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四九、零次会と〆の酒

 店の開店準備を終えると碑は、カウンターへと座り、クザーノ・ホンジュラス・ロブストを咥えた。

 その煙は今までの空気を一変させるように、店内へと広がっていくようであった。

 杉岡は着替えを済ませ、カウンターの中に入ると、サントリーのカクテル・ブック二〇〇一を手に取った。カクテルの写真やレシピがびっしりと掲載されている物であるが、同じグラスは使われていないと言われている。しかしながらそれを検証したことは碑もなかったと杉岡は以前耳にしたことがあった。

 この中のカクテル・レシピを全て覚えるということは無理だと思うが、それなりに主要の物以外で、面白そうに思えるものは頭に入れておきたいと考えていた。

 薄暗い店内に、思わず光が差し込んできた。まだ早い時間では完全に陽が沈んでいないという証拠なのだろう。

「いらっしゃいませ」

 杉岡は店内へと入ってきた神代に挨拶をするとおしぼりを出した。

「神代さん、早いですね」

 碑はカウンターの中に入ると、未だに熱気を帯びた額から、汗を流している神代に声をかけた。

「ああ、今日はこの後飲み会があってね。しかも行く店がどうしようもない店だから、零次会をしにきたよ」

「ゼロジカイ、ですか」

 意味が分かっていない杉岡が思わず神代に聞き返した。

「ああ、飲み会の前、要は一次会の前だから零次会だ」

 神代はそう言うと、バックバーを眺めた。

 杉岡は、ウイスキーでも注文があるのかと考えたが

「ラム・バックを」

 という神代の言葉に肩透かしをされた気持ちであった。

 杉岡はコリンズ・グラスにライムを入れ、バカルディ・ラムとジンジャーエールを注ぎ、神代へと差し出した。

「その店は近いのですか」

 ラム・バックを一口飲んだ神代に、杉岡は話かけた。

「ここに来られるくらいだからな。まあ、遅れて行ってもいいのだが」

 神代は何食わぬ顔で言った。

「大丈夫なのですか」

「会社の飲み会だから、少しくらい平気だろう」

 神代は気にしていないような表情を見せてから、再びカクテルを口にした。

「それにしても、俺の下にいる奴なのだけれど、部下に対して注意をするのはいいのだが、答えがないのだよな。

 何回か注意はしているのだが、しかるにしてもやり方を考えて欲しいものだよ」

 神代は思わず愚痴をもらした。多分、今日の飲み会にその人間もくるのだろうと予想されるような言葉であった。

「しかり方ですか」

 杉岡はただしかるという方法であり深くその事について考えていなかった。しかし神代の答えは異なった。

「杉岡、しかるとか注意をするという時に、どのくらいの時間で終わらせるのが良いかわかるか」

 質問をされて杉岡は数秒考えると

「どうなんでしょう、ただ私が注意されるとしたら一五分くらいまでしか耐えられないと思います」

 と答えた。

「受け手側の意見か、確かにそれも大切ではあるのだが……」

 神代はグラスを口元へと運び、続きを話はじめた。

「何が駄目であったか指摘する、そしてこうした方が良いという改善点……

 注意するという事は、これで十分なのさ。

 それ以外の事をダラダラ話しすることは、全く無意味……。

 その上で答えまでなかったら、そいつは人の上に立つ資格がない」

 神代は部下の事を思い浮かべてなのか、少し腹立たしいという表情を見せて、ラム・バックを一気に飲み干した。

「マスター、モストウィーを」

 空になったコリンズ・グラスをカウンターの奥へ押し出すと、神代は碑に注文をした。

 碑はバックバーの奥の方からボトルを手にした。

「こちらでよろしいですか、ジェームス・マッカーサーの二八年」

「ああ」

 碑の問いに神代は答えた。

 ショット・グラスに注がれたモストウィーを神代が口つけると同時に、上着のポケットに入っていたスマートフォンがバイブで揺れ始めた。

 神代は誰からかかってきたかを確認すると席を立とうとした。

「神代さん、誰もいないからそのまま出てもらっていいですよ」

 神代は碑に言われると、すまないというような素振りを見せてから、通話をはじめた。

「何、もうみんな店にいるって、わかった。まあ時間に遅れないようには行くから」

 それだけを言うと神代は再び電波を遮断した通信機器をポケットにしまった。

「もう集まっているって、ですか」

「ああ、あいつらは気が早いのだって、オンタイムで行けって」

 神代はそう言うと、ショット・グラスを口元へ運んだ。

「自分たちで営業に行く時は、早く行き過ぎるなとか言っている割には、こういう時は気を使わないで行くのだからな。

 やることはどんな場合であれ統一しろ、って」

 神代は愚痴を口にした。碑は笑顔を見せてそれに応えた。


 神代があとにした店内に、来客はなかなか来なかった。

 碑は数回、レコードを交換し、杉岡はカクテル・ブックを読むことに疲れたのか、ミキシングの練習をはじめた。

 それでも客が店の中に入ってくる気配はなかった。神代が来た時とは異なり、もう外界は真っ暗になっているのだろう。杉岡はそんなことを考えていた。

 だがそれを確認することは、できなかった。誰も扉を開く者がいなかったからである。

 

 いつ店を閉めてもおかしくない時間になった頃、夕凪が重たくなった扉を開けた。

「いらっしゃいませ」

 杉岡の言葉に対して夕凪は申し訳なさそうな表情を見せた。

「まだ平気ですか」

「はい、営業時間内ですから」

 碑は夕凪の問いに答えた。夕凪は軽く頭を下げてからカウンターの真ん中へと着いた。

「随分と遅かったですね」

 おしぼりを出しながら杉岡が問いかけた。

「飲み会だったんですが、どうしても最後に締めの酒を飲まないとやっていられないと思ったもので」

 夕凪はおしぼりを手に頭を下げた。

「嫌な飲みだったのですか」

「いや、そうではないのですが、最後の一杯くらいは自分の好きな酒を飲みたいので……」

 どうでも良い酒を押し付けられたのではないか、杉岡はそんな事を勘ぐったが、口に出すことはしなかった。

「どうなさいますか」

「ブラックルシアンをください」 

 少し考えてから夕凪はカクテルを注文した。

 碑は冷凍庫からアブソルベント・ウオツカを、バックバーからジファールのコーヒー・リキュールを取り出した。

 杉岡はオールド・ファッション・グラスに氷を入れると、作業台の前に置かれたウオツカとリキュールを入れ、バースプーンで混ぜた。

「お待たせいたしました」

 夕凪はグラスを手にすると、それを眺めてから、口元へと運んだ。

「はぁ」

 思わずため息が漏れた。体が弛緩していくのが、碑にも杉岡にもわかるようであった。

「やっぱり、こうやって落ち着いて飲むほうが好きですね」

 どちらにという訳ではない言葉が続いて漏れた。碑は笑顔でそんな夕凪を見守った。


「神代さんにしても、夕凪さんにしても、バーの使い方には色々な方法があるのですね」

「そうだな、だからこそ、ある程度の要望に応えられるようにしておかなければならないのだろうな」

 碑はパソコンがいじりながら、杉岡に言葉を返した。

「マスター、最後に聞きたいレコードがあるのですが、聴いてもいいですか」

 恐縮するように杉岡が言った。

「珍しいな、別にいいよ」

 杉岡の言葉に驚きながら、碑はキーボードを叩く手を止め、クザーノを咥えた。

 ターンテーブルに置かれたアート・ファーマーの処女航海が流れはじめた。ハービー・ハンコックのものよりも幻想的に聴こえる。思わず海に引きずりこむセイレーンが、霧の中から出てくるのではないかと、碑は思っていた。

「せっかくだから、一杯やっていけよ。

 俺には秩父のピーテッドをくれ」

「わかりました。ありがとうございます」

 杉岡はバックバーから秩父のウイスキーを取り出し、ショット・グラスを二脚用意した。


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