五三、理屈、理解、実践
珍しく秋を感じさせる陽気であった。日中の過ごしやすさのせいか、店内のエアコンの風は、穏やかに感じられた。
そんな店内に神代が入ってきたのは、巷の二次会というものが終わる、というくらいの時間帯であった。
「いらっしゃいませ」
杉岡がおしぼりをカウンターの上に置いた。
「マスター、ダイキリを頼む」
「かしこまりました」
作業台の上にカクテル・グラスが置かれ、氷でそれを冷やし始める。杉岡はバカルディ・ラムとレモン・ジュース、砂糖を用意して邪魔にならない位置へと置いた。
碑は変わらずハンドメジャーで材料をシェイカーに入れると、いつものように滑らかなシェイクを見せた。
「お待たせしました」
きっちりとカクテル・グラスを埋めたダイキリを、神代の前へと差し出す。
神代はそれを一口飲んでから、言葉を出した。
「マスターのダイキリ……。
やっぱりうまいな」
「ありがとうございます」
碑は軽く頭を下げた。
「マスターの思い出の酒だったっけ、ダイキリは……」
カクテル・グラスに向いた神代の視線は、何となく昔を懐かしむようであった。
「そうですね。神代さんに会ったのも、その頃でしたね」
碑の感傷も、遠くへと飛んでいるように思える口調であった。
「マスターと神代さんの出会いって……」
杉岡が興味を持って言った。
「ホテルに入社した頃だったよな」
「そうですね、研修を終えたばかりの新入社員でしたね」
神代の言葉に反応するように碑は答えた。驚くような表情で杉岡は言葉を発した。
「マスターって、ホテルのバーテンダーだったのですね」
「三年くらいだったっけ」
碑に代わり、神代が答えた。
「そうですね。すぐにやめてしまいまたからね」
碑はどうでもいいというような表情で答えると、ヒュミドールからロメオ&ジュリエッタのチャーチルを取り出し、パンチカットをした。
「神代さんはそこのホテルの客でもあったのですね」
杉岡は出会いという事から推測して言葉を出した。
「まあな」
軽く答えてから、神代はダイキリを口にした。
「ホテルのバーと言っても、先輩がたからな。
カクテルを作るなんていう事はほとんどさせてもらえずに、洗い物や片付けばかりだけれどな」
回想するように、碑は煙を宙へと飛ばした。
「たまに来る常連が、作ってみろよ、と声をかけてもらって、やっと作れたりするのだけれどな」
「じゃあ神代さんもその頃のマスターに作ってもらったことがあるのですか」
杉岡は自分の知らない時代の話を、もっと聞き出そうとしていた。
「俺は飲んだことはなかったよ。
たまに行く客だったし、常連ということではなかったからな。
でも、ちょうど入ったばかりのマスターに作らせる客がいたことは覚えているよ」
「あの時、はじめて客にカクテルを出した時でしたね」
碑は更に回顧するように、先ほどよりも多い量の煙を吐き出した。
「バーに配属されて、シェイクなどの勉強はしていたけれど、先ほど神代さんが言っていたように、まず客に提供することはなかったからな。
常連客にダイキリを作れと言われてもレシピすら知らない状態だったからな」
碑はしばらく話をすることになると思ったからか、イチローズ・ホワイトラベルのソーダ割を作ると、神代を並んで座った。
「レシピも知らないのに、作れ、って言われるのですか」
杉岡は自分であればと緊張してしまうと、勝手ながら考えた。
「そりゃあ言われたら作らざるを得ないだろう。
先輩が材料を出して、これが何ミリ、これが何ミリって言われてな。
ハンドメジャーの練習はしていたから、すぐに作ったよ」
碑は思い出したのか、思わず頬を緩めて言った。
「それでどうなったのですか」
杉岡は先を即した。
「なんだ、はじめてにしてはうまいじゃないかって言われてな」
碑は苦笑いをして答え、ソーダ割を口にした。
「はじめから客に出せるクオリティだったのですか」
杉岡は自らと比べてしまい、驚きを隠せなかった。
「いや、今の俺からしたら全くだ。それでも客は良いって言っていたよ」
碑は思い出してか、一瞬嫌そうな表情を見せた。
「でも、そこのホテルの水準にはいっていたのだろう」
「まあ神代さんが言うように、他の先輩たちも味見をして、十分だと言われましたが……」
碑の言葉に切れはなかった。それを払拭したいからなのか、碑は煙を宙に吐き出した。
「だが独立したら、自分の未熟さに気が付く。
もっともっと腕を上げなければと思うようになった。
あの頃は月に二回くらい平日に休んで、あちこちのバーに行ったものさ」
碑は懐かしむような表情を見せて、チャーチルを口にした。
「だから私に多くのバーテンダーのカクテルを飲んで来いと言ったのですね」
「ああ、まずは価値基準を作り、自分がどの位置にいるのかを判断して、そこから上を目指すためには何をするべきなのかを考える。
あとはどのような理屈があり、それを理解し、実践できるものだけを使って、どれだけの物が作れるのか……それを続けていれば、俺くらいの酒は誰でもできるようになる」
碑はそういうと、再び煙を宙に舞わせた。この人は簡単に言ってくれる。杉岡は師匠の顔をまじまじと見て思った。
「マスター、たまには何か飲むかい」
神代はダイキリを口にしてから碑に問いかけた。
「そうですね。ではマンハッタンをもらいますか」
杉岡はすぐさまカクテル・グラスとミキシング・グラスを出し、氷を入れてから、オールド・オーバー・ホルトとロタン・スィートを作業台の前に準備した。一度、グラスに入った氷を回し、よりグラスが冷えるようにしてから、チェリーとレモン・ピールを用意した。
碑の前にグラスとチェリーの入った皿が置かれ、ミキシング・グラスの氷を洗い、材料が入れられていった。
杉岡のバースプーンは音もなくミキシング・グラスへと入り、回された。
「お待たせいたしました」
レモン・ピールを済ませたマンハッタンが杉岡の手によって、碑の前に差し出された。
「神代さん、いただきます」
神代は碑の挨拶に、軽くグラスを上げて答えた。
二人がほぼ同時にカクテルに口をつけた。杉岡はどのような評価が下されるのか、内心冷や冷やしていた。
「まあまあだな」
碑が少しだけ口元を緩めて答えた。
「まあまあという事は、良くはないという事ですか」
杉岡が食い下がった。碑はカクテル・グラスを神代のほうへと移動させた。
神代は何も言わずに、液体に口をつけた。
「一定水準に行っているという意味ではありかな。だがアルコール感がまだ強いな。
そこを超えたら一人前に一歩、足を踏み込めるのかもな」
神代は碑の言葉を代弁するように言った。
「まずくはないよ」
改めてマンハッタンを口にした碑に言われると、杉岡は次こそは、と闘志を燃やす思いであった。
「そういえば、ホテルを辞めて、独立してから、マスターはどのようにカクテルの技術を上げていったのですか」
杉岡は先ほどの続きが聴きたくなった。
「前に来た沼貫さんを覚えているだろう」
「はい」
自分の使っていたグラスを渡しに来た元バーテンダーの方だと杉岡は認識していた。
「あの人が来た時に、水割りがうまくないって言われてな。
当時の俺はホテルでも、水割りはそのまま作ればいいくらいの代物で、うまい物という認識はあまりなかったのだよ。でも、もっとうまいレベルの物があるのかというので、気持ちを入れ替えて作るようになった。
そのうち自分でも上達を実感するようになったし、一緒に飲むようになった沼貫さんとカクテル論などを交わしていくうちに、俺のカクテルは出来上がっていったのだよ」
碑は語ると、懐かしそうな表情を見せて、マンハッタンを口にした
「さて、俺はクライズデールのストラスアイラでも貰おうかな」
神代はダイキリを飲み干すと、杉岡に注文をした。
杉岡はトール瓶の、少しだけ黄色がかった液体の入るボトルを手にすると、ショット・グラスに注ぎ、神代の前へと差し出した。
「昔、ウイスキーは六〇度以上じゃないと、なんていうコがいたよな」
いつの時代の事なのか杉岡にはわからなかったが、神代の言葉に碑は、そんな言葉を言った人物を特定し懐かしそうに返した。
「そう言えばいましたね。結婚して子供ができたなんていう連絡までは来ていましたが、今は何をしているのやら……」
杉岡は気になってボトルを確認すると、ラベルには六三度というアルコール度数が表記されていた。
神代がストラスアイラを口にすると同時に、碑はマンハッタンへと口をつけて、杯を空にした。
「神代さん、ミルバーンをもらってもいいですか」
唐突に碑がバックバーを見たまま言った。
「ああ」
神代は珍しく酒を催促してくる碑に、軽く了承するというように首を縦に振った。
「UDのレア・モルトですか」
杉岡の問いかけに、碑は無言で頷いた。
そしてショット・グラスにウイスキーが注がれ、碑の前へと出された。
神代は軽く杯を掲げた。碑もそれに続く。
杉岡はプレイヤーの上に、ロン・カーターのザ・マン・ウィズ・ザ・ベースのアルバムを乗せ、針を落とした。