四二、受け継ぐ物
珍しく、ちょこちょこと来客があった日であった。
それでも深夜と呼ばれる時間になってくると、いつものように客のいない店内へと回帰していった。
杉岡はグラスなどの洗い物を済ませ、それを丁寧に拭きあげていた。
「珍しく客が来たから、今日はもう誰もこないかもな」
碑はそんなことを言いながら、伝票の整理をしていた。だが、来客が多くあったことも、白い扉が再び開いたことも、碑の予想とは裏腹の日であった。
「まだいいかな」
その言葉に振り向いた碑は、扉をくぐった来客の姿を見ると、深々と頭を下げた。
「沼貫さんじゃないですか、今日はどうされたのですか」
「久しぶりにこっちに来たので、寄らせてもらったよ。
まだいいかな」
沼貫と呼ばれた白髪の男は返答の返ってこなかった質問を、碑に再び問いかけた。
「もちろんです。どうぞ」
碑はカウンターを腕で指した。
「いらっしゃいませ」
座った沼貫に杉岡はおしぼりを出した。
沼貫はカウンターに置かれたおしぼりを手にして、カウンターを一望してから
「碑君も弟子を雇うようになったのだね」
と改めて杉岡を見た。
「いえ、彼は勉強をしたいというので、押しかけで来ている杉岡です。
いつも暇なうちの店で雇い入れることはできませんよ」
碑は困るように苦笑して言った。
「そうか、まあ押しかけでも弟子は弟子なのでしょう」
「まあそうですが」
碑は押されるように返すしかなかった。
「とりあえず、ボストン・クーラーをお願いしようかな」
「かしこまりました」
碑はバカルディ・ドライ、レモン・ジュース、粉糖、ソーダを準備した。
杉岡はコリンズ・グラスを棚から作業台へと出した。
碑はシェイクをし、最後にソーダを入れてステアし、カクテルを沼貫へ差し出した。
「ありがとう」
沼貫は軽く言い、カクテルへと口をつけた。
「改めまして、杉岡です。よろしくお願いいたします」
沼貫が落ち着く姿を確認してから、杉岡は挨拶をした。
「沼貫です。こちらこそよろしく」
続くように言って、沼貫は頭を軽く下げた。
「久しぶりにこちらに来たとおっしゃっていられましたが、店は休みでしたっけ」
碑の言葉を耳にした沼貫は、一度ボストン・クーラーで喉を湿らせてから、口を開いた。
「いや、店はもうずっと休みかな」
沼貫は笑顔で答えた。その言葉の意味が分からず、碑は、疑問に満ちた表情を、言葉と共に向けた。
「ずっと休みというのは、病気か何かですか」
思わず出てきた言葉に、沼貫は微笑みを返して答えた。
「病気にはなっていないよ」
「では……」
碑は思考を回すが、答えは見つからなかった。
「私も今年で八〇歳、先月で引退したのだよ」
その言葉に碑は思わず口を開けた。それでもその口からは、音は出てこなかった。
「七月いっぱいで店を閉めたのだ」
沼貫は、哀愁の漂う表情を見せ、液体を口に運んだ。
「そうだったのですね」
碑は脱力をするように、静かに言葉を出した。
「あの、沼貫さんは何の店をやっていらっしゃったのですか」
二人の関係をわかっていない杉岡が会話に入ってきた。
「沼貫さんは、バーをやっていたのだ。バーテンダー」
碑の言葉を聞き、杉岡は沼貫に慌てたように頭を下げた。
「まあ、初めてあったのだから、私がバーテンダーなんてわからなくて当たり前ですよね」
沼貫は温かい笑顔を見せ、ボストン・クーラーで舌を湿らせた。
「沼貫さんの店にはじめて行ったのは、私が二〇代の時だったはずですね」
「そうだね。あの時は、生意気な坊主が飲みに来たなと思ったよ。
あれからもう三〇年近くになるのかな」
沼貫は思い出すような笑顔を見せた。
「そうですね、約三〇年以上前ですね。
独立したばかりで、自分はバーテンダーだって思っていたのですが、沼貫さんのカクテルを飲んだ時に、自分が本当にバーテンダーでいいのか、と考えてしまいましたよ」
碑は若かった自らを思い出し、脱帽するように頭を下げた。
「沼貫さんのカクテルを飲んでそう思ったのですか」
杉岡が自分の知らない碑の話を聞きたそうに質問した。
「たまたま暇だったのもあるけれど、沼貫さんは若手のバーテンダーが来ると、同じカクテルの振り比べをすることがあったのだ」
碑は若気の至りを思い出すように話をはじめた。
「そこでホワイト・レディを二人で振り比べたのだ。
材料は、俺が注いで、二つが違わないようにして」
「そして、どうなったのですか」
急かす杉岡の言葉に、沼貫は頬を緩め、カクテルを口にして、その先の言葉に耳を傾けた。
「同じ材料を入れて振ったのに、俺のカクテルは固くアルコール感が強く、沼貫さんのカクテルは柔らかいけれども、腰砕けにならず、アルコールがしっかりと効いているものが出来上がった」
今、それと同じようなことを、杉岡は碑と振り比べると、思い知らされている気がして少しだけ恐さを覚えた。
「だから、もっとしっかりした物を作らないとバーテンダーを名乗ってはならないような気がしてな……。
鼻をへし折られるとはこの事か……そう思ったよ」
碑は苦々しい表情を見せた。
「でも碑君の成長はそこから目覚ましいものがあったよね。
半年もしないうちに、私のレベルを超える勢いだったからね」
沼貫も当時を思い出し、満面の笑みを浮かべた。
「それからは、休みになると沼貫さんの店に、良く飲みに行ったものさ。
しかも営業終わりに近い時間に行くと、沼貫さんは、店を閉めてから
【俺も飲む時間だ】
と言って、つまみと日本酒を出すのだ。
そこからは、場合によっては朝まで永遠に、酒の話をしながら飲んだものさ」
碑は、思い出し、目をつむってから微笑んだ。
「確かに、振り比べをしたり、ただ酒の話をしたり、色々とやったものだね」
沼貫も当時を思い出し、懐かしむような表情を見せて言った。
「あれから、アッという間に時間が経った気がします」
「まあ、お互いね。
さて、マンハッタンでももらおうかな」
そういうと沼貫はボストン・クーラーを飲み干した。
「かしこまりました」
杉岡はカクテル・グラスを冷やすと、ミキシング・グラスに氷を入れ、チェリーとレモン・ピールを準備した。
碑はオールド・オーバー・ホルトと、ロタンのスィート・ベルモット、ビターズを作業台の前に置いた。
カクテル・グラスと、チェリーとレモン・ピールを乗せた皿が、沼貫の前に置かれた。
碑はミキシング・グラスの氷を水で洗い、次々と材料を入れ、ステアをはじめた。
その光景を沼貫は、一挙手とも見逃さずにいた。
碑は、沼貫の前に立つと、カクテル・グラスにチェリーを入れ、カクテル・ピンを取った。そこに液体を注ぐと、チェリーは少しだけ、水流に揺られて動いた。
出来上がったカクテルにレモン・ピールをふりかけてから、コースターを滑らせるようにし、沼貫の前にマンハッタンを押し出した。
「お待たせいたしました」
沼貫は笑顔でカクテルを受け取ると、更に笑顔を膨らませ、カクテル・グラスをスマートに持ち、口元へと運んだ。
「碑君のカクテルは、丸くて柔らかく、力強い……
いいねぇ」
その言葉に碑は頭を下げた。
「やっぱりマンハッタンは、若い人には向かないカクテルだね」
沼貫の言葉に、碑は頷いた。杉岡には何のことだか、さっぱりわからなかった。
「沼貫さんは良くおっしゃっていましたよね。
酸いも甘いも知った上で、マンハッタンを飲んでほしいと……」
碑が代弁するように言った。沼貫は、うんうんと頷いて
「そう、マンハッタンの夕日を眺めて、浸れるくらいの感覚を持って飲んでもらいたいなぁって……」
「だから沼貫さんは、チェリーをカクテル・ピンに刺さずに、ずっと残るようにしていたのですよね」
「そう、私に取っては、これがあるからマンハッタンだからね」
沼貫は、グラスを目線よりも少し上に掲げ、マンハッタンに浮かぶ夕日を思い眺めた。
一緒に働いたりしたことはなく、それでも酒の話はさんざんしてきた二人だからこそ、共感できる何かがあるのかもしれない。
師弟関係ではないのかもしれないが、二人にはバーテンダーとしての結びつきがある。そう思うと、孫弟子ではないかもしれないが、自分もその脈々とした系譜を受け継いで行きたいと、杉岡は勝手ながら考え、受け止めようとした。
「一つだけ、最後のお願いをしてもいいかな」
マンハッタンを飲み終え、チェリーが残ったグラスをコースターに置くと、沼貫は口を開いた。
「はい、なんでしょう」
碑は背筋が伸びる思いで返した。
「うちで使ってきたカクテル・グラスなのですが、あなたに受け取ってもらえないでしょうか」
唐突な言葉に碑は一瞬、返答が遅れた。
「カクテル・グラスを、ですか」
「そうです、流石に使っていたグラスを処分をしたくないですし、素人にあげる物でもない。
プロのバーテンダーであるあなたにもらって欲しいのですが、いかがでしょう」
「わかりました」
碑は少しだけ考え、覚悟を決めて答えた。その表情は、いつになく真剣なものであった。
「ありがとう」
沼貫はグラスに残ったチェリーを口の中に入れ、弛緩し安堵いっぱいの笑顔を碑に向けた。
沼貫が帰った店内で、碑はカーメン・マクレエのエニー・オールド・タイムに針を落とした。カバーされているのだが、カーメン・マクレエのオリジナルのように思えるラヴミー・テンダーが店内へと流れはじめた。
そのままカウンターに座ると、持ち出したコイーバのシグロⅠに火を灯した。
「杉岡、マンハッタンを作ってくれないか」
その言葉に、杉岡はすぐさま答え、カクテル・ピンを使わずに、マンハッタンを作り、碑の前に差し出した。
「ありがとう」
なんとも言えない表情を浮かべて、碑はマンハッタンへと口をつけた。