五一、振り比べた夜に
雨が振っても、まだまだ暑さが和らぐ様子はなく、湿度の高い、嫌な日であった。
誰も来る気配がない中、碑はゆっくりとナットシャーマンのロブストを咥えていた。
杉岡はいつものように、客がいない時間にシェイカーを振るが、心ここにあらずという感じであった。
「杉岡、少し振るのを辞めておけ」
碑の強い口調が飛んだ。今まで客のいない時間帯に練習をしていて、はじめて辞めろという言葉を言われた。
「えっ」
なぜそんな事を言われたのか分からず、杉岡はただ手を止めた。
「気持ちが入っていないのが丸見えなのだよ。
俺たちバーテンダーは、どんな時でもちゃんとした商品を作らなければならない。
それができないなら、練習とは言え、やらないほうがマシだ」
杉岡はこんなに強い口調の碑を見るのもはじめてであった。それほどまでに自分の今の状態は良くない……、そう思うと気持ちが折れた……。
「すみません」
出せた言葉はこの一言だけであった。
碑はそんな杉岡を見かねてか、ナットシャーマンを置いた灰皿を持ったまま事務所へと入ってしまった。揺れ動いている杉岡の気持ちがわからないではなかったからである。
しかし杉岡は、碑が怒ってしまったのではないかという気持ちと、自分が中途半端な気持ちで練習をしていた事を責めていた。
何も手がつかず、ただただカウンターの中に立ち尽くし、和也に言われた言葉を思い出した。
「うちで働かないか」
嬉しかった。だが和也の店に行くのか迷っていた。碑に言われたように自らの今の揺れ動く気分で、まともにシェイカーを振ることもできない。そんなバーテンダーが果たして和也の店で戦力になるのか……と自信を喪失してしまう。
誰もこない店内、碑のいないただ一人の空間が、更に寂しさを加えていく。
しっかりしなければいけない。杉岡は思わず手洗いで顔を洗った。
そんな時に、白い扉が開き、雨音が聞こえてきた。
「あれ、マスターいないんだ」
傘をたたみながら店内に入ってきたのは雪乃であった。
「いらっしゃいませ」
杉岡はなるべくいつもと変わらないように声をかけた。
雪乃は杉岡の気持ちが揺れ動いていることには気が付いていないのか、カウンターへと座り、杉岡からおしぼりを受け取った。
「マスターは今事務所に……」
杉岡の声は、落ち込んでいる感情を隠せないようであった。
「何かあったの」
雪乃はそんな杉岡の表情を確認した。
「いえ、何も」
杉岡は平静を装おうとしたが、表情を見た雪乃には、気落ちが晴れているようには思えなかった。
「なんだ、雪乃か」
「なんだ、じゃないですよ。珍しくいないのかと思いましたよ」
事務所から出てきた碑に雪乃は声をかけた。碑は雪乃の隣の席に座り、ナットシャーマンに火を点けた。
「暇だし、こいつが腑抜けた感じだから、事務所に行っていたのだ」
碑の言葉に、雪乃は杉岡の感じがおかしかった理由がやっとわかった。
「まあいいや、ジントニックをください」
雪乃が注文をすると、杉岡はすぐさまジントニックを作り始めた。自分なりに気持ちは切り替えているつもりなのだろうが、どことなくいつものような切れが感じられなかった。
「腑抜けって、何かあったの」
ジントニックを差し出した杉岡に雪乃は遠慮をせずに問いかけた。
「いえ、特に」
杉岡は答えを濁した。
碑は煙を宙へと舞わせ言葉を出した。
「一丁前に悩んでいる、のだとさ」
杉岡は碑に見透かされている感じで、その目を見ることができなかった。
「何を悩んでいるの」
雪乃が問い詰める。その視線に追い詰められそうになるが、杉岡は答えなかった。それを碑があっさりと代弁した。
「こいつ、和也の店に誘われて、悩んでいるのだ。
先週、うちの店で働かないかと言われて……」
「和也って、前にこの辺で働いていた木村和也さんですか」
雪乃は和也の存在を知っているようであった。
「そう、その和也だ」
碑は再び葉巻を口にした。
「都内の有名店だよ。いいじゃん」
雪乃は自分にはそんな話が来ない、という気持ちで、羨ましさと励ましとが混ざった声を出し、ジントニックを口にした。
「今の自分の能力で、果たして和也さんの店に行って働いて平気なのか。
まだまだマスターの元で修行をしたほうがいいのか……」
杉岡は自信なさそうな小さな声をだした。
「だって和也さんからの誘いだろう。行けばいいじゃん」
雪乃は和也が認めたという事は、やはり羨ましかった。だからこそ行くべきだと思えた。
「まだバーテンダーとして勉強をして、一年も経っていないんですよ」
神代や他の客にも、カクテルはうまくなったと言われるが、自分自身の自信はまだまだ納得できるものではなかった。それで通用するのか……不安が声に混ざっていた。
「年数じゃないんじゃない。和也さんだって杉岡のカクテルを飲んで言っているんだろう。
だったら迷うことはないだろう」
雪乃は煮え切らない杉岡に、軽い苛立ちを覚え、強い口調で言った。
碑は煙を宙に舞わせてから、思わず口を開いた。
「雪乃、カウンターの中に入れ」
「えっ」
雪乃は何度もこの店に来たことはあっても、カウンターの中に入れと言われたことなどなく、驚きを隠せなかった。
「カウンターの中に入って、杉岡とホワイト・レディの作り比べをしてごらん」
碑の言葉は有無も言わせぬものであった。
「わかりました」
雪乃は真剣な碑の視線を感じ、席を立った。
「杉岡、グラスと材料を」
「はい」
杉岡はカクテル・グラスを二脚出し、ビフィーター・ジン、エギュベルのホワイト・キュラソー、レモン・ジュースを作業台の前に出した。
「雪乃、二つのシェイカーにお前が材料を入れてごらん。
全く同じ量で、振り比べてごらん」
杉岡がシェイカーを準備した。
秘密の井戸では、普段シェイカーの中に氷を先に入れるが、今回は違った。
雪乃が二つのシェイカーに、同量の酒を注いでいく。その間に杉岡はグラスを氷で冷やし、シェイカーに入れる氷を洗った。
「準備はいいか」
二つのシェイカーに材料が入り、二脚のグラスがカウンターの上に置かれたのを確認して、碑は声をかけた。
「はい」
二人の声は同時であった。
各々にシェイカーに洗った氷を入れ、シェイクをはじめた。
そして二脚のカクテル・グラスに液体が注がれた。
碑は無言で二つのホワイト・レディを飲み比べた。その光景を二人は緊張した面持ちで眺めていた。飲み終わると碑は何も言わずに、二人に飲んでみろと言わんばかりに、グラスを押し出した。
二人が自分の作った物と、相手が作った物を飲み比べる。
「どうだ」
碑の言葉が飛んだ。
「どちらも美味しいと思います」
先に感想を述べたのは雪乃であった。それに杉岡も続いた。
「私も、遜色ないと思います」
その答えに、碑はナットシャーマンを咥え、煙を吐き出した。
「経験が長い雪乃と、一年も経っていない杉岡……。
どちらもそれなりの物になっている。
これでも自信がないのか」
碑は杉岡に言った。杉岡はまだ迷った表情をしている。雪乃は逆に、同じレベルになっていることに、自分がもっと努力をしなければならないと反省の表情を見せた。
「このカクテルは、客に出せるレベルにないと……」
更に碑が問い詰める。杉岡は碑の目を、直視した。
「そんなことはないと思います」
口調は強かった。それは雪乃のカクテルも踏まえてという面もあったかもしれない。
「和也の見立ては間違いだったという事か」
碑の眼圧が強い。しかし杉岡は怯まなかった。ここで言葉を返せないことはあってはならないと思った。
「いや、それも違うと思います。ただ自分に確信が持てないと」
「じゃあ、それを後押しした、俺の見立ても間違いだという事なのか」
更に碑の目力が強くなった気がした。
「いえ、それは絶対にないと思います」
杉岡の言葉は強かった。それほど碑を、師としても、人間としても信頼しているという事が滲み出ていた。
「じゃあ、そんな悩むことなく、さっさと和也のところに行くことを考えるのだな」
碑はそういうと柔らかい視線に戻り、杉岡の作ったホワイト・レディに口をつけた。
「マスターだって、こう言っているのだから、グチグチ悩む前に行ってこいよ。
逆に私が行きたいくらいだよ」
雪乃はカウンターの中で並んでいる杉岡の肩を、軽く叩いた。
二人に肩を押され、杉岡は覚悟を決めた。そして力強い眼を、碑に向け、頭を深々と下げた。
「マスター、ありがとうございます。
一二月から、和也さんのところでお世話になろうと思います」
頭を上げた杉岡の視線を、碑はしっかりと受け止め、頬を緩めた。
「わかった。和也にすぐに連絡してこい」
碑は事務所を指さした。杉岡はその合図で分かったのか、すぐに電話をかけに行った。
雪乃は碑の横へ戻ってきて座ると
「マスター、いつの間にあいつ私のレベルを追い抜いたのですか」
と不思議そうな、そして悔しい表情で碑に問いかけた。
「杉岡が雪乃を抜いたかどうかはわからないが、お前ら二人とも、良いバーテンダーになってきているよ」
碑はバックバーを見たまま答えると、葉巻を咥えて、煙を宙へと浮かべた。
「マスター、杉岡がいなくなったら、私を弟子にしてよ」
雪乃は真剣な眼差しを碑に向けた。しかし碑はバックバーから視線を外さずに口を開いた。
「うちは人を雇う金はないって言っているだろう」
「だって杉岡がいたじゃん、金はいらないから、勉強させてよ」
雪乃は食い下がった。その表情を見て、碑は立ち上がり、カウンターの中へと入った。
「悪い、しばらくは一人でのんびりやりたいのだ」
碑はそういうと、ターンテーブルの上に、クリス・コナーのバードランドの子守歌を乗せ、針を落とした。
静寂になった一瞬、杉岡が電話で話している声が聞こえた。何をしゃべっているのかはわからないが、話は決まり切ったものであった。
碑は雪乃の横に戻ると、クリス・コナーの歌声を聞きながら、先ほど杉岡が作ったホワイト・レディを口にした。