四〇、バーテンダー志望
「おはようございます」
杉岡は開店前の店内へと入り込んだ。
「おはよう」
碑はレコードの前で入り口を振り返ると、軽く挨拶を返した。杉岡は碑がいつものように、開店前はカウンターに座っている印象があったので、珍しいなとくぃう気持ちと共に、今日は何かがあるのではないかと勘を働かせた。
杉岡が着替えを済ませて事務所から出ると、碑はジョン・コルトレーンのブルートレーンをかけはじめ、アップテンプの曲が店内へと響きはじめた。
もしかすると重要な客がくるのかもしれない。杉岡は気持ちを構えた。
「あの、今日はカクテルの練習なんかはやらないほうがいいですか」
自分の予想が合っているかどうかなど気にもせず、杉岡は恐る恐る碑に確認をした。
「いや、別に問題はないけれど」
なぜそんなことをいうのかわからず、碑は不思議そうな表情を見せた。
「そうですか、開店時間前に、これだけ完璧な状態になっていると、何かあるのかと思いまして」
杉岡は少しだけ、遠慮がちに言った。
「ああ、今日は開店時間くらいに行きたいと言われていたので、それで準備が万端になっているだけだ。だから気にしなくてもいいよ」
碑は、杉岡が何かあるのかと考えていることは、何となく理解できた気がした。けれどもいつも通りで問題ないという返答であった。確かに客が来る前は同じでもいいのかもしれない。そう考えたが、それでも客が来る事がある程度わかるのであれば、気持ちを準備しておけばいいと思えていた。
「マスター、今日は無理言って申し訳ないですね」
白い扉が開き、男の声が聞こえてきた。その男の表情を見て、碑は軽く応えた。
「ああ、佐野さんいらっしゃい」
「早い時間から、本当にすみません」
佐野は頭を下げて、申し訳なさそうに店内へと入り込んだ。
「とんでもない、営業時間内ですから、どうぞ」
碑はカウンターの席を指さした。しかし佐野は座らなかった。
「妻と娘がもうすぐ来るというので、待っていようかと思うのですが」
「いや、ほかの方が入ってきた時に変だから、座ってもらったほうが」
碑がそう言うと、佐野は
「そうですね」
と言って席に着いた。立って待っていようとするくらいだから、おしぼりはみんなが揃ってからの方がいいのではないかと、杉岡はあえて佐野におしぼりを持っていかなかった。碑も同じ気持ちだったのか、それを咎めるような素振りはなかった。
しばらくすると、白い扉が恐々と開いた。その扉の方を見て、佐野が立ち上がった。
「ごめんなさい、少し遅くなってしまいました」
佐野の横に立った妻と見られる女性は、碑に頭を下げた。そしてその後ろに緊張した面持ちで立っているのは、娘だろうという事は、話の上で理解していた。
「いらっしゃいませ、どうぞお座りください」
その言葉に反応するように三人は、娘を真ん中にして座った。
目線をあちこちに散りばめ、落ち着かない娘に、杉岡はおしぼりを差し出した。
「ありがとうございます」
娘は頭を下げて、受け取ったおしぼりで手を拭いた。
「マスター改めて紹介させてもらいます。妻の陽子と娘の香苗です」
その言葉に釣られるように、二人は碑に対して頭を下げた。
「バー、秘密の井戸のマスター、碑です。こちらこそよろしくお願いいたします」
碑は笑顔で、軽く頭を下げた。
「さて、今回は香苗さんのリクエストでバーに来てみたかったという話ですが、実際に来てみて、今はどうですか」
碑に話を振られ
「ドラマで見ているのとはまた違っていて、緊張しています」
香苗は笑顔を作るが、それは緊張のせいか、まだ固く感じられた。
「香苗は主演のアイドルが好きで、見ているうちにバーに行きたいって思ったのだよね」
母が事の経緯を、背中を押すように言った。
「そうでしたか、もう私はおじさんだから、アイドルという訳にはいかないですが、お酒はちゃんと作るので、期待していてください。
とは言っても香苗さんには、ノンアルコール・カクテルですけれどね」
碑は笑顔を見せた。香苗はそれに応えるように頷いた。
「さて、お二人はいかがいたしましょう」
両側に座る佐野と陽子にも、注文を伺う。
「私はジントニックをください」
「私はホワイト・レディを」
それを聞いて、杉岡はすぐにグラスや材料を準備し始めた。
「それでは、香苗さんにはフロリダをご準備いたしましょう」
碑はそう言うと、杉岡に続くように、準備へと入った。
カクテル・グラスが二脚、陽子と香苗の前に出されると、杉岡はビフィーター・ジンを使い、すぐさまジントニックを作り、佐野の前に置いた。
碑はオレンジ・ジュース、レモン・ジュース、それに粉糖をシェイカーに入れて、カクテルを作り始めた。本来であればアンゴスチュラ・ビターを入れるのだが、完全にノンアルコールにするために、そこは割愛した。
目の前で、初めてバーテンダーシェイクをする姿を見て、香苗はドキドキするような表情を見せた。その間に杉岡もホワイト・レディを作りはじめた。
碑の持つシェイカーのトップが取られ、カクテル・グラスに液体が注がれはじめた。
それを見る香苗の眼は、キラキラしているようにも見受けられた。
「うわぁ、ぴったり」
注がれたカクテルがグラスをほぼ多い尽くすようになっている。
続いて陽子の前に置かれたグラスにもカクテルが注がれた。
「じゃあ、香苗のバーデビューに乾杯」
佐野はジントニックを軽く持ち上げた。はじめから香苗に伝えられていたのか、香苗はグラスを軽く持ち上げるだけで、合わせようとはしなかった。
こぼれないようにと、少し緊張で震えるようなグラスは、無事に香苗の口元へと運ばれた。そして一口飲んだ香苗は微笑みを見せた。
「おいしい」
オレンジ・ジュースがメインでありながらも、それを単体で飲むこととは大きく違うことに、香苗は驚いた。
「それならば、良かったです」
碑は安堵の笑みを浮かべた。
「お酒を混ぜるのは、シェイカーでやるのですね」
「いえ、混ざりやすい物を混ぜる時は、ステアという技法を使います」
そう言うと碑はミキシング・グラスを手に取って見せた。
「確かに、ドラマの中でもそれを使っているシーンがありました」
色々なカクテルを作る技法があることに香苗は好奇心旺盛な視線を向けた。
「こっちもおいしいけれど、香苗にはまだ早いからな」
佐野はジントニックのグラスを掲げて娘に声をかけた。
「そりゃあそうですよ。
でも香苗がバーに行ってみたいなんていうから本当に驚いたのだから」
陽子はその時の様子を思い出して言った。香苗は
「だって、毎回作られるカクテルとかが綺麗で、飲みたくなるんだもの」
と嬉しそうな笑顔を見せた。
「今日はマスターに無理言って入れてもらったのだからな。
明日からは、ちゃんと受験勉強を頑張ってもらわないとな」
佐野の念を押す言葉に
「わかってます」
香苗はそう言うと、フロリダに口をつけた。
受験勉強という事は、高校三年生なのか……杉岡は何となく香苗を見て思った。佐野が特別にマスターに入れてもらったという事は、未成年だからという事なのだろう。
「私、もう一杯飲みたい」
香苗はカクテル・グラスを空にすると、思わず手を挙げてアピールした。
「私ももう一杯飲みたいから、いいですよね」
陽子は佐野に視線を送った。
「もちろん」
佐野は自分自身ももう一杯飲めるということで、それを承諾した。
「それでは、もう一杯お作りしましょう。奥様はどうなさいますか」
「アレキサンダーをお願いします」
碑に尋ねられ、陽子は応えた。
杉岡は、カクテル・グラスを二つ準備し、シェイカーを作業台へと乗せた。
碑は、モナンのカシス・シロップに紅茶と、グレープフルーツ・ジュース、粉糖を準備した。
杉岡は、カミュVSOP、エギュベルのカカオ・ブラウン、生クリームを出し、冷えたカクテル・グラスを二人の前へと出した。
各々に材料が入れられ、二人のバーテンダーが共演するようにシェイクする姿を、香苗はキラキラとした目で見ていた。
そしてその輝きは、カクテル・グラスに液体がおさまっても、消えることはなかった。
「お待たせいたしました」
差し出されたグラスに、すぐに手が伸びそうになることを、香苗は一瞬おさえた。がっつくのは良くないし、写真も撮りたい気持ちがあった。
「あの写真を撮っても平気ですか」
「もちろんです」
碑が答えると、香苗はスマートフォンを取り出し、写真に収めた。
「じゃあいただきましょう」
陽子の言葉に二人は出されたカクテルを飲み、とろけるような笑みをこぼした。
「何だか二人ともおいしそうだな。
マスター、私はグラスホッパーを」
と佐野が注文をした。その際、陽子の視線が少しだけ泳いだように思えた。
ヴォルフベルジェールのミント・リキュールにモナンのグリーンミント・シロップ、エギュベルのカカオ・ブランコ、生クリームが入れられたシェイカーが、碑によって振られた。香苗は再びシェイカーを振る姿を見ることができて、満足しているようであった。
「お待たせいたしました」
佐野の前に出されたカクテル・グラスを、思わず陽子が横からさらった。
驚くような佐野の表情をしり目に、陽子は一口飲んで、グラスを戻した。
「陽子は相変わらず、私が注文した物を」
佐野は昔を思い出すように、笑みを浮かべて言った。
「今年は香苗の受験もあって、私は飲む機会がほとんどないし、そんな時に大好物のグラスホッパーを注文されたら、そりゃあ横取りしたくなりますよ」
陽子はいたずらな笑顔を見せた。そんな表情を見て
「私、将来バーテンダーになりたい」
と香苗が思わず言った。
「どうしたのだ、急に」
佐野は思わず興奮している香苗を見て、驚くように言った。
「だって、お父さんとお母さんが、家で見せないような子供みたいなやり取りしているんだもの。
そんな光景を作れるバーテンダーって素敵」
碑は頭の中で美化されているバーテンダーという職業を思い浮かべて、思わず苦笑した。
ジョン・コルトレーンのブルートレーンが流れる中、佐野家族の笑い声が店内に響いた。