四七、道具は使いよう
マイルス・デイヴィスのカインド・オブ・ブルーがかかる店内には、独特の緊張感が流れていた。
そんな中、杉岡は一〇オンス・タンブラーを前に、緊張した面持ちで、空き瓶に入れた水を注いだ。それを繰り返すこと一〇回……。見事にタンブラーいっぱいに水が満たされた。
これをいつでも、当たり前にできるようにならなければならない。随分とカクテルを作るようになってから、ハンドメジャーを使うようになったが、まだまだ精度を上げなければならないと考えていた。
碑はそんな杉岡を見て、回数さえこなして行けば確実に精度が上がり、信用度が高くなることは、自分の身を持って理解していた。
今度は違う形状のグラスを数個出し、そこに三〇ミリリットルを注いでいく。そしてそれがしっかりと三〇ミリリットルであったかを確認するように、メジャー・カップへと注ぎ、確認をしていく。
碑は真剣な表情の杉岡から視線を離すと、マカヌード・インスピラート・オレンジ・ロブストを吸いながら、久しぶりに本棚から見つけた本を読み進んだ。その内容はミスター・マティーニと呼ばれた人物について書かれている物であった。
ペラペラと本を読み進むが、いっこうに客が現れない店内で、杉岡の集中力は切れることなく続いていた。碑は良く継続するものだと思いながら、自らは集中力が切れたのか、本をたたむと、立ち上がり背伸びをした。
そんな時に、白い扉が開いた。まだまだ外気温の暑さを物語るように、一瞬、熱気が店内へと入り込んできた。
「いらっしゃいませ」
その言葉に軽く頭を下げて店内へと入ってきたのは、夏木であった。その後ろに続くように大路も入店した。
杉岡はすぐさま、練習ボトルを置くとおしぼりを準備した。
二人が席に着くと、碑はカウンターの中へと入った。
「まだまだ暑いですね」
「そうだね、少しは落ち着いてもらいたいとは思うけれども、まあ今年も秋が感じられないくらいになるのだろうね」
夏木の言葉に碑は、秋の状況を予測するように言った。近年は春と秋がなくなってきている気がしなくもない。いつまでも暑く、いつの間にか寒くなってしまう、そんな事を居合わせた誰もが考えた。
「私はカルバドスのハイボールをください」
大路が注文をした。
「じゃあ私はウイスキーサワーを」
続くように夏木が注文をした。
「かしこまりました」
碑が答えると、杉岡はモラン・セレクションとネビス・デューをバックバーから取り出した。碑は一〇オンス・タンブラーとサワー・グラスを出し、シェイカーを準備した。
氷が冷凍庫から出され、碑は一〇オンス・タンブラーと・サワー・グラスに氷を入れて
冷やしはじめた。
レモン・ジュースと粉糖を準備した杉岡は、シェイカーに氷を入れて、それを洗った。
碑はモラン・セレクションを溶けた水を捨てたタンブラーへと注ぎ、ハイボールを作ると、空のサワー・グラスと共に、二人の前に置かれたコースターへと置いた。
杉岡がシェイクをして、ウイスキーサワーが注がれると、それは二人の前へと差し出された。
「いただきます」
二人は軽く杯を上げると、口元へとグラスを運んだ。
「やっぱりマスターが作るハイボールは美味しいですね。
ちゃんと素材の味が出ていますものね」
大路は感想を述べ、満面の笑みを見せた。それに碑も笑顔を返した。
「杉岡さんのカクテルも、おいしいです。
やっぱりここで修行しているのは羨ましいですね」
「ありがとうございます」
杉岡は夏木に頭を下げた。
「うちで勉強とかは関係ないのだろうが、まじめにやっていればカクテルなんてできるようになるさ」
碑は当たり前だというように言った。
「でも経験だけでできるという物ではないと思います。
マスターのカクテルを飲んでいると、やっぱり才能とかが必要なのかと思ってしまいますよ」
夏木のまじめな表情で言う言葉を、碑は何とも言えない表情で受け取った。
「いや、俺程度のカクテルだったら、誰でも作れるものさ。
ようは物事をしっかりと考えて、そこに対してやればできる。才能なんていうものは特に必要ないさ」
「でも、いくらやってもできない人はいると思いますよ」
杉岡が反論するように言った。
「それは努力をする才能がないだけかもしれないな。
やっていればできるものさ」
碑は考えと継続というものを協調するように、先ほどと同じ言葉を投げかけた。
「確かに、続ける才能はあると思います」
ふと話に入ってきたのは大路であった。
「私の中学の友達で、サッカーのうまいコがいたんですよ。高校に行ってもプロの下部チームでやっていて、そのうち契約もできるのではないかと友達から聞いていたのですが、やめちゃったみたいなんですよ。
何が原因でやめたのかはわからないですが、続けることができなければ、その才能はなかったのと一緒ですものね」
碑は頷くが、杉岡と夏木は、確かにと納得した表情を見せた。継続は力なりというが、能力があっても継続ができなければ到達できないところがある。自分たちがいかにしてバーテンダーという仕事を続け、成長していけるのか、思わず自分たちの未来を考えていまった。
そんな時に、再び白い扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
「一人なんですが、いいですか」
扉を開いたのは若い男であった。
「どうぞ」
碑はカウンターを示し、男はそれに従うように席へと着いた。
「ジントニックをお願いします」
おしぼりを出した杉岡に、男は飲むものを決めていたと言わんばかりに、すぐさま注文をした。
「かしこまりました」
杉岡はそう答えると、材料とグラスを準備して、ライムを絞り入れたコリンズ・グラスに、ハンドメジャーでビフィーター・ジンを注ぎ、カクテルを作り、男の前へと差し出した。
「ありがとうございます」
男はそう言うとカクテルを口にし、瞬間的に美味しいという表情を作った。そして考えていたことを口にした。
「あの、この店ではメジャー・カップを使わないのですか」
先ほど杉岡がカクテルを作ったさまを見て、疑問に思ったのだろうかと碑は考えた。
「はい、当店ではメジャー・カップは使用しませんが」
杉岡はなぜそんなことを聞くのだろうというような表情で答えた。
「いや、前にメジャー・カップを使っていない店で、カクテルを頼んだのですが、何だか薄いような気がして、だから使わない店は、どうしてなのだろうと思いまして」
男は濁すような言い方で理由を伝えてきた。
「今飲まれているカクテルも薄く感じられますか」
思わず碑が合いの手を入れた。男はその言葉に首を横に数回振ってから言葉を出した。
「いえ、そうは思わないのですが、なぜメジャー・カップを使わないのだろうと思いまして……。使っている方が正確だし、客に対して不信感を与えないのではないかと……」
男はそう言うと、ジントニックを口にした。
「まあ、以前にそういう事があったのなら、そんな風に考えてしまうことも仕方がないと思いますが……」
碑はそう言うと、タンブラーを三脚取り出した。そして先ほど杉岡が練習で使っていた瓶を手にして、水を半分くらいまで入れて、作業台の前に置いた。
無言のまま、一つ目のタンブラーにハンドメジャーで水を入れた。そしてそれを客の前に置いた。
次のグラスには、メジャー・カップを使用して水を入れ、先ほどのグラスへと並べた。
「いかがでしょう、量は違いますか」
そう言われて男は、二つのグラスを見比べた。水面はほぼ一緒である。
「いえ、一緒の量だと思います」
「では最後の一つにも水を入れたいと思います」
そう言われて男だけではなく、杉岡、夏木、大路の視線も碑の手元へと向けられた。
碑はメジャー・カップを持ち、流れるような手つきでグラスに水を注いだ。
「これはどうでしょう」
碑は男へとグラスを手渡した。男は先ほどの二つのグラスにそれを並べた。
「あれ、このグラスの水は少ないですね」
男の言葉に碑は思わず笑みを浮かべた。
「メジャー・カップを使ったのに、どうしてこれは少ないのですか」
男は手品でも見たように、不思議そうな表情を碑へと向けた。
「いいですか、メジャー・カップはすり切れの量を入れるのが正解だと言われています。
しかしながら、流れるようにメジャー・カップを使って、意図的に量を少なくすることもできます。
しっかりと練習をして、誠実な店は、ハンドメジャーでもしっかりとした量を入れることができます」
男はそう言われて、再び三つのグラスを見つめた。
「じゃあ、メジャー・カップを使うから正確とは言えないという事ですか」
「はい、もちろんしっかりと使っている店がほとんどでしょうが、そうではない店もあるという事です」
「じゃあメジャーどうこうではなく、その店が、いかに誠実かどうかが問われるのですね」
大路が思わず口をはさんだ。
「そうですね。そこに悪意があるかどうか、もしくはしっかりとした量を図ることができない未熟な人間が道具を使うか、そんな問題なのでしょう」
碑はそう言うと男の前に置かれたグラスをしまおうとした。
「待ってもらえますか」
男はそのグラスの写真を、スマートフォンを取り出して、写した。それを確認してから、碑はグラスを片付けた。
「見た目や恰好に囚われてはいけないという事なのですね」
夏木は自らが納得するように頷き、ウイスキーサワーを口にした。
「そうだな。人は何かに囚われてしまうと、そう思ってしまうからな」
碑は自らが納得するように首を数回縦に振った。
「私は何回もここにきているので、マスターの腕も含めて信用していますけれどね」
大路はそう言うとハイボールを飲み干し
「ホワイト・レディをください」
と注文した。
杉岡がグラスを準備すると、碑はいつもと同じようにハンドメジャーで材料を入れたシェイカーを振り、カクテル・グラスに注いだ。
それはしっかりとグラスを満たした。
「ありがとうございます」
大路は嬉しそうにホワイト・レディに口をつけた。
「じゃあ私はXYZを」
今度は夏木が注文をし、碑は再びカクテルでグラスを満たした。
「何だかみんな綺麗に収まっておいしそうですね。
私も次のカクテルをもらいたいです」
男はそう言ってグラスを空けると、頭の中で次に飲むカクテルを考えた。
「こう暑いですから、ダイキリを」
「かしこまりました」
碑は答えると、シェイカーを振り、男の前にカクテルを差し出した。
男はそれに口をつけ、納得した表情で頷き
「おいしいです」
と笑みを碑へと向けた。
「ありがとうございます」
碑は同じような表情を返した。
「マスター、誠実さって大切なのですね」
客がいなくなった店内で、杉岡は片付けを終え、碑に問いかけた。
「まあそうだろうな。人をだますことは幾らでもできる。
ただ自分に嘘をつくことができるかできないかは、その本人次第なのだろうな」
碑はそう言うと、カインド・オブ・ブルーのレコードに再び針を落とした。