四五、する側とされる側
客のいない店内で、杉岡はシェイカーを振っていた。前回、神代や碑に言われたプロの仕事という言葉が、自らを奮い立たせていた。
「杉岡、気負いすぎるなよ」
碑は、やけに固い杉岡の肩回りを見て、声をかけた。
「はい、気をつけます」
そう答えながらも杉岡は気持ちだけが焦っているようであった。
碑は、杉岡の気持ちがわからないでもないのか、その後は何も言わずに、本を読みながらプラセンシアのロブストを咥えた。
杉岡の表情は鬼気迫るところがあるが、それが逆に邪魔になっている。碑にはそう思えたが、多分今日の杉岡に何を言っても駄目かもしれないと、碑はたまに視線を向けるだけであった。
力が入っているからなのか、杉岡はいつになく疲れを感じていた。
シェイカーの中に入っている氷と水をシンクの中へ捨てると、杉岡は大きく天井を見上げた。そしてやっとの事で脱力した。
「それなりの酒は作れるレベルに来ているのだから、あとは安定感だけ。
自分の気持ちに振り回されると、結局は良いものは作れないぞ」
碑はそれだけを言うと、宙に煙を浮かべた。
エアコンが効いている店内でありながらも、どこか暑さを感じる気がする。白い扉が開いた時に、入り込んできた重い空気は、更にそれを実感させた。
「いらっしゃいませ」
杉岡が言うと、碑はすぐさま立ち上がり、客をカウンターへと招いた。
「ここ、いいじゃないですか」
三人のうちの一人が思わずバックバーを見ながら言った。
「そうだな、まあ座ろう」
一番年配と見られる客が、席に座ることを促した。その男をはさむように二人もカウンターへと着いた。
「なかなか普段、バーなんて来ないですからね。
何を飲みますか」
杉岡が出したおしぼりに手をつけることなく、一番若手と思われる客が二人に尋ねた。
「もうかなり飲んでいるからな。軽い物がいいな」
年配者の声は、確かに酔っていると思わせるように、揺れている感じを受けた。
「じゃあ、ジントニックでもいいですか」
中年の男が二人に問いかけた。
「そうするか」
年配者が言うと、若手が杉岡に
「ジントニックを三つ」
と声をかけた。
「かしこまりました」
杉岡は答え、コリンズ・グラスを三つ出し、作業台の前に、ビフィーター・ジンを出した。カウンターの中に入ってきた碑は、トニックウォーターとライムを出し、包丁でカットをして、杉岡へと渡した。
ライムがグラスの中に絞り入れられ。杉岡は三つのグラスに、トニックウォーターを入れ、バースプーンを手にした。
「お待たせいたしました」
三つのグラスが揃うと、男たちは、酔っているからなのか、それともいつも通りなのか、グラスを強く合わせて飲み始めた。
「それにしても、今日はありがとうな」
年配の男が軽く頭を下げた。二人の男は恐縮するようにそれに倣った。
「何を言っているのですか、真野さんの送別会じゃないですか」
「そうですよ、まだまだ飲みましょうよ」
「もうそんなに飲めないよ」
中年の言葉に若手が続き、それを制するように真野がグラスを置いた。
「そんな寂しい事を言わないでくださいよ。まだまだ今日は飲みましょうよ」
若手はそう言うと、ジントニックを一気に半分くらいに減らした。
「莫迦言うなよ。もう何件目だと思っているんだ」
「まだ三軒目ですよ。真野さんとなんか、良く五軒くらい梯子したじゃないですか」
中年の男が回顧するように答えた。
「それは若い頃だろう、今はもう二軒も行けば十分だよ」
真野はうんざりというような表情を一瞬見せた。
「最後なんですから、まだまだ飲みましょう」
若手と中年はそう言って、再びグラスを口にしたが、真野がグラスを持つことはなかった。
その後も勢いにまかせて若手と中年が真野に対しての思い出をさんざん話をするが、真野は疲れ切っているのか、杯が進むことはなかった。
「えっと、ジントニックをお代わり」
若手はあっと言う間に飲み干したグラスを掲げて、杉岡に注文をした。
「お待たせいたしました」
若手のグラスが入れ替わると、中年もジントニックをお代わりした。
「真野さん、飲みましょう」
中年は杉岡が差し出したグラスをすぐさま持つと、真野にも一緒に飲むように急かした。真野は仕方ないというようにグラスを手にして、一口、ジントニックを流し込んだ。
中年と若手は年配者との思い出が色々とあるのか、杯を重ねながらどんどんを話をしていくが、年配者は飲みすぎているのか、杯が進まないという感じであった。
そしてしまいには、船を漕ぎはじめてしまった。
「あの、カウンターで寝ることはしないほうが良いですよ」
碑は釘を刺すように言った。
「そうですね」
真野は答えるが、すぐに落ちそうな表情であった。
「真野さん、飲んでいないから寝ちゃうんですよ」
中年は声をかけ、真野にグラスを勧めた。真野は
「そうか」
と虚ろに答えると、一口だけ、グラスに口をつけた。しかし真野はそのまま目を閉じてしまった。
「あの、そろそろ帰られた方が良いと思いますが……」
碑は中年の男に声をかけた。カウンターで寝るという行為が嫌という事もあるが、こんな状態であれば帰らせてあげた方が良いと思えたからだ。しかし中年の男は
「いや、真野さんの送別会なんですよ。
俺らだって、まだまだ真野さんと一緒にいたいんですよ。
マスターもそういう気持ちってわかるでしょう」
と少しだけ睨むような視線を碑へと向けた。
「まあそういう人もいるでしょうが、送別される本人が寝てしまっているのですから、帰らせてあげることが一番だと思います。
自分の思いだけを推し進めて、他人を思いやれないほうがよろしくないと思いますが……」
碑は淡々と答えた。
中年の男は、言われた事に納得できないのか、嫌そうな表情を見せて
「じゃあ会計してくれ」
と語気を強めていった。
碑が会計伝票を差し出すと、男は一万円札を放り投げた。カウンターに落ちた札を碑は拾い、お釣りを準備していると、中年は、若手と二人で真野を抱えるようにして店の扉へと向かった。
「あの、今お釣りを準備いたしますので」
碑の言葉を無視するように中年は扉をくぐりながら
「ふざけんなよ。つまんねえな、この店」
と捨て台詞を吐いて出て行った。
碑はやれやれというような表情を見せ、渡す予定であった釣銭を戻した。
「マスターが言うように、本人が寝ているのだから、帰らせてあげればいいのに」
杉岡は思わず、胸に詰まっていた言葉を吐いた。
碑は何も言わずにモダン・ジャズ・カルテットのラスト・コンサートのレコードを流した。
「自分の気持ちを最優先するのか、それとも他人の気持ちを最優先するのか……。
それがあるかないかで、その人の人生も変わるような気がするのだけれどな」
碑はそう言うと、カウンターへと座り、葉巻を咥えた。