五、自慢する客
軽快で独特な声質を持つニーナ・シモンのニューポートが店内に流れていた。そんな軽快さとは異なり、杉岡は今一つ、氷の音がまとまらないままシェイカーを振っていた。
「もう少し、伸びきった時に手首の返しを良くするといいかもしれないな」
相変わらず読書をしている碑は、目線を外さずに言った。音だけで判断されている。杉岡は、いつか碑から、しっかりとシェイカーを振っている様を見てもらえるようになりたいと思っていた。
そんな時に、勢いよく白い扉が開いた。
「へぇ、こんな場所にバーがあるとは思わなかったなぁ」
中年の一人の男が店内へと入ってきた。碑は本をたたみ、
「どうぞ」
とカウンターの椅子を指した。男はその言葉を聞き、カウンターの真ん中に陣取った。
杉岡がおしぼりをカウンターへと置いた。男はそれを取り、手を拭いた後に顔を拭いた。
「ボウモアを」
一息と置かずに男は杉岡へ注文をした。碑は男が座った後、すぐにカウンター内に入ったので、その言葉を聞いた瞬間に、バックバーからボウモアの一二年を作業台の前へと出し、続いてショット・グラスも用意した。
杉岡と目が合った碑は、ウイスキーを継ぐように合図した。普段使うことのないメジャー・カップが作業台のそばに置かれているのは、杉岡のためである。練習をしているが、まだハンドメジャーで作業させるわけにはいかない。
杉岡は、ボウモアをメジャー・カップに入れ、グラスへ注ぐと
「お待たせしました」
と客の前へと出した。客はそのグラスを見て、眉をひそめた。
「ストレートじゃなくて、ロックで」
「かしこまりました」
杉岡は男に言われ、すぐにグラスを下げた。そしてオールド・ファッション・グラスを取り出し、四角い氷をグラスの中へと入れ、ショット・グラスからボウモアを移し替えて客へと提供した。
「ありがとう」
男はそういうと、ボウモアへと口をつけた。アイラの独特の香りと、アルコールの強さが口の中へと広がる。それを男は、うまそうな表情をして体内へと流し込んだ。
「俺みたいに仕事ができる人間は、こういう酒を飲まないとな」
自慢気な表情で、男は杉岡へ話しかけた。杉岡は接客用の笑顔で尋ねた。
「お仕事帰りなのですか」
スーツを着ている男の姿は、明らかに仕事帰りという雰囲気であるが、アイスブレーキングの一つである。
「そう、部下たちも俺が仕事をできるから、終わってからも帰してくれないんだ。
だから今まで飲んでいたんだ」
「そうでしたか」
碑は男の相手を杉岡へと任せ、カウンターの端へと立った。そしてキャンドルライトへと火をつけた。プレミアム・シガーとは異なり、破砕した葉を葉で巻いているものであるが、香りは着香していないものである。
「俺はさ、上司にも頼られちゃうから、残業も多くてさ。だから帰るのが遅くなることがあるから、妻にも浮気とか疑われちゃうんだ」
「浮気ですか」
心配するような表情の杉岡を見て、男は嬉しそうに話を続けた。
「本当に浮気なんかしないよ。
でもそう思われるんだから、モテる男はしょうがないよな」
男はニヤけた表情を杉岡に向けた。
「いいですね。私なんかモテた記憶なんてないですよ」
「そうか、そんなに悪い顔してないんだから、勇気を出して行けば、彼女の一人や二人できるだろうよ」
「そんなものですかねぇ」
「そんなもんだよ」
男は自慢げな表情でボウモアを一気に飲み干した。そしてバックバーを確認する。しかしながら、そこには見慣れないボトルばかりが並んでいると思ったのか、ふいに男は視線をはずし、杉岡へと向き直った。
「じゃあグレンフィディックだ。
もちろんロックで」
「かしこまりました」
杉岡は、バックバーへと向き、グレンフィディックを探した。すぐとはいかないまでも、場所の検討はおおよそついていたので、それほどの時間を要することなくボトルは、杉岡の手に取られ、作業台の前に置かれた。
ウイスキーの注がれたオールド・ファッション・グラスを杉岡は客に差し出した。
「やっぱりフィディックはいいよな」
男は飲むと、大きく天を仰いだ。少しだけ目がトロンとしてきているようにも見受けられる。前の店で結構飲んできているのか、酔いが回ってきていることが目に取れるようであった。
「マスターが吸っているのは葉巻だな」
香りでそう感じたのか、それとも見た目で思ったのか、客は端に控える碑へと声をかけた。
「そうです。ミニシガーのような物ですが」
「ミニ……まあそれは良くわからないけど、やっぱり葉巻の香りはいいよな」
男は自信あり気に碑に返した。
「そうですね。着香していないですからね。葉っぱ本来の香りは楽しめますね」
「ああ、そうだな」
男は曖昧な言葉を出すと、碑から視線をはずし、杉岡を見た。
「葉巻を吸ったことはあるのかい」
「はい、とは言ってもマスターに教わりながら勉強中ですが」
「そうか、葉巻はなんて言ってもキューバだな」
「そうなのですか、お詳しいのですね」
杉岡はスラスラと銘柄や話をする客の言葉に感心していた。
「ああ、酒も葉巻もちょっとはやったからな。
仕事もできて、遊びもできて、俺は凄いだろう」
「だと思います」
杉岡は自分を凄いと思ったことはない。平然と自らを持ち上げることができるこの男は本当に仕事ができるのだろうと感心した。
「シングル・モルトがお好きなようですね」
碑は少しだけ端から中央に歩を進め、男に声をかけた。
「ああ、ウイスキーは大好物だよ。
マスターは好きな銘柄とかはあるのかい」
「まあ色々と好きですが、ボトラー物なども好きですよ」
男の目が少しだけ変わったことを、碑は見逃さなかった。
「そうなんだ。ボトラーね」
男は少しだけ同調したが、それ以上の言葉はでないようであった。沈黙が生まれるのを拒んだ碑が、話を続けた。
「先ほど葉巻はキューバと言われていましたが、銘柄やサイズはどの辺りがお好きなのですか」
「もうとっくに辞めちゃったからな。コイーバとかは好きだったよ」
少し焦るような表情を男は見せるが、杉岡にそれは読み取れなかった。
「コイーバですか。やはりメジャーなシグロ辺りだったのですか」
「ああ、そうだよ」
男は少したどたどしく答えた。そしてフレンフィディックを一気に飲み干した。
「さて、今日はこのくらいにしておこうかな。会計してくれるか」
男はそう言ってから、チェイサーを一気に飲み干した。
碑は会計の伝票を男の前へと出した。男は財布の中からカードを出した。
「ゴールドカードで」
「かしこまりました」
男はカードで決済をして、帰って行った。
「マスター、本当に仕事ができる人って、自信に満ち溢れている感じですね」
洗い終わったグラスを拭きながら杉岡は、いつものようにカウンターの端に座り、読書をしている碑へと話しかけた。
「仕事ができる人が来ていたのか」
「先ほどの方、仕事ができるって言っていたじゃないですか」
杉岡の言葉に、碑は軽くため息をつき、本を閉じた。
「仕事ができる人間は、自分で仕事ができるなんて言わないよ。
本当に仕事ができる人は、周りから仕事ができるって言ってもらえるから、自分で言うことなんてないさ。誰にも認めてもらえないから、俺はできるって、仕事仲間以外の人に吹聴するのだよ。仕事仲間の前で言ったらバレちゃうからな。
それに葉巻やウイスキーの事は詳しくないだろうな。有名な物を言っておけば通用すると思っているのだよ。でも本当に詳しい人はそれ以上に世界が広いことを知っているから、中途半端に銘柄だけとかを言うことはしないさ」
杉岡は感心し、言葉を返した。
「できる人間ほど、自慢することはないという事ですか」
「まあ、そんな感じだな。別に良い悪いということではなく、ただ人に関心を持ってもらいたいだけの淋しい人なのだろうな」
碑はそんな事を言いながら、何となく、過去を振り返って言った。自分も若い頃はそんな時があった。それを思い出すように、葉巻を手に、火をつけた。
煙が、宙へと舞っていった。
その煙が消える前に、神代が店内へと入ってきた。
「いやぁ、会社の飲み会っていうのは疲れるな」
その疲れのせいなのか、神代は珍しく、ドカっと音がするかのように椅子へと腰かけた。
「飲まれていらしたのですね」
いつもの、奥から三番目の席へと座った神代に杉岡はおしぼりを出した。
「そう、会社の部署の飲み会だったのだ。もうすぐ忘年会なのだから、その時に一緒にやればいいのに、大きな仕事がまとまったからって」
「大きな仕事ですか、それは良かったじゃないですか」
杉岡は自分のことのように嬉しそうな表情を見せた。しかし神代は笑顔もなく答えた。
「そんな事はない。大きな仕事って言ったって所詮いつもの仕事だ。
きっちりこなしていれば結果なんて勝手についてくるのだ」
「そうですか」
「そんなもんだ。俺らみたいにずっと同じ仕事をしていたら、勝手に出来るようになる。誰だってできるものさ」
杉岡はそんなものなのかと、頷くだけであった。
「さあマスター、今日は何かブランデーでしめたい。
一杯で帰るから」
碑はそんな神代からのリクエストを聞くと、カウンターの中へと入り、一本のブランデーを棚から出した。
「ジャクロのマールなどはいかがですか」
「マールか、いいね」
神代はそれでいいというように頷いた。
そしてブランデー・グラスへとジャクロが注がれ、神代の前へと出された。
グラスを少しだけ手の中で回し、神代は香りを楽しみ、口の中へと流し込んだ。ちょっと枯れた感じのする、マール独特の味が口腔内に広がっていく。
「葉巻をもらえるかな」
神代に問いかけられ、杉岡は碑を見た。どのような物を勧めたらよいのかわからないという表情であった。碑は杉岡からバトンを受け、葉巻を入れている専用のセラーの中から取り出した。
「軽めにこんな物はいかがでしょう」
碑はホヤ・デ・ニカラグアのコロナをシガー用の灰皿に入れてカウンターへと出した。
「よくわからないけど、マスターが勧めるのならこれでいいよ」
「かしこまりました」
葉巻用のカッターとロングマッチが出され、神代は自らそれを使い、吸い口を作ってから火をつけた。三本目のロングマッチで綺麗に火が付いたことを確認すると、それを口にくわえ、大きく口腔内へと吸い込み、煙を吐き出した。
「やっぱり締めは一人がいいな」
「そんなものですか」
杉岡が聞き返した。
「ああ、自分一人の時間を楽しめない奴はお子ちゃまだ。
最後にこうやって自分と向き合える時間や、楽しめることがあって、また明日頑張ろうとか色々な活力になるんだよ」
神代はジャクロを口へと放り込み、葉巻を吸った。何となく肩の力が抜け、筋肉が弛緩していくように、杉岡の目には見えた。
誰もいなくなった店内に、ニーナ・シモンの声が響いた。
「お疲れさまでした」
「ああ、お疲れ。気をつけてな」
杉岡は頭を下げると、店内を出ていった。
もう看板の灯は消えていた。
先ほど神代が飲んでいたジャクロをブランデー・グラスへと注ぎ、碑はいつもの定位置に座ると、口をつけた。
「ああ」
ため息と共に、昔の橋元との思い出が脳裏へと浮かんできた。
「橋元さん、俺、ここまでの酒ができるようになりました」
嬉しそうに話す碑から出されたカクテルを飲んで、
「ここまでができてもその上が必ずある。
できるようになったのは喜ばしいことだが、その上をしっかりと見ていないと足元をすくわれるぞ」
橋元は厳しい表情で碑へと言った。それを受けて碑の表情が引き締まった。
「これよりも上……」
「そう、継続していればそれなりの物は勝手にできるようになる。
そこから先を考えなければ井の中の蛙で終わりだ」
思わず碑は目を閉じた。そしてジャクロを口腔へと流した。