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四三、脱サラ・バーテンダー

「マスター、この間バーを見かけたので入ってみたら、カクテルができないって言われて驚いちゃいましたよ」

 杉岡はシェイカーを振る練習を一段落させると、カウンターで葉巻をふかす碑に話しかけた。碑は煙を宙に浮かべてから言葉を出した。

「カクテルができないバーか……

 結構前からウイスキー・バーなんかもあるから、そういう店だとカクテルができないところもあるみたいだな」

「しかもそのバーテンダーは、私を若いと見ると、このあたりのウイスキーなんかどうだいって、いきなり上から目線でアードベッグを勧めてきたのですよ」

 杉岡はその時のことを思い出すと、少しだけ嫌悪の表情を見せた。

「アードベッグか、たまにいるなぁ。いきなりアイラのようなパンチの強い酒を飲ませてみようとする人たちは」

 碑は嫌そうな表情を見せた。

「そうですよね。まあ私も喧嘩をするつもりもないので、知らん顔して、じゃあそれで、と言って一杯飲んで、すぐに出てきてしまいましたよ」

 杉岡は本当に気分が悪かったのか、口調は少し強かった。

「相手の情報も得ないで、いきなりそういう物を勧めるのはなぁ……」

 碑はあまり良い印象を持てない表情で、煙を宙へと浮かべた。

「入り口にウイスキー・バーとか、モルト・バーなんて書いてあれば、カクテルができなくてもって思うけれど、ただのバーだけだとなぁ。

 ある程度の酒全般を扱えてバーテンダーだと俺は思っているから、やはり賛同はしにくいなぁ」

 碑はそう言うと、再び煙を宙へと飛ばした。

「そうですね。私もそう書いてあったら入らなかったと思います」

「バーと一口に言ってもな、昔は洋酒専門とか、そんなイメージもあったが、最近は和食ダイニングバーとか、色々あるから、わかりにくい世界なのかもしれないな」

 碑はふとバーの定義について明確なものがないという事を考えた。杉岡も同感というような言葉を続けた。

「そうですね。定義がなく細分化されているから、わからないですよね」

「しかもその店のレベルなどもわからない。ネットの口コミは、どんな人間が書いているかわからないから、信用度はほぼないし……。

 知人に教えてもらうなり、行ったことのある良い店の人から聞くのが一番なのだろうな」

 碑が改めて煙を宙に浮かべた時に、白い扉が開き、熱気が店内へと入り込んできた。

「いらっしゃいませ」

 杉岡はすぐに反応し、客を案内するようにカウンターの中ほどを手で指した。碑も続くように立ち上がって迎え入れる挨拶をして、カウンターの中へと入り込んだ。

「話には聞いていたのですが、やっと来る機会がありました」

 男は杉岡からおしぼりを受け取るなり、声をかけてきた。

「そうでしたか、どちらかでお聞きになってきたのですね」

 碑は尋ねるともなく言った。

「はい、カレッジの山上さんから聞いてきました。

 スタンダード・カクテルを飲むなら、ここが良いって」

「山上に、そうでしたか」

 碑は納得するように頷いた。山上は何気に碑のカクテルを気にいっているらしく、同じように話を耳にしてくる客が今までもいたからである。

「はい、それなので、まずはバカルディをいただければと思います」

「かしこまりました」

 碑は答えると、バカルディ・ドライ、レモン・ジュース、グレナデン・シロップを用意し、シェイカーへと氷を入れた。

 杉岡は、いつものように冷やしたカクテル・グラスを客の前へと準備した。

 碑のゆったりとしたシェイクが終えられ、グラスに赤みがかった液体が注がれた。

「お待たせいたしました」

 男は、差し出されたグラスを口元へと運び、噛みしめるようにカクテルを飲んだ。そして満足した表情を浮かべた。

「山上さんが言っていた通り、おいしいです」

「ありがとうございます」

 碑はその言葉を素直に受け取った。

「この間、出張先で、バーという看板に惹かれて入ってみたのですが、ウイスキー・バーだったのですよ。

 別にウイスキーも嫌いではないので、数杯ほどもらったのですが、カクテルを飲みたい気分だったので、結局ホテルに戻って、そこのバーに行きましたよ」

 男は微笑みながら話すとカクテルを口にした。

「そうでしたか、うちのスタッフとも先ほど話をしていたのですが、最近はそのようなバーも多くなってきていますからね」

 碑がその話をすると、杉岡は頷いた。

「はい、その話を山上さんにした時に、どこかカクテルのおいしい店がないか、と言ったらこちらを紹介されました」

「でもカクテルならば山上もそれなりの物を作りますから、わざわざうちに来ていただいて恐縮です」

 碑は頭を軽く下げた。

「いえいえ、山上さんの紹介ですから、ぜひとも行きたいと思っていました。

 バカルディ、おいしいです」

 男は重ねるように言った。

「ウイスキー・バーも楽しいところはありますから、気分が合えばいいのでしょうが、看板で判断できないと厳しい時はありますね。

 逆に私はウイスキー・バーで合わなかった記憶がありますよ」

 碑は思い出すように、自分の言葉に納得するように、頷いた。

「ウイスキー・バーでの失敗ですか」

「まあ、失敗ということではないのでしょうが、私が若かった頃に、看板に

【ウイスキー豊富、他店にない物も】

 と書いている店があったのですよ」

 碑は何となく回顧しながら話をはじめた。

「もちろん、入店してみたらそれなりに酒はあるのですが、まあそれなりの品ぞろえというくらいで、仰々しく看板に書くほどではないという感じでした」

 少しだけガッカリした碑の口調に続いて男は

「なんでしょうね。普通に、ウイスキー・バーって言えばいいだけなのに、よほど自信があったのですかね」

「それでも、マスターからしてみれば、そんなに……という感じだったのですよね」 

 思わず杉岡も続いた。

「そう、私が入る前に若い客がいたので、小耳を立てていたら、そのバーテンダーはかなり偉そうに話をしていました。しかも脱サラをしてはじめたという事も言っていましたからね……」

 碑はそう言うと、呆れた表情を見せた。

「偉そうなバーテンダーっていますよね。こっちを素人だと思って」

「確かにそういうバーテンダーもいますよね。客は素人でしょうが、別にそこを攻める必要はないですからね。

 逆に言えば、知らない人だからこそ、色々な酒を案内する私たちバーテンダーがいるのですから」

 碑は男の意見に続いて言葉を出した。

「それで、マスターの失敗とは……」

 杉岡は話の先が気になっているのか、続きを即した。

「ウイスキーが豊富と書いてあったので、ちょっとと思い、数品、これはありますか、あればありますかって聞いたら、どれもなかったのだ」

「どんな銘柄を言ったのですか」

 男は興味があるのか、すぐに尋ねてきた。

「モストウィー、セント・マグディラン、グレンクレイグあたりなのですが……」

「それは私も聞いたことがありません」

 男は素直に答えると、バカルディを口につけた。杉岡は、今ではわかっているが、秘密の井戸で勉強をしはじめて初めて知った名前であると思い出した。

「まあ豊富というから、置いてあってもおかしくないと思って聞いたのですが、どれも置いていなかったのですよ。

 まあ置いていないならばまだいいのでしょうが、そんな蒸留所は知らないと、急に不機嫌になるという始末で……。

 脱サラのバーテンダーが悪いという訳ではないのですが、偉そうにいうのであれば、取りあえずの知識くらいは知っていてほしいと思うわけです」

 碑はそういうと、困るような表情を見せた。杉岡は更に先を即した。

「それでマスターの失敗とは……」

「コテンパにやっつけなかった事だろうな。

 中途半端な知識の人間をそのまま放置してしまって、そこに行く客たちに不利益が生じるという事を考えなかった事だろうな」

 碑は真顔で答えた。男と杉岡は、何となく碑の優しさと、バーテンダーとしての信念を感じた。

「せめて不機嫌にならずに、勉強不足を認め、真摯に客に向き合うのであれば、コテンパにして、改善をする余地を与えたのだろうが……。

 二杯ほど飲んできたのだが、オフィシャルの普通の物を頼んでやり過ごしてきたよ。

 まあ注文以外は俺に近づかずに、若い客に偉そうに講釈を垂れていたけれどね」

 客はその話を面白そうに聞き、バカルディの入っていたグラスを空にした。

「私も、気をつけようと思います」

 男はグラスをカウンターの奥に押し出すようにした後、一枚の名刺を取り出した。

 そこにはバーの名前が書かれていた。

「本橋と申します。私も脱サラでバーテンダーをはじめたのですが、しっかりとした酒を作れるようになりたいと、山上さんのところに飲みに行かせてもらっているのです」

 そういうと本橋は頭を深々と下げた。

「そうでしたか、良いカクテル、良い空間が提供できるといいですね」

 碑は笑みを返した。

「私も、修行でここに来させてもらっているので、本橋さんと変わらないですね。

 よろしくお願いいたします」

 杉岡は親近感が湧いたのか、嬉しそうな笑みを見せた。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします。

 次に、サイドカーをいただけますか

 まだ基準の味がよくわかっていないもので」

 男は恐縮するように、二人に軽く頭を下げてから注文をした。

「かしこまりました。うちの味が基準になるかどうかわからないですが」

 碑はそう言うと、カミュのVSOP、エギュベルのホワイト・キュラソー、レモン・ジュースを準備し、シェイカーに氷を入れた。

 先ほどと同じく、杉岡が冷やしたカクテル・グラスを本橋の前に出した。

 提供されたカクテルに口をつけて、本橋は味を記憶するように噛みしめた。

「山上さんのカクテルもそうですが、碑さんのカクテルも、いつでもイメージできるようにしたいです。

 私の目指すカクテルの一つにしたいくらいおいしいです」

 本橋は満面の笑顔を見せた。

「ありがとうございます」

 碑は答えると、プレイヤーの上のレコードを取り換えた。

 スタン・ゲッツのジャズ・サンバが軽快な音をたてて店内に鳴り始めた。


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