四一、夏の日に
「こう暑いと、ウイスキーという気分ではなくなりますね」
まだ陽が落ちていない早い時間に白い扉を開けたのは、夕凪であった。そしてキューバ・リブレを飲みながら思わず呟いた。
「確かにそういう客はいるけれども、まだ日本のバーは冷房が効いているから、気にしない人も多いけれどな」
碑はキャンドルライトを手に答えた。
「でもやはり暑いと、ストレートはきついです。できれば炭酸で割っていればいいのですが」
夕凪はどう考えても、ストレートは無理だと思いを伝えた。
「そうか、まあ人それぞれだからな。確かに冷たい物を飲みたくなるのは仕方がないな」
碑はそんな考えも、もちろんありだと答えた。
「私もそうですね。いくら冷房が効いていても……」
杉岡も夕凪の意見に乗るように言葉を出した。
「夏になるとどうしても、暑さが勝ちますよ。だから飲み物も仕方がないと思います。
しかもグラスに水滴がついてくると、見た目でも涼しく感じられますからね」
夕凪はそういうと、グラスの側面を流れ落ちてくる水滴を指で拭った。
「確かにな、そうなるとコースターの意味も出てくるってことかな」
碑が答え、思わず煙を宙へと浮かべた。
「コースターの意味ですか」
杉岡は碑が何を言いたいのかよくわからずに聞き返した。
「杉岡はコースターの意味を考えた事がないのか」
「はい」
杉岡の言葉に同調するように夕凪も、同じだという風に頷いた。
「ただグラスを乗せるだけだったらコースターがなく直接カウンターに置いても成立する。
しかし今夕凪君が言ったように、水滴が落ちてくるとカウンターが濡れる。
それを拭うためにコースターが存在するのだよ」
碑はさらっと答えた。
そんな言葉に思わず二人は
「おお」
と感心した表情で声を上げた。
「そういえば、マスターがショット・グラスをコースターに置かずに提供するのは、水滴が出ないからなのですね」
杉岡はカウンターの上の出来事を思い出すように言った。
「そういう事」
「でも、カクテル・グラスもそんなに流れるほど水滴は出ないですよね。それでもマスターはコースターを使うのか」
今度は夕凪からの質問であった。
「まあね、カクテル・グラスで水滴がついても、氷が入ったロング・カクテルと比べると水滴がこぼれるほどにはならない。
カクテル・グラスはカウンターの上をそのまま滑らせるのが嫌だから、コースターを滑らせるために使っているのだ」
「そんなマスターならではの思惑があったのですね」
夕凪は答えを聞いて、思わず感心した。
「物事にはそれなりに理由がある。まあないものもあるのかもしれないが、基本的に理由は存在するだろう」
そんなことを言われて、二人は
「確かに」
と二人は納得して頷いた。
「それにしても、今年も暑くなりそうですね」
夕凪が話題を変えた。
「まあ、年々気温は上昇しているからな。俺らが子供の頃とは大違いだよ。
学校にエアコンがついているなんて信じられないからな」
その言葉に驚くように夕凪が言葉を出した。
「マスターの頃はエアコンがなかったのですか」
「なんだ、夕凪君の時はついていたのか」
少し驚くように碑は言ったが、夕凪の年齢を考えれば当たり前だと思えた。
「だって、エアコンがなかったら勉強なんてやっていられませんよ」
夕凪は思い出すと、あきれるような表情を見せた。
「まあ、俺たちが子供の頃とは大違い、だものな。
三〇度を超える日なんて、そんなになかった気がするからな」
碑は天井を見て、過去を振り返って言った。
「そうなのですか、三〇度って、今じゃ楽な方じゃないですか」
杉岡はもっと気温の高い日を思い浮かべて、さらっと言った。
「今となってはな。
そう考えると、食べ物も同じ環境じゃないから、少しずつ変わっているのだろうな。
原材料も異なるし、それを使って作る酒も、品質が変わるのは当たり前なのだろうな」
碑は思わず、過去の商品と今の商品がどうやっても違うことを思い浮かべた。
「食べ物も変わってきているのですね」
杉岡が感心するように言った。
「そうだな。日本も亜熱帯になっているような気がするからな。
それによって食文化も変わってきている気がする。
食べ物は味が濃くなり、辛い物も増え、飲み物はさっぱりした物が好まれる。
さっき夕凪君が言ったように、ウイスキーは元々北緯が高い地域の物だからな」
碑はそう言うと、先ほどの夕凪の意見が、本来の、技術などの発展がなかった頃のものなのかも、と考えてしまった。
「俺が子供の頃は、夕立なんかもあったけれど、今は夕方に振るなんて感じでもないしな」
「確かに、どちらかと言うと、遅い時間にゲリラ豪雨があったりしますものね」
杉岡がそんなことを言い出すと、タイミング良く、外からゴロゴロと空が鳴る音が聞こえてきた。
「昔は、夕方に雨が降ると、その後に虹が出て、涼しくなったものだけれど、今は妙な時間に振って、ただ湿度が高くなって、ムシ暑くなるだけだからな」
どこかに雷が落ちたのだろうか、怒号が聞こえた時に、白い扉が開いた。
「ギリギリ雨に降られなかった」
思わず安堵の言葉を出したのは、ビニール袋を手にして入店してきた雪乃であった。
その次の瞬間、どりゃぶりの雨の音が響きはじめた。
「マスター、暑いのでアイスを買ってきたので、食べてください。
私はドライ・シェリーのソーダ割をください」
席に座った雪乃はビニール袋の中から、カップアイスを二つ出した。碑はそれを受け取り、冷凍庫に入れると、冷蔵庫からサンチェス・ロマテのフィノを取り出し、ソーダ割を作った。
「やっぱり暑い時は炭酸が欲しくなりますね」
喉を潤した雪乃が落ち着いたように言い、吐息を漏らした。夕凪は先ほどの自分の意見と同じ言葉を耳にして、軽く頷いた。
「そうか、暑い時はか……うちはフローズン・カクテルをやらないからな。
涼が足りないのかもしれないな」
碑は思わず呟くと、キャンドルライトを一度口にしてから、灰皿に置いた。
そして手を軽く洗い、オールド・ファッション・グラスを四脚出した。
誰も注文をしていないのに、何をするのだろう、と杉岡は身動きができなかった。
碑は、バックバーから、イリー・コーヒー・リキュール、シャルルバノーのココナッツ・リキュール、ドメーヌ・サトネイのカシス・リキュール、ゴディバのチョコレート・リキュールを取り出した。
杉岡は、これを混ぜる訳ではないと考えると、碑が何をするのかわからず、更に身動きができなかった。
碑は、先ほど雪乃からもらったカップのバニラ・アイスを出すと、それを四つのグラスに均等に入れた。
そしてスプーンを四本取り出し、個々のグラスに添えてから、個々のグラスに、各々のリキュールを注いだ。
「もしかして、バニラ・アイスのリキュール掛けですか」
雪乃が興味深そうに言葉を出した。
「そう、うちでもこんな物ならば用意できるってね」
碑はそのグラスを、カウンターの上に並べた。
「さて、みんなでじゃんけんして、好きなものを取っていくか」
碑は楽しそうな笑みを浮かべ、デキシーランド・ジャズのレコードをかけはじめた。
その音楽に乗るように、四人はじゃんけんをして、涼しさを感じるリキュールのかかったアイスを、涼しそうに食べはじめた。