五二、自然がつくるもの
「マスター、この店の氷は製氷機の氷を締めなおして使っているのですよね」
カウンターの中でターテーブルに乗せるレコードを選んでいる碑に、杉岡は声をかけた。
「そうだよ、今更どうした」
碑はそういうとターンテーブルにレコードを乗せた。
「いや、前に聞いたので知っているのですが、和也さんの店では貫氷だと聞いたもので」
「ああ、そうみたいだな。氷の扱いは和也のところに行ったら覚えないとな」
碑は思い出したように言った。
「はい、それにしても、ここの氷は大きいですよね」
「そう、製氷機の種類が違うからな。小さな氷ではなく、製氷皿に九つしかできないものだからな。
それを冷凍庫で締めなおして、ピックで割って、更に締める」
「だから溶けにくい氷になっているのですね」
杉岡は勝ち割った氷をミキシング・グラスへ入れ、バースプーンを回す練習をしはじめた。
そんな時に、初老の男が白い扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
手を止めた杉岡と、ちょうど音楽を流しはじめた碑が同時に言った。
「ここ、いいですか」
初老の男は入り口に近い席を指さした。
「どうぞ」
碑が答えると、すぐさま男は席に着き、バックバーにある酒に目を留めた。
「イチローズ・モルトのMWRをロックで」
杉岡がおしぼりを出すのと同じタイミングで、男は注文をしてきた。
「モルトウイスキーでしたら、ストレートの方が香りを楽しめますが、いかがいたしましょう」
「そうなのだろうけれど、やっぱりロックがいいかな」
「かしこまりました」
これ以上、バーテンダーの意見を押し付けるのは良くない。杉岡はすぐにバックバーからボトルを手にした。
碑は棚からオールド・ファッション・グラスと、チェイサー用のグラスを手に取り、作業台の上に置いた。
杉岡は、冷凍庫から、製氷機でできた大きめの四角い氷を取り出した。それは大振りのオールド・ファッション・グラスにすっぽりと入り込んだ。バースプーンが入らないので、トングを氷の上につけ、くるくると回して、グラスを冷やすと、MWRを注いだ。
「お待たせいたしました」
グラスが客の前に出された。
男はグラスを手にすると、氷をまじまじと眺めた。
「こういう店の氷は、空気などが入っていなくて、透明度が高いから好きなのだよね」
そういうと、グラスへと口をつけた。
「ゆっくり固めて、空気を抜きながら作れば、家でも透明度は出るのでしょうが、手をかけないと無理でしょうからね。
うちは製氷機なので、氷屋の物とは異なりますが、もっと透明度が高いところは多いですね」
碑はこの店は製氷機の物だと伝えた。
「でもここの氷は締めなおしているみたいだからね。
ちゃんとしているバーだと思いますよ」
初老の男の言葉に
「お褒めいただき、ありがとうございます」
と碑は軽く頭を下げた。
「氷と言えば、現在の状況を氷河期だという人がいるが、どう思いますか」
初老の男は、思い出したように、急に問いかけてきた。
「一〇月でもこんなに暑いのですから、氷河期ではないと思いますが……」
「でも氷河がある段階で氷河期だと言う人も中にはいるからな……。
私は氷河期だと思います」
杉岡に続いて、碑が答えた。
初老の男は喉を潤してから正解を言った。
「今は氷河期ではないですね。氷河期は大陸の大部分が氷床で覆われていることを指すからね。
更に気温が高くなると氷期、比較的温暖になってくると関氷期と言われるのですよ。
だから今は関氷期ですね」
「そうなのですね。勉強になります」
碑と杉岡は頭を下げた。こういうちょっとしたことが、自らの勉強になる。しかしながら真意はしっかりと確かめてからなのだと杉岡は考えた。
「すみません、こんな話をして、ただ温暖化という波の中で、これが人間のせいなのかどうかなど、良くわかりませんが、地球自体で気温が変化している可能性がないわけではないので、まだまだ人間にはわかりえないことが多いのでしょうね。
ちなみに一九一三年の七月にアメリカ、カリフォルニア州のデスバレーで五六点七度という最高気温が記録されているみたいですね。
現在の地球全体の平均気温は一五度で、白亜紀は二二度だったようですから、かなり暑かったようですね」
男はそういうと、ウイスキーを口にし、冷えた感覚を確かめているようであった。
「気温などに詳しいようですが、何か専門でやられているのですか」
思わず杉岡が疑問を投げかけた。男は何食わぬ表情を見せ、あっさりと答えた。
「いや、農家です」
その言葉に拍子抜けした杉岡であった。碑も笑みを浮かべ質問をした。
「そうですか、やはり気温が変わってくると野菜などの育て方も難しくなるのですか」
「まあね、ちゃんと育て方を理解しないと駄目になったりしちゃうからね。
でも自然には人間はかなわないからね。結局なるようにしかならないよ」
初老の男は碑の問いに答えると、再びMWRを口にした。
「専門とかじゃなくても、色々と詳しい人はいるのですね」
初老の男が帰った後に、杉岡はグラスを洗いながら碑に問いかけた。
「興味があることであれば、自然と詳しくはなるだろな。
ウイスキーだってそうだ、バーテンダーじゃなくても詳しい人間はごまんといる」
碑が言うと、杉岡は確かにと納得せざるを得なかった。
「ただネットであっさりと調べられるものが増えているのは便利だけれど、記憶に定着しない人も多いからな。何を持って詳しいというのか、これからの時代によっては変わってくるのだろうけれどな……」
碑は宙を見るように言った。
「確かにそうですね」
「たださっきの人が言っていたように、自然はどうやっても人間が勝てるものではないからな。
科学だけじゃどうにもならない。
ただ二酸化炭素を減らすなど、努力はできるのだろうな。まあその説を否定している人もいるから、俺たちにはわからないけれど、できる限りの事をしないといけない気がするよ」
碑はそう言うと、カウンターに座り、タバカレラのロブストを吸い始めた。
「お酒を人間が作ったというけれども、自然の材料を使って作るものですからね。
やはり環境を守るということは大切なのでしょうね」
杉岡は考えながら言った。
「そうだな、ウイスキー一つにしても、麦が変わり、樽が変わり、熟成をさせる気候条件も変わる。
今あるものは今しか作れない物だろうし、これから作られる物も、どんどん変化していくのだろうな」
人間の力は時には無限であるが、自然に対しては有限である。杉岡はそんな事を考えた。
今、秘密の井戸というバーにいる間に、自らの無限の力を底上げしていく必要がある。続く考えはそこであった。
「杉岡、うちの店の一番古い閉鎖蒸留所のウイスキーを出してごらん」
碑は煙を宙に浮かべながら話しかけた。
「一番古い物ですね」
杉岡はすぐにバックバーから一本のボトルを手にした。ラベルは黒である。
「こちらです。キンクレイス、ゴードン&マクファイル、コニッサーズ・チョイス一九六七です」
「よくわかっているじゃないか」
碑は感心するように、一度煙を吐き出してから、カウンターの中へと入った。
「杉岡、カウンターに座れ」
碑が言うと、杉岡はそれに従い、席へと着いた。碑はショット・グラスを一つ取ると、キンクレイスをグラスへと注ぎ、杉岡の前へと出した。
「えっ」
杉岡は驚いた表情を見せた。
「味見をすることも勉強だ。しかもこの辺のサイレント・ディスティラリーの物は、なかなか飲める機会がないから、今のうちに味わっておけ」
「本当にいいのですか」
碑の言葉に恐縮するように言った。そして緊張する手は、グラスを手中にすることはできなかった。
「お前が飲まないのならば、俺が飲むだけだけれどな」
碑はそういうと、カウンターの上に置き去りになっていた葉巻を手に咥えた。
杉岡は意を決するような表情を見せて
「いただきます」
と軽く頭を下げてからグラスを手にした。
「これがキンクレイスの味なのですね」
杉岡の視線はグラスから離れることはなかった。
「そうだ、知っているという事と、飲んだという事では実績が違うからな」
碑はそう言うと、バックバーから一本のボトルを手にして、ショット・グラスへと注いだ。そして自らが座っていたカウンターの席へ出してから、一枚のレコードをターンテーブルに置き、席に着いた。
「ベン・ウィヴィス、オフィシャルの一九七二ですね」
杉岡が思わずボトルを見て言葉にした。
「そうだ、よく勉強しているな」
杉岡は褒められたことに、照れるような表情を見せて、軽く頷いた。
碑はウイスキーを口腔へと流し込んだ。そしてそのグラスを杉岡の方へと押し出した。「いただきます」
杉岡は碑の意を読み取り、そのグラスを手にした。
「自然と人間の手によって生まれたウイスキー、だけれども人間の手によって閉鎖に追い込まれたウイスキー。
色々な物を見て、聞いて、味わって……。そうやって成長していくのだろうな」
碑は手元に返ってきたショット・グラスを手にすると、口の中へとそれを流し込んだ。
店内には、先ほどターンテーブルに乗せられたグレン・ミラー物語の中に収録されているセントルイス・ブルース・マーチが流れていた。