五〇、時間が作る物
碑はパソコンを開いて、神妙な面持ちをしていた。その気持ちを落ち着かせるためか、ロッキー・パテル、サウングロウン・マデューロ・ロブストの吸い口を作るために、パンチ・カッターで穴を開けた。
ゆらゆらと立ち上る煙は、一定の高さまでいくと、空調の風によってあおられ、飛散していった。
カウンターに入った碑は、バックバーの奥から一本のウイスキーを手にした。ジャック・ウイバースのロングモーンである。
ショット・グラスに透明度の少ないウイスキーを入れると、自らが座っていた席の前に、それを押し出した。
ターンテーブルにビル・エヴァンスのワルツ・フォー・デビイを置き、その溝にゆっくりとDL―103Rを落とした。
カウンターの席に座ると、碑は営業前にもかかわらず、ロングモーンを口にした。現在の物とは違う。回顧的な問題もあるのだろうが、これは時代が醸し出すことしかできない物だと確信している。現在の物は現在の物、それは年代の差としか考えていなかった。
パソコンを閉じ、碑はピアノ・トリオの音を耳にして、虚空へと煙を吐き出した。
「おはようございます」
杉岡が出勤してきた頃には、碑の前にはロッキー・パテルしかなくなっていた。
「おはよう」
軽く応えて碑は、煙を宙へと吐き出した。
「杉岡は、今の店はどうなのだ」
「どう、と言うと……」
杉岡は問いかけの真意が掴めず、中途半端に返した。
「順調なのか」
言われて杉岡は間髪入れずに返した。
「はい、最近はほとんどカウンターを任されるようになりましたし、味の評判も以前とは異なって好感を得ています」
碑は軽く頷き、煙を吐き出してから少しだけ力の入った目で問いかけた。
「そうか、じゃあしばらくはそこで仕事を続けるつもりなのか」
「そうですね。ここで勉強をしながら、続けるつもりですが」
「そのあとは、どうする予定だ」
碑は穏やかな目で、ロッキー・パテルを咥えた。
「さあ、わかりませんが、オーセンティックバーで働けたら、とは思いますが……」
「そうか」
碑はそこで話を切ると、たっぷりの量の煙を吐き出した。
来客は二一時を回った頃であった。
二〇代半ばと見える男二人であった。カクテルを注文してから、二人はタイパだ、コスパだと話をしていた。
碑も杉岡もそんな二人の会話に入るタイミングもなく、カウンターの両端に離れるようにして立っているだけであった。
「すみません、何かウイスキーをいただきたいのですが」
「かしこまりました。どのようなウイスキーがよろしいですか」
声をかけられた杉岡が対応をはじめた。
「そうですね、安くてうまいものが」
杉岡は頭の中でどのような切り返しをしようかと考えが、取りあえず問診を試みた。
「今までどのようなウイスキーが好みでしたか」
「さあ、でもグレンフディックとかは良かったですね」
「フィディックですか、ではアーストンの一〇年などはいかがでしょうか」
杉岡はバックバーからボトルを取り出すと、男の前に置いた。男はそれが何物かなど考えずに、勧められるまま答えた。
「じゃあそれをください」
受け答えを聞いて、杉岡は男の主張がそれほど強いものではないように感じた。だからこそ、無難な商品を紹介したのだ。
「じゃあ俺もウイスキーをもらおうかな」
「はい、いかがいたしましょう」
杉岡は笑顔で、もう一人の男の注文を受けようとした。
「俺も安くてうまいやつ」
杉岡はうんざりするような気持ちであった。うまい物は人それぞれで答えがないので理解が及ばない。無難な路線を攻める場合と、適当に出すこととは異なる。バーテンダーが存在する意味を自ら考える。こんな客が多くなった場合は、AIが接客をして、どうでも良い酒が進められることになるのかもしれない。そんな感想を持った。
「普段どのようなウイスキーを飲まれますか」
先ほどと同じような問診が始まった。
「そうですね、あんまり味がなくて、飲みやすい方がいいです」
男の返答は杉岡が考える答えとずれていた。しかし味がないウイスキーという表現は理解ができなかった。ただ主張が強くなく、邪魔をしない酒、多分そういう物しか飲んだ事がないのだろう……杉岡は迷ってしまった。味や香りを求めていないような客に、いったい何を出すべきか……。
「それではこちらはいかがでしょうか」
碑がふと、ボトルを手に会話に入ってきた。
「クライドサイドのストブクロスです」
そのウイスキーはどちらかと言えば薄く、黄金色にもなっていないように思えた。
「じゃあそれでいいです」
杉岡がショット・グラスを準備していると、碑は作業台の前にボトルを置くと、先ほどと同じくレコードの前へと下がった。
杉岡が二人の客にウイスキーを差し出す。男はそれに口をつけるが、感想は何も言わなかった。やはりそれほど味を求めているのではなく、ただウイスキーという単語を求めているだけなのかもしれない。杉岡はそんな事を考えた。
そんな時に、白い扉が開いた。和也であった。
「いらっしゃいませ」
杉岡はすぐにおしぼりを差し出した。以前にも来た碑の後輩で、都内でバーを経営している和也だとしっかり認識していた。
「ありがとう」
和也は軽い笑みを浮かべると、バックバーを眺めた。
「どうする」
問いかけた碑の表情はいつもよりも固く感じられた。
「ゆっくりやりたいですね。
ブナハーブンで何かありますか」
碑はそう言われて、バックバーを振り返った。そして一本のボトルを手にした。
「まだ残っていたのですか」
思わずボトルの姿を見て、和也は反応した。
「ああ」
碑は返すと、和也の注文が確定しているかのように、ショット・グラスを棚から取り出した。和也は何も言わずに、ブナハーブンを待った。
目の前に出された黒に近いウイスキーを和也は一口、口腔へと流し込んだ。そして口を閉じ、鼻で息をした。鼻腔に抜ける香りが何とも言えず、和也はつい笑みをもらして碑へ視線を移した。
「六八の三二年でしたよね」
「ああ」
「やっぱり超熟はいいですね。時間をかけてしか作れないウイスキーですね」
和也はそう言うと、鼻腔と口腔に残る香りを再び楽しんだ。
「タイパやコスパなんていう物も、今の時代は大切ですが、そうじゃない物が存在しているという事を理解しないといけないですね」
和也は自分で言いながら、納得するように数回頷いた。碑が続いた。
「確かに、効率良くやることは大切だが、無駄があるからこそできる物もあるからな。
失敗を糧にすることは、時間を費やし、それ相応の対価を払わなければならないだろうからな」
「AIなんかで色々できる時代になりましたが、そのAIを作るには相当の時間や、経験を積ませる必要があるみたいですからね。しかも必要な経験をどのように選択して学習させるかは、それを行う技術者の手腕にかかっているわけですから、その人たちに経験値がないとできませんしね」
「先端技術を享受している人たちは簡単に言うが、それを作る人たちは膨大な時間を費やしているからな。
そこに胡坐をかいては駄目なのかもな」
二人の会話が耳に痛かったのか、アーストンとクライドサイドを飲む男たちの会話が少し縮小されているようであった。
「知り合いで、バスケットをやっている奴がいたのですが、引退して指導者になってから気が付くことが多くあったみたいです。
現役時代にそれを知ってやっていれば、もっとうまくなれたのにと後悔をしていました」
「そうだな、実体験で経験しても、立場が変わってみると、色々なものが見えてくるからな。誰かがやった経験をいかにも自分の経験と思って端折ってしまうと、実は見落としていることも多いのだろうな。
その経験を自分の中に落とし込み、磨きをかける。本当の効率がいいというのは、そういう事なのかもしれないな」
碑の言葉に和也は納得し、ブナハーブンを口につけた。樽の中で、時間をかけて培ってきた香味が、和也の思いを満足させていく。
「君たちもウイスキーが好きなのかい」
和也はショット・グラスを手にする若い二人に声をかけた。少し驚きながらもアーストンが返した。
「そんなに知らないですが、少しは飲みます」
「そうか、嫌じゃなかったら、こんなウイスキーも飲んでみるかい」
和也は自らが飲んでいたグラスを、二人の方へと押しやった。
「いいのですか」
クライドサイドが答えた。和也は頷きながら
「経験をしたいならどうぞ」
と勧めた。
二人は自分たちが飲んでいるウイスキーの色とはかけ離れたウイスキーを、まじまじと見てから、回し飲みをした。
「何ですか、これは」
思わずクライドサイドが言葉をこぼした。
「ウイスキーだよ」
和也があっさりとした言葉を返した。
「本当だ、全く俺たちが飲んでいる物と違う」
アーストンが驚きの表情を見せた。
「色々な商品があるからね。自分たちが目にした物以上に、商品はあるのだ。
知識もそう、何にしても、一人の頭の中なんて、対したものではないのだよね」
和也はそう言うと、手元に帰ってきたグラスを口にした。
「時間と金をかけ自ら経験しないと、それなりの物はできない。
多分ウイスキーだけじゃないのだろうけれど、非効率と思われるところにも、まだまだ評価されるものはあるのかもな」
碑はそう呟くと、キャンドルライトに火を灯した。
「さて、カクテルでももらおうかな」
若者が去った店内に、和也の言葉が響くようであった。
碑は何も言わずにカウンターを出て、和也の横へと座った。杉岡にあとは任せるというところであろう。
「いかがいたしましょう」
杉岡は先輩バーテンダーを前に、少し緊張するように、和也の前に立った。
「ダイキリを」
「かしこまりました」
杉岡は真剣な眼差しを向けている和也に答えた。
カクテル・グラスを冷やし、シェイカーの氷を洗い、ラム、レモン・ジュース、砂糖を入れ、杉岡は、碑ほどではないが、滑らかにシェイクをはじめた。その仕草に対し、和也は鋭い眼光を向けた。
碑の振り方に似ているが、完全な模倣ではない。自らの体系と碑の体系の違いを考えた振り方になっているのだろう。
カクテル・グラスに注がれた、キューバの鉱山が和也の前に出された。
「お待たせいたしました」
その言葉を耳にしながら、和也はダイキリを口の中へと広げた。そして二、三度首を縦に振った。
「流石、碑さんの元で勉強しただけのことはあるな。一年も経っていないのにこのレベルに来ているのはたいしたものだ」
その言葉を聞いて、杉岡は頭を下げた。
「杉岡のカクテルは、まだムラがある時もあるが、最近はかなり安定感もでてきている。ここからもう一段、二段良くなれば、そのあたりの中途半端なバーテンダーよりは確実に上にいけると思うけれどな」
碑が言った評価に、杉岡は思わず、やったという思いで、胸の中の拳を握った。
「碑さん、いいですか」
和也は力強い視線を碑に向けた。碑はメールで貰っていた和也の思いに対して頷き、用意をしていたプレミアム・シガーへと火を灯した。
和也は真剣な眼差しを杉岡へと向けた。杉岡もそれに応えるように真顔を見せた。
「杉岡君、うちの店のバーテンダーが一人辞めることになった。
他からうちに来たいというバーテンダーが数名、面接にきているのだけれど、君さえ嫌じゃなければうちで働かないか」
杉岡は驚きからか、何の事だか良く理解ができていないのか、鳩が豆鉄砲を食らったような表情を見せた。
「和也のバーで、正式なバーテンダーとして働かないかと言われているのだ」
碑が背中を押すように言った。
杉岡は改めて、自分が聞いた言葉が本当であるという実感を得た。
「すぐに返事をくれとは言わない。けれどもそれほど時間があるわけでもない。
一二月から来てもらいたいので、来週中に返答をもらえればと思うのだが……」
「……」
杉岡は考えこんでいた。
「まあ、来週中までだ。考えてみる事だな」
碑は我関せずというように、無表情で言った。
杉岡は二人の思いを、自分なりに解釈してみようと頷き、唇を強く締めた。
杉岡が帰った店内で、碑はワツル・フォー・デビイを聞きながら、和也が飲んでいたブナハーブンをショット・グラスへと注いだ。
葉巻の煙を宙に浮かべながら、碑は何とも言えない表情で、透明度の少ないロングモーンを口元へと運んだ。
ビル・エヴァンスのゆっくりとした、綺麗なタッチのピアノが、秘密の井戸の中に流れていた。