今度はこちらを飲んでみてください」

 何で二つも出したのだろうと、不思議そうな表情をしながら、女はグラスに口をつけた。

そして驚くような表情を見せ、手で口を塞いだ。

 何をそんなに驚いているのかと思いながら、男は水割りを飲んだ。

「何これ」

 狐につままれたような表情を見せた男は、最初に出された水割りを再び飲んだ。

「二杯目のウイスキーを飲んだら、一杯目のウイスキーは全然ウイスキーの味がしないという感じでした」

 女も一杯目のウイスキーを飲み、男の感想と同じなのか、頷いて同調した。

「水割りもちゃんと作るのと、そうでないのではこんなに変わってしまうのですよ。

 バーでもちゃんとした水割りを出せない店があるので、こういう事をするとびっくりされる方は多いですね」

 そう言われて、二人は顔を合わせて頷くことしかできなかった。

「ねえ、ムーンの桜井さんには絶対にお礼にいかないとね」

「もちろん、近いうちに行ってこよう」

 二人はそういうと、二杯目の水割りを再び手に取った。


「マスター、水割りの話、私が来た時にもやってくれましたよね」

 杉岡はグラスを棚に片付け終わると、カウンターでキャンドルライトの煙を宙へ舞わせている碑に声をかけた。

「そうだっけ、あれは誰にでもやることが多いからな。

まあ、ああいうちょっとした事で信用を勝ち得ることもあるからな。

 でもそれ以上に、美味しい物があるのだって理解をしてもらえればいいのだけれどな」

 碑はそう言うと、何かを思い出したのか、頬を緩め、再び煙を宙へと舞わせ

「杉岡、イチローズのホワイト・ラベルで、水割りを作ってくれ」

 と催促をした。

「はい」

 杉岡は、グラスを冷やし、ウイスキーを冷やし、水を入れて仕上げた。

「ありがとう」

 碑は水割りを口にし、満足そうな表情を浮かべた。

 店内には、カーメン・マクレエのセカンド・トゥ・ノウに収録さえている黒いオルフェが流れていた。


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